ボスニアのロミオとジュリエットの悲劇
1992年~95年に起きたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、「ロミオと
ジュリエット」を地で行く、悲しい悲劇が起こった。
ジュリエット」を地で行く、悲しい悲劇が起こった。
セルビア人のボシュコ(男性)とムスリムのアドミラは、恋人同士だった。
紛争が勃発すると、ボシュコは、サラエボのムスリム居住区にあるアドミラの
家に身を潜めていたが、セルビア人の彼は、紛争でムスリムがセルビア人に
憎悪の感情を持つようになると、アドミラの家にいづらくなり、2人はサラエボ
からの脱出を試みるが、橋の上で狙撃手に撃たれ、重なるようにして亡くなった。
この悲劇は、1993年5月18日の出来事で、享年は共に25歳であった。
紛争が勃発すると、ボシュコは、サラエボのムスリム居住区にあるアドミラの
家に身を潜めていたが、セルビア人の彼は、紛争でムスリムがセルビア人に
憎悪の感情を持つようになると、アドミラの家にいづらくなり、2人はサラエボ
からの脱出を試みるが、橋の上で狙撃手に撃たれ、重なるようにして亡くなった。
この悲劇は、1993年5月18日の出来事で、享年は共に25歳であった。
出会いと別れ
ある日、アドミラは、ある友人のパーティで、全くさえない
ある日、アドミラは、ある友人のパーティで、全くさえない
男の子ボシュコと出会います。 あまりにも 他の男と違う
真面目なボシュコに 惹かれて行くアドミラ。 2人は互いに違う
民族同士でしたが、その事に対する障害は、当時は大きくありません
でした。 4年の交際を経て、2人は結婚する約束をします。 しかし、
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まると、互いが会うことすら
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まると、互いが会うことすら
困難になって行きます。
サラエボは包囲され、丘にはスナイパーが居て、市民の射殺を繰り返し、
誰かを殺すたびに兵士は賞金を貰っていました。 ボシュコの家族は
サラエボを脱出し、亡命。 ボシュコは、アドミラの居るサラエボに
残りました。 2人は命懸けで会い、ボシュコは出会った時に
約束したように アドミラを守ろうと決意します。 隠れ家では
あったけれど、2人で居られる幸せ。 でも、そんな2人の幸せも
長くは続きませんでした。 ボシュコが、モスリム人居住区に
居るのがばれて、スパイ容疑がかかりました。 スパイ容疑とは、
拷問からの死を意味していました。
1993年5月に、2人はサラエボを脱出する為に外へ出ました。
危険地帯に入った瞬間、ボシュコが撃たれます。 ボシュコは
即死でした。 でも、ボシュコは、アドミラに話していました。
もしも、僕が撃たれても、近づいてはいけない。 君は引き返して
家族の元へ帰るんだと・・
アドミラは、ボシュコが撃たれるのを見て、やはり、駆け寄らずには
いられませんでした。 そして、銃声が・・・ アドミラも倒れ
ます・・・ でも、アドミラは、消えゆく意識のなかで、ボシュコの
元へ這って行きました。 そして、ボシュコの遺体にたどり着いた時、
腕を組んで逝った2人は、そのまま放置されました。 遺体を収容
しようとすれば、撃たれるためです。 8日後、2人の遺体が
特攻隊によって収容されたとセルビア陣営が発表。 葬儀が行なわれ
ました。 アドミラの親は、セルビアからの葬儀の提案を拒否し、
娘の葬儀に参加出来ませんでした。
「サラエボのロミオとジュリエット」と呼ばれた2人。 世界中で
紛争終結の運動が起こり、ボスニア戦争は、1995年に終結した。
ロミオとジュリエット橋とも呼ばれるヴルバニャ橋の殺害現場