東日本大震災。 2011年3月11日、世界最大級マグニチュード(M)9.0のエネルギーが
東北の大地を突き上げ、大津波が太平洋沿岸をことごとく破壊した。

復興に立ち向かうために、あの日の事実、今の現実を後世に伝えなければならない。
『ドキュメント大震災』。 シリーズ第1弾『その時何が』では、震災直後の混乱の中で
断片的な情報だけが入り、詳細が不明のままとなっていた出来事を掘り下げる。

出典:河北新報

kataribe


◎その時何が(1) 屋上のSOS(石巻)

2011年3月13日の朝刊に、宮城県石巻市の学校を上空から撮影した写真が載った。
屋上に『SOS』の白い文字が浮かんでいる。 小さな人影が両手を大きく広げ、助けを
求めていた。

その学校は大街道小学校だった。 石巻工業港から北へ約1キロ。 3月11日の津波で
1階が水没し、学校の周辺も海水に沈んだ。 2、3階に避難した住民や教員、児童ら
約600人が孤立状態に陥っていた。 甲斐好子さん(36)は地震後、首まで水に漬かり
ながら、近所のお年寄りや赤ちゃんを救助。 ずぶぬれになって、母親(69)と学校に
たどり着いた。

恐怖と不安の一夜。 上空に非常事態を象徴するヘリコプターの爆音がとどろいていた。
夜明けが近づくと、爆音が交錯し始める。 12日朝、何機ものヘリが、上空を飛び交って
いた。 甲斐さんら数人が屋上へ駆け上がった。 ヘリを見上げる。 『気付いて』。
救助を求めようとの声が挙がった。 誰が発案したか甲斐さんは覚えていないが、
教員らがB4判のコピー用紙を持ってきて、並べ始めた。 『SOS』。 風で飛ばされぬよう、
ウレタンの破片を重りにした。



甲斐さんはヘリに向かって必死に手を振った。 『何か物資を落としてくれないか、誰か
降りてくれないかって…。でも、みんな飛び去ってしまった』

約600人を飢えが襲った。 備蓄食糧はなかった。 避難者のうち子どもが約400人。
わずかな食べ物でも、子ども達を優先した。 11日は放課後児童クラブの菓子を
児童らに分けた。 12日、水が止まる。 住民らはスティック袋に入った砂糖をなめた。

北村統教頭(49)は『先生方や大人は2、3日間、ほとんど食べるものがない状態。 我慢
するしかなかった』と言う。

水が徐々に引き始めた12日、自宅などから逃げ遅れた住民らが水に漬かりながら、
続々と校舎に来た。 避難者は1,300人まで膨れ上がった。

近所の中華料理店が炊き出しをしたのは14日だ。 紙コップ半分ぐらいの野菜スープを
皆ですすった。 だが、周囲にガソリンやガスの臭いが漂い、炊き出しは中止せざるを
得なかった。

差し入れや買い出しで調達したわずかな食料を分け合った。 自衛隊員が19日、
おにぎりとお湯を運んで来た。 拍手が湧き上がった。 『ごつごつした、いかにも
男の人が握ったおにぎりだった』。 甲斐さんはその味が忘れられない。



校舎の中では、懸命な救命、医療活動も続いていた。 石巻市立病院の看護師
中里珠丹さん(36)は12日早朝、教員の叫ぶ声を聞いた。 『誰か看護師さんはいま
せんか』。 1階の保健室へ行くと、ベッドに女性が横たわっている。 低体温症だった。
毛布はない。 カーテンを体に巻き付けた。

もう一人いた看護師と心臓マッサージを施したが、女性は間もなく、静かに息を引き取った。
十分な治療設備はない。

ピンセットは、ライターであぶって消毒した。 急ごしらえの救護室には昼夜を問わず、
行列ができた。 中里さんは10日間、ほとんど寝る時間もなく、応急処置などに忙殺
された。

日赤の緊急医療チームがやって来たのは震災1週間後だった、と記憶する。
『精神的にも肉体的にも、もう限界だった』



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