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    タグ:SOS

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    宮城県女川町の離島・出島(いずしま)。 巨大津波に襲われ、島民らが一時
    孤立する事態に陥った。 外部との連絡が途絶え、不安の中で一夜を過ごした
    島民は、翌日午後には陸上自衛隊のヘリコプターで全員が宮城県石巻市に無事
    搬送された。 震災直後の混乱の中での『スピード救出』。 それを可能に
    したのは、1台の衛星電話だった。

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    その時 何が 島を救った衛星電話(宮城・女川町の出島)
    出典:河北新報

    養殖業が盛んで、釣り客にも人気の出島は人口約450人。 地震発生時は350人
    前後が島にいたと推定される。

    2011年3月11日の津波は『高さ20メートル近かった』と島民たちは証言する。
    養殖施設や漁港に係留していた船はあっという間に流され、付近の家々も壊滅。
    町災害対策本部は後日、出島で13人が死亡、11人が行方不明だと確認した。

    津波を逃れた住民たちは島の中央部の山を駆け登り、多くは山頂付近の女川四小・
    二中の校庭に避難した。 下校時間を迎えていた27人の児童・生徒も身を寄せ
    合っていた。

    気温が下がり、雪が吹き付けた。 島民は体育館や教室に入り、近くの民宿など
    から運んだ毛布にくるまった。 次第に、自分たちの置かれた深刻な状況が
    分かってきた。 情報源はラジオだけ。 電気・水道が止まり、携帯電話や
    インターネットも使えない。 飲料水は残りわずか。 夜が更けるにつれて
    不安と焦りが募った。

    3月12日早朝、外部と連絡を取ろうと教職員らは校庭の雪を払い、石灰で大きく
    『SOS 水 むせん』と書いた。 数機のヘリが上空を横切ったが、気付か
    ないのか、そのまま通り過ぎて行く。

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    『連絡方法は一つ』。 出島地区の赤坂宏介区長(70)は必死にがれきの中を
    走った。 島には町から配備された2台の可搬型衛星電話がある。 出島、寺間の
    両区長の家に1台ずつ置かれていた。 漁港に近い自宅の1台は水没してしまった。

    もう1台は寺間地区の高台に立つ植木千万夫区長(68)宅にある。 寺間地区に
    着いた時、植木さんは沖に出した漁船で一晩過ごし、家に帰る途中だった。
    『出島区長が来てる。 早く戻って』。 遠くから自分を呼ぶ住民の声を聞いて、
    植木さんは『衛星電話を取りに来たとすぐに察しがついた』。 走って戻り、
    家に無事残っていた衛星電話を手渡した。

    衛星電話は学校に運ばれ、当時女川四小校長だった今野孝一さん(51)が通信を
    試みた。 訓練以外に触れることのない衛星電話は、バッテリーが切れていた。
    近くの道路工事現場の発電機から電源を取った。 慎重にアンテナの向きを調整
    すると、受話器から発信音が聞こえる。

    今野さんは女川町や県の防災関係機関に次々と電話を掛けた。 だが、一向に
    つながらない。 少し考えて、ここは海の上だと気付いた。 掛けたのは海上
    保安庁の『118』。 『救助要請ですか』。 頼もしい声が耳に響いた。

    電話から約2時間後の午後1時ごろ、陸上自衛隊のヘリが島に降り立った。 30人
    乗りの大型ヘリ2機が、島と石巻市総合運動公園との間を何度も往復した。
    全員を搬送し終えた時は午後5時を回っていた。 島民たちは『われわれは運が
    良かった』と振り返る。 万が一に備えて数年前に配備された衛星電話。

    1台は偶然高台にあった。 学校の近くが道路工事中で、発電機が使えたことも
    幸いした。 いずれが欠けても“細い糸”はつながらなかった。

    出島は今も電気、水道が止まり、島民は昼間、がれきの撤去などで島に渡りながら、
    夜は本土で避難生活を送っている。 NTTドコモ東北支社によると、応急処置に
    よって出島で同社の携帯電話がほぼ使えるようになったのは、震災1カ月後の
    4月10日だった。

