多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:首都

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    首都ドゥシャンベ
    地球の歩き方にドゥシャンベは、「歩いて回れるコンパクトな街」との
    記載があったため、街を歩いて見ることにした。 ドシャンベのメイン
    ストリートは、個人商店が中心であるため、それなりに活気がある。
    タジキスタンの首都と言っても、人口は68万人程度しかないため、
    歩いて街を全て見て回ることが出来る。

    ドゥシャンベ駅
    IMG_4114

    IMG_4112

    【ドゥシャンベ】
    IMG_4103
    IMG_4104
    IMG_4108
    IMG_4105
    IMG_4106
    IMG_4107
    IMG_4110
    IMG_4111
    IMG_4116

    タジキスタンでは、持参したWiFiルーターの対応国だったのだが、電波が全く
    入らず、しかも、SNSは全てブロックされているため、日本であらかじめ
    インストールしていたVPNを初めて使うこととなった。

    ドゥシャンベは、実はスーツを着た人が多いため、非常にビジネスチックな
    街であった。 海外からのビジネス客も、中国人ばかりで、日本人は1人たり
    とも見掛けなかった。 緑の多いドゥシャンベの街並みは、この場所で
    内戦があったことなど一切感じさせない程穏やかであった。

    ソ連の面影
    旧ソ連内では、自動販売機「ガゾィローフカ」が当たり前の様にあったのだが、
    この自販機は、コップを洗って使い回すというスタイルであるため、通常は、
    マイコップを持ち歩いて使うのだが、ロシアでは、既に完全に姿を消した
    この自販機がタジキスタンでは、まだ現役である事自体、驚きであった。
    タジキスタンでは、この他にも、アイスクリームの「スタカンチク」も普通に
    販売している。

    IMG_4102

    IMG_4117

    ドゥシャンベの街は、想像していたよりも暗い感じはなく、かなり開放的。
    但し、中央アジアは、どこも独裁色が強く、タジキスタンでも、至るところに
    大統領の肖像画が飾られてた。 中心街は、重厚なソ連式の建物が連なって
    いるため、旧ソ連邦内で最もソ連を感じさせる国かも知れない。

    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    カザフスタンの首都は?
    カザフスタンの首都は、1996年までは、国内最大都市であるアルマアタに
    ありましたが、その後、アスタナに遷都されたため、首都ではなくなりました。
    その際に、市の名称も日本語では、カザフ語の「アルマトィ」に改められました。
    「アルマアタ」は女性名詞なので、情け容赦なく格変化をするのですが、
    「アルマトィ」は、複数名詞の外来語と同じ扱いになるため、格変化はありません。

    【アルマアタ】
    IMG_4024
    IMG_4025
    IMG_4036
    IMG_4038
    IMG_4040
    IMG_4042
    IMG_4044
    IMG_4045
    IMG_4046

    首都名の変更
    アルマアタは「緑の街」と呼ばれているため、街中に緑が非常に多い。 その後
    乗った白タク運転手の話によると、これらの樹木は1917年の革命前までに植え
    られたとか。 樹齢約100年となるため、この様に大きな街路樹となっております。
    現在のアルマアタは、首都を機械的に移されてしまったため、残った元政府機関は、
    その概ねが、アルマアタ市の巨大な行政機関となっています。 アスタナへの遷都の
    理由は、諸説ありますが、中国との国境に近過ぎるのと、カザフスタンのほぼ中央
    部分に位置しているアスタナの方が、ロシアとの交流を促進するためには適している
    ためと言うのが通説です。 尚、アスタナは、アルマアタからは約1200km北に
    位置しており、つい先日、都市名称が「ヌル・スルタン」へと変更されました。

    【追悼 デニス・テン選手】
    IMG_4047
    IMG_4055
    IMG_4056
    IMG_4058
    IMG_4060
    IMG_4062
    IMG_4063
    IMG_4064
    IMG_4068

    ヴィクトル・ツォイ
    IMG_4019

    何故かアルマアタの街角にヴィクトル・ツォイの銅像がアルマアタの街中に建って
    いますが、この場所にこの銅像がある理由は、この場所で映画のラストシーンが
    撮影されたため。 手に炎を持っているのは、最後のシーンでライターでタバコに
    火をつけたか。

    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    カウナスは、第二次世界大戦、すなわち、ソ連邦への併合以前までは、
    リトアニアの首都であったため、『杉原千畝記念館』は、元々は、
    日本大使館であった。 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、
    多くのユダヤ人たちは隣国リトアニアへ逃げ込んだが、ソ連によるリトアニア
    併合が確実となり、彼らには日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという
    方法しか残されていなかった。

