宋王朝は最終的に、モンゴル帝国を築いたフビライ・ハーンによって滅ぼされた。
1279年フビライ・ハーンは、元王朝を建て、1292年と1297年に、台湾の住民を
従えようと遠征軍を送ったが、成功しなかった。 これ以後、澎湖諸島に住み着く
漢人も増え、やがて漢人の官僚が統治することになった。 澎湖諸島は、元王朝の
辺境の地となったが、先住民と交易するだけで、島には定住しなかった。

16世紀ともなると、福建の漁民や貿易商人は、漁場や交易の地としての台湾の
価値に目を向けるようになっていた。 しかし、1368年、元に代わって中国
大陸を支配した明王朝は、台湾島を中国の一部とはみなしていなかった。

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【倭寇と移民】
15世紀、澎湖諸島の他の台湾島に拠点を置く貿易商人も居た。 次第に海賊と
化した武装商人団もあって、16世紀になると、海賊事件が増えた。 商船の
船荷を奪ったり、中国大陸の沿岸や朝鮮半島南端を襲撃したのである。 漢人が
中心だが、日本人や朝鮮人も居た。 14世紀半ばから15世紀に掛けての日本人を
中心とした海賊が倭寇と呼ばれたのにならって、やはり、倭寇と呼ばれた。
漢人の海賊の中では、林道乾と林鳳が最も有名である。 彼らは、16世紀中頃に
暴れ回った海賊で、いずれも台湾に拠点を作った。

海賊が出没する一方で、貿易も盛んで、商人は陶磁器、布、塩等の積荷を、
台湾で鹿皮や魚等と交換した。 鹿皮は、日本へも運ばれた。 日本の戦国
武将が身に付けた鹿皮の陣羽織は、台湾の皮で作ったものである。 また、
貿易での利益を当て込んで、福建省から台湾への移民も増えた。 当時、日本も
台湾との貿易には関心を持っており、日本の商船が出たり、豊臣秀吉が1593年には
台湾の『高山国』に宛てて書簡を出したりしている。

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