    【お勧めの一冊】


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    東日本大震災。 2011年3月11日、世界最大級マグニチュード(M)9.0のエネルギーが
    東北の大地を突き上げ、大津波が太平洋沿岸をことごとく破壊した。

    復興に立ち向かうために、あの日の事実、今の現実を後世に伝えなければならない。
    『ドキュメント大震災』。 シリーズ第1弾『その時何が』では、震災直後の混乱の中で
    断片的な情報だけが入り、詳細が不明のままとなっていた出来事を掘り下げる。

    出典:河北新報

    kataribe


    ◎その時何が(1) 屋上のSOS(石巻)

    2011年3月13日の朝刊に、宮城県石巻市の学校を上空から撮影した写真が載った。
    屋上に『SOS』の白い文字が浮かんでいる。 小さな人影が両手を大きく広げ、助けを
    求めていた。

    その学校は大街道小学校だった。 石巻工業港から北へ約1キロ。 3月11日の津波で
    1階が水没し、学校の周辺も海水に沈んだ。 2、3階に避難した住民や教員、児童ら
    約600人が孤立状態に陥っていた。 甲斐好子さん(36)は地震後、首まで水に漬かり
    ながら、近所のお年寄りや赤ちゃんを救助。 ずぶぬれになって、母親(69)と学校に
    たどり着いた。

    恐怖と不安の一夜。 上空に非常事態を象徴するヘリコプターの爆音がとどろいていた。
    夜明けが近づくと、爆音が交錯し始める。 12日朝、何機ものヘリが、上空を飛び交って
    いた。 甲斐さんら数人が屋上へ駆け上がった。 ヘリを見上げる。 『気付いて』。
    救助を求めようとの声が挙がった。 誰が発案したか甲斐さんは覚えていないが、
    教員らがB4判のコピー用紙を持ってきて、並べ始めた。 『SOS』。 風で飛ばされぬよう、
    ウレタンの破片を重りにした。



    甲斐さんはヘリに向かって必死に手を振った。 『何か物資を落としてくれないか、誰か
    降りてくれないかって…。でも、みんな飛び去ってしまった』

    約600人を飢えが襲った。 備蓄食糧はなかった。 避難者のうち子どもが約400人。
    わずかな食べ物でも、子ども達を優先した。 11日は放課後児童クラブの菓子を
    児童らに分けた。 12日、水が止まる。 住民らはスティック袋に入った砂糖をなめた。

    北村統教頭(49)は『先生方や大人は2、3日間、ほとんど食べるものがない状態。 我慢
    するしかなかった』と言う。

    水が徐々に引き始めた12日、自宅などから逃げ遅れた住民らが水に漬かりながら、
    続々と校舎に来た。 避難者は1,300人まで膨れ上がった。

    近所の中華料理店が炊き出しをしたのは14日だ。 紙コップ半分ぐらいの野菜スープを
    皆ですすった。 だが、周囲にガソリンやガスの臭いが漂い、炊き出しは中止せざるを
    得なかった。

    差し入れや買い出しで調達したわずかな食料を分け合った。 自衛隊員が19日、
    おにぎりとお湯を運んで来た。 拍手が湧き上がった。 『ごつごつした、いかにも
    男の人が握ったおにぎりだった』。 甲斐さんはその味が忘れられない。



    校舎の中では、懸命な救命、医療活動も続いていた。 石巻市立病院の看護師
    中里珠丹さん(36)は12日早朝、教員の叫ぶ声を聞いた。 『誰か看護師さんはいま
    せんか』。 1階の保健室へ行くと、ベッドに女性が横たわっている。 低体温症だった。
    毛布はない。 カーテンを体に巻き付けた。

    もう一人いた看護師と心臓マッサージを施したが、女性は間もなく、静かに息を引き取った。
    十分な治療設備はない。

    ピンセットは、ライターであぶって消毒した。 急ごしらえの救護室には昼夜を問わず、
    行列ができた。 中里さんは10日間、ほとんど寝る時間もなく、応急処置などに忙殺
    された。

    日赤の緊急医療チームがやって来たのは震災1週間後だった、と記憶する。
    『精神的にも肉体的にも、もう限界だった』



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