    >>杉原千畝 ~六千人の命のビザ~

    杉原は、苦悩の末、外務省の訓命に反し、『人道上、どうしても拒否出来ない』
    という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても、独断で通過査証を
    発給した。 それは、人道、博愛精神第一という大きな決断であった。 その後、
    戦況が悪化したため、日本大使館は閉鎖、カウナス市内を転々としながら、更に
    ビザの発給を続けた。 合計で約2,000枚のビザを発給したものの、本国からの
    命令に逆らったとして、その後は、ルーマニアヘと送られ、後に、外務省をも
    追われる事となる。

    IMG_1094
    IMG_1111
    IMG_1102
    IMG_1106
    IMG_1097
    IMG_1099
    IMG_1100
    IMG_1105
    IMG_1101

    カウナス駅に今でも杉原千畝のプレート残されている。 日本大使館が閉鎖され、
    最後の最後までビザを書き続けたのがカウナス駅。 千畝は、その後、汽車で
    ベルリンへと向かった。 ユダヤ人たちが日本の通過ビザを欲しがったのは、日本へ
    行きたかったからではなく、日本を経由して、第三国へ脱出しかたったためで、
    当時は、シベリア鉄道に乗って、日本を経由して、オランダ領のキュラソーに
    行くしか残された道はなかったのである。

    その後、杉原は、ユダヤ人たちからは非常に感謝されたが、日本での扱いは、
    外務省に無断で勝手にビザを発給したとして、名誉剥奪のまま無念の死を遂げた。
    2000年に日本政府から正式に名誉回復がなされたのは、杉原の没後14年目、
    そして生誕100年という節目のことであった。

    【お勧めの一枚】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    5月のカナダの祝日と言えば、ヴィクトリアデー。 この祝日は、イギリスの
    ヴィクトリア元女王の誕生日を祝う日。 ビクトリア元女王の誕生日は1819年
    5月24日で、毎年5月25日より前で一番近い月曜日がヴィクトリアデーとなる。



    【ヴィクトリア女王】
    18歳で即位してから63年7ヶ月在位し、歴代イギリス国王の中ではエリザベス2世に
    次いで2番目に長かったと言われている。 世界各地を植民地化・半植民地化して
    繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世は『ヴィクトリア朝』
    と呼ばれている。

    6281269

    カナダはイギリス連邦王国のうちの一つであり、オーストラリア・
    ニュージーランド・ジャマイカなど、カナダを含め、現在16カ国が属している。
    これらの国はそれぞれ独立しているのだが、現在でもイギリスの王位がそれぞれの
    国の君主の地位にある。

    カナダの首都は、ヴィクトリア女王が選定したものだが、この時、彼女は目を
    つぶって地図にピンを突き刺した場所を首都に選び、それがオタワだったという。
    現在、オタワは、英語圏とフランス語圏の境界線上にあるため、首都以外にも、
    両言語話者の融和の象徴としての役割も果たしている。

    ヴィクトリアデーを含めた週末は、3連休となるため、May Long Weekend
    (メイ・ロング・ウィークエンド)と呼ばれることもある。 日本でいう夏至の
    ように、ヴィクトリアデーを境に夏が始まると言われている。 また、各地で
    様々なイベントが催されたり、屋外プールや夏の営業時間などが開始される日と
    なっている。

    【お勧めの一品】

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    モスクワとという名前が文献に初めて登場するのは、1147年である。
    モスクワからほど近いスズダリの街に、ユーリーという公が本拠地を置いた。
    元々、古いロシアの支配者は、バイキングの血を引くリューリックの子孫に
    限られていた。 ユーリーの父のウラジミールもその一人で、キエフ大公として
    諸侯の上に君臨していた。 ところが、ユーリーがスズダリやロストフを領有
    するようになった頃から、キエフを中心とする現在のウクライナ地方に対して、
    ロシア平原の東北部の政治的優位が目立つようになった。

    166064227

    ユーリーは、しばしば長駆してキエフの王座を狙ったことから、ドルゴルーキー
    (手長公)というあだ名が付いたほどだった。 そのユーリーが当時政治的に
    手を結んでいた又従兄弟にあたるスヴャトスラフ公(オペラでうたわれる
    『イーゴリ公』の父親)に向かって、『モスクワに来られたし』 と酒宴に
    招いたのが、この年の事であった。

    ある小川が北からモスクワ川に流れ込む河口の三角地帯に、ユーリー大公が
    新たに周囲400mあまりの木柵を築き、堀をめぐらせたのが1156年である。
    その中の広さは、たった1haだった。 この時、ようやくモスクワは町として
    成立したのだが、モスクワの発祥を示す時には、文献初出の1147年をもって
    出発点とみなすこととなっている。 近いところでは、1997年に創建
    850周年際が行われた。

