モスクワの人口は、16世紀の末に12万人を数えていたと言われている。
16世紀から17世紀に掛けて、ヨーロッパからロシアを訪れた使節や商人達が
様々な紀行文を残しており、ロシア人自身による当時の記録も残っている。

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16世紀の中頃イワン4世に仕えるシリベストルという僧が『家庭訓』という
書物を編んだ。 そこには、中世のロシアの人々の典型的な道徳観が示されて
いる。 『まず大切なことは神を恐れ、ツァーリや貴族や聖職者を敬い、教会に
通うことである。 両親を愛し、服従することもキリスト教徒としての義務である。
妻や子供達が間違ったことをした場合には、彼等を罰しなければならない。
しかし、いかなる罪に対しても、耳や目を打ったり、心臓を拳骨で殴ったり
すべきではない。 良い妻は宝石よりも貴重である。』 

シリベストルが非難するのは、教会の斎戒を守らないこと、同性愛、罵詈雑言を
口にすること、みだらな歌を歌うこと、占いにふけることなどである。 その他、
彼の教訓は、召使いをどう監督するか、領地をどう管理するか、1年分の食べ物を
どう貯蓄するかなどの細々とした実用的な事柄にまで及んでいる。

しかし、全てのモスクワの人達がこのような教えを守って暮らしていた訳ではない。
17世紀の前半に2度に渡ってロシアを訪れたオレアリウスというドイツ人は、
『遠くから眺めると、モスクワはクレムリンを中心に多くの聖堂の屋根がキラキラ
輝いて聖なるエルサレムのように見えるが、中に入ると、貧しいベツレヘム
(キリストの生まれた村)である』と書いている。 そして、彼は、町中では
人々が互いに聞くに堪えない言葉で罵り合っているのを耳にした(ロシアの罵詈の
凄まじには現在でも定評がある)。 悪口を禁止する発令が出ていたが、一度に
あちこちから聞こえるので、役人も取り締まる暇がなかったと言う。

キタイ・ゴロド、それに、白い町や土の町の屋根は大体が木造だったが、火事も
多かった。 町中が焼けるうような大火が1世紀に2~3度起こり、1つか2つの
街区が丸焼けになるというような火災が発生しない週はなかったという証言がある。
統計的に見て、モスクワっ子は、一生に一度は焼け出される計算だったと述べる
歴史家も居る。 要するに、『火事と喧嘩』はモスクワ名物だったらしい。

『ロシア人は概して大酒飲みの上、にんにくが大好きで、クレムリンの宮殿の
中までにんにくの臭いがした』というのは、オレアリウスの伝えるところである。
モスクワの家の建て方自体が、ヨーロッパ人旅行者の目には異様に映った。
1戸づつ敷地をたっぷりと取ってあり、家の周りが菜園に使われていた。 市内の
道路でも舗装されたところは、ごく僅かで、夏の乾いた時には、土埃が舞い、
雨が降るとぬかるみのようになった。 都市というよりは、大きな村のように
見えたという。

『夜になると街路ごとに道路は閉鎖され、番人が立った。 夜の間に明かりを
持たずに往来する者は盗賊と見なされ、捕縛された。 それでも盗みと人殺しは
後を絶たず、1晩のうちに、数人の死体が見つかることは普通だった。 ツァーリの
即位などで恩赦令が出て因人が一斉に出獄した時などは、一夜で100人以上も
殺された』と書いているのは、元外交官でモスクワからスウェーデンに亡命した
コトシーヒンという人物である。

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コトシーヒンは、17世紀の中頃、使節館署で働いていたため、クレムリンの
内部事情に通じていた。 『ツァーリの幼い皇子と全ての皇女が外出する時には、
周囲をすっかり布の幕で覆って人目に付かぬようにした』とか、『皇女は決して
臣下に嫁がせず、改宗を恐れて、外国の王家にも出す習慣がないため生涯を
涙のうちに泣き暮らすことになる』などとも述べている。 もっとも、
『ツァーリの后を外国からの使節にも会わせないのは、教養のなさを隠す
ためである』というような叙述にはいささか悪意が感じられない訳ではない。

西欧人の観察では、ロシアでは肉付きの良い女性ほど美人と考えられていた。
『貴族ともなると、白粉を顔一面に塗って紅をたっぷりと頬に付け、20人、
ないし、30人の召使を引き連れて、夏は馬車、冬はソリで外出したという。
男女を問わず、身分の高い者は徒歩では出歩くことは出来なかった。 そして、
大勢の召使を抱えることが豊かさの証とされた。 満足な給料を与えられない
召使の多いことが犯罪の温床になった』と指摘している外国人も居る。

むろん、人間の社会であるため、モスクワの暮らしが暗黒ずくめだった筈がない。
1年を通して、正教会の祭日には、各所で縁日が立って見世物の出る賑わいが
あり、街区ごとに雪投げ、石投げ、素手の殴り合いなどの遊びがあり、所属
する教区教会の祝日には講を組んで酒宴を催すというような楽しみ方もあった。

1日のうちの正式な食事は昼食で、その後にゆっくりと昼寝をするため、真昼時
には、町の人通りが消えてしまうというような19世紀まで続いた独特の習慣も
既に成立していた。 

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