震災の直前、JR仙石線野蒜駅(宮城県東松島市)を同じ時刻に発車した2本の
列車があった。 ともに4両編成の仙台行き上り普通列車と石巻行き下り快速列車。
海沿いを走行中に地震に襲われ、2011年3月12日の朝刊は『野蒜駅付近を走行して
いた列車と連絡が取れないとの情報がある』と伝えた。 乗客の明暗が分かれた。

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その時何が 消えた列車(東松島)
3月11日午後2時46分。 2本の列車は、時刻表通り、野蒜駅からそれぞれの目的地へ
出発した。 窓の外は雪が舞っていた。

仙台に向かう上り列車の乗客は、会社員や小学生ら約50人。 駅を出てすぐ、携帯
電話が一斉に鳴りだした。『宮城沖で地震発生』。 緊急地震速報だった。ほぼ
同時に車両が揺れ始めた。 あちこちで悲鳴が上がった。 石巻専修大3年
菊谷尚志さん(20)は思わず手すりをつかんだ。 『大人2人に揺さぶられて
いるようだった』

車両が緊急停止した場所は駅から約700メートル。 近くには東松島市指定避難所の
野蒜小があった。

『乗客を野蒜小に避難させてください』。 仙台のJRの指令担当者から無線指示を
受けた乗務員の案内で、乗客は約300メートルの道のりを歩いた。 誘導された
体育館には、既に100人以上が避難していた。

【5年が経過した野蒜駅前】


午後3時50分ごろ。『津波が来たー! 2階に上がれー!』。 入り口近くにいた
菊谷さんは、男性の叫び声を聞いた。 人が殺到した近くの階段を避け、ステージ
奥の階段へ走った。 そこも行列だった。 順番を待つ間に水は足首まで達した。

現実感がなかった。 『映画みたいだ』と思った瞬間、近くの窓ガラスが次々に
割れ、泥水が一気に流れ込んできた。 後ろにいた女の子やお年寄りが声もなく
流されたが、なすすべはなかった。 必死で2階に上った。

JR東日本仙台支社によると、少なくとも乗客1人が体育館で亡くなったとみられる。
混乱の中、安否を確認できた人数は約20人。 2カ月が過ぎた今も、体育館に避難
した乗客数すら『不明』のままだ。

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津波は線路上の上り列車も押し流し、車内は1メートル以上浸水した。 菊谷さんは
『もし車内に残っていたら、死んでいただろう』と振り返る。

下り列車は野蒜駅から約600メートル走って緊急停車した。 幸運にもそこは十数
メートルの高台だった。

『とどまった方が安全だ』。 地元に住む年配の男性客が、乗客を外へ誘導しよう
とした若い乗務員に助言した。 乗客と乗務員約60人は、最も高い位置にある
3両目で待機することになった。

高台は津波の襲来を免れたが、濁流にのまれる建物や車が窓越しに見えた。
『上り列車は無事だろうか』。 石巻市の和泉徳子さん(51)は、野蒜駅で
すれ違った列車の安否が気掛かりだった。

乗客の男性たちが水に入り、流された家の屋根に乗って漂流していた70代ほどの
男性を救出した。 震えるお年寄りを座席に横たえ、体をさすって温めた。
『暗くなる前に一口ずつどうぞ』。 ある女性客が自分の弁当を周りに勧めた。
それを機に和泉さんら他の乗客も手持ちの総菜や菓子、水を取り出した。 自然に
分かち合いの輪が生まれた。

1人だけ、心細そうな男の子がいた。 大人がさりげなく見守り、励ました。
夜、母親が水をかき分けて車両にやって来た。 『みんな自分のことのように
ホッとした』と和泉さん。 その晩、男の子は母の腕で眠った。 夜は長く、
寒かった。 乗客は詰めて座り、互いの体温で暖を取った。

【5年が経過した東松島市】


12日朝。 乗客ら全員が車両を脱出、線路を歩いた後、トラックの荷台に揺られ、
指定避難所の公民館へ向かった。

『一人一人ができることをやった。 みんなの力で乗り越えられた』。
和泉さんは今、そう思っている。

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