    111304

    赤の広場を出て西北に向かう市内随一の目抜き通りであるトゥヴェルスカヤ
    通りの右側に、ユーリー・ドルゴルーキー公の銅像が立っている。 派手な
    赤い色のモスクワ市庁舎(旧モスクワ総督公邸)の向かい側である。 もっとも、
    モスクワを自分の居城に定めてモスクワ大公国初代の君主になったのは、
    ユーリーから数えて5代目にあたる末裔のダニール公だった。

    1300年前後のことである。それまでに、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍
    (ロシアでは、タタールと呼ばれている)がモスクワに攻め入ってモスクワ砦の
    木柵も焼き払われるというような事件があり、1293年には、再びタタール勢が
    来襲してモスクワは廃墟になった。 その後、ロシア全体がモンゴル軍が建国
    したキプチャク・ハン国(金帳汗国)に服属することとなるのだが、ロシア国内
    では、諸侯間の激しい内紛が繰り返され、当時は小さな街に過ぎなかった
    深い森に囲まれたモスクワが、その後、ロシアの首都となるのである。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ベルギーは、フランスとドイツに挟まれており、国として成立したのは、
    1830年である。 国名は、古代にここに定住したケルト人の一派
    『ベルガエ人』に因んでいる。 この地域は、西暦前50年頃以降、ローマ、
    フランク、スペイン、オーストリア、フランス、オランダ等の勢力に次々と
    制服された。 2度に渡る大戦の際には、ドイツの攻撃を受け、占領された。

    provincemap

    この国には、フラマンとワロンという2つの大きな地域圏がある。 2つの
    地域の大きな違いは、言語である。 フラマン地域圏は、北部と西部にあり、
    ここに住んでいるのは、オランダ語(フラマン語)を使用している。
    そのうちの多くは、フランス語も知っている。 ワロン地域圏は南部にあり、
    ここの人々は、日常生活にフランス語を使用しているが、オランダ語も
    話せる人もいる。 また、ワロン地域圏の中には、ドイツ語を使用している
    グループもある。 外国に支配されていた時期が長かったにも関わらず、
    それぞれの地域圏に住む人々は、自らの歴史と文化に強い誇りを持ち
    続けている。

    grandplace401

    人々は、信仰と生活の上でカトリック教会と固く結びつき、教会は、
    いくつもの政党に強い影響力を持っている。 カトリック教徒ではない
    人々は、非宗教的な政党に所属している場合が多い。 これらの内部事情
    にも関わらず、近代と現代のベルギーは、ヨーロッパの経済的統合を目指す
    上で指導的な役割を果たして来た。 EU(欧州連合)の政策決定の本部は、
    ベルギーの首都に置かれている。 ベルギーは、EU加盟国として大きな
    市場に販路を持ち、また、EUに投下される財源から一定の助成を受けて
    いる。 これらの利点によって、ベルギー国民は高い水準に達することが
    出来た。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ピョートル大帝は、湿地の広がるネヴァ川の両岸に、新しいロシアの首都である、
    サンクト・ペテルブルグを建設した。 ロシアには、海への出入口と『西欧への窓』が
    必要と考えたからだった。 数千人の人命を犠牲にしながら、1712年頃には、新しい
    首都の街並みは、おおよそ完成した。

    peter

    宮殿群と尖塔の街並みは、ヨーロッパ古典様式を反映したもので、多数の外国人
    建築家らによって建設された。 第二次世界大戦では、ドイツ軍が3年間に渡って
    この街を封鎖したため、100万人以上が死んだ。



    街の名称も、時代と共に変わり、1914年から1924年までは、ペトログラード、その後、
    1991年までは、レニングラードと呼ばれたが、その後、再びサンクト・ペテルブルグに
    戻された。

    bridge14

    【都市の構造】

    サンクト・ペテルブルグは、ネヴァ川につながる細い川や運河の周りに造られて
    いる。 ネヴァ川の左岸には、中心部と向き合う形でヴァシリエフスキー島や
    ペトロパブロフスク要塞がある。 ネフスキー大通りには、ネヴァ川から南へ放射状に
    伸びる数本の大通りの中でも、最も主要な通りとなっている。

    2022766

    【ペトロパブロフスク要塞】

    ペトロパブロフスク要塞は、1703年に建設され、 サンクト・ペテルブルグで最初の
    建造物で、その中央には、ペトロパブロフスク大聖堂がそびえ立っている。 細く高く
    伸びたその斜塔は、モスクワの聖ワシリー大聖堂と同じく、この街のシンボルに
    なっている。

    py5

    【ペトロドゥヴァレツ】

    フィンランド湾に面したペトロドゥヴァレツは、ピョートル大帝がとでも気に入っていた
    夏の宮殿だった。 フランスのベルサイユ宮殿や庭園をモデルにしたこの宮殿は、
    1714年に造られ、その後、ラストレリによって、更に増築された。 噴水の大滝は、
    その後、多数の彫刻で飾られた。 宮殿と庭園は第二次世界大戦中に荒廃したが、
    その後、美しく修復された。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