2015年5月末に約4年3ヶ月ぶりにJR仙石線が営業を再開し、それに合せて新たに
街開きを行った野蒜駅前。 駅前には何もないという話は聞いてはいたものの、
余りにも工事が進んでいなかったため、絶句。。 現状、野蒜駅前には、この駅舎
以外、一切何もなく、建物がひとつもない。 線路を山側に移設した新野蒜駅の
ホームからは、旧野蒜駅、現在のファミリーマートが見えているが、新駅舎に登る
ための階段がないため、道路を使って旧野蒜駅まで行こうとすると、坂道を下って
約1キロ程度の道のりとなる。
野蒜地区は、約10mの高さの津波が襲い、何もかも流されてなくなったため、
山側のこの場所への集団移転が決まっているものの、移転工事がかなり遅れている
ため、災害復興住宅が完成するまでには、これから2年程度掛かる。 野蒜地区、
宮戸地区の被災者の一部は、東松島市と災害協定を結んでいる美里町に建設された
仮設住宅で丸4年間生活をしていたが、その仮設住宅も、今年の3月で全てなく
なった。
石巻の被災者の事は何も伝わってはいない。 宮城県の被災状況は、関東を
はじめとする、その他の地域には、情報が5%も伝わってはいない。 よって、
関東方面からわざわざ被災地まで行っている人達は、全てネットから情報を得て
いる。 写真だけだと余り伝わらないと思うが、360度何もないこのような景色
ばかりが続く。
東北最大の海水浴場である野蒜海岸では、約500名が津波の犠牲となったため、
震災から丸4年経過した今でも海開きをしていない。 これから先、10年後に
海開きが出来るのかすらも分からない状況となっている。 現在、この海岸
部分では、約15mほどの新たな防波堤の建設が行われており、3年程ほど前
までは、それと同じ高さの瓦礫が同じ場所に積み上げられていた。
この場所は、本州では、最もアメリカ大陸に近い場所であり、元々津波が到達
しやすい場所であるため、25年ほど前にも、防波堤のかさ上げ工事を行ったが、
そのかさ上げした5m程度の防波堤は、一切何の役にも立たなかった。
被災後に宮城県内で海開きを行った海水浴場は、5ヶ所のみとなっている。
旧野蒜駅付近
東松島市内の復興状況は、他の被災地を比べると、恐らく、一番遅れており、
この場所は地盤沈下により、3年4ヶ月もの間、海水に沈んでいたため、
陸地に戻って、まだ1年も経過してはいないが、それでも中央メディアでは、
全く報道されないため、東松島に来る人は、かなり稀。
元々、野蒜港は、「明治3大築港」と呼ばれ、明治初期に建設された、日本でも
指折りの港だったが、開港から数年後に台風によって破壊されたため、その
代わりに、横浜に港が開かれた。 よって、横浜開港◯◯周年は、野蒜港が
消滅して◯◯周年と言っているのとほぼ同じ。
東名駅前も、野蒜駅前同様、5月末に路線を山側へと移転し、新しい街を
建設中だが、やはり周辺には、1軒たりとも建物がない。 旧東名駅からは、
歩いて10分以上も掛かる坂道の上にあるため、ここに街を移転しても、それを
嫌がる人が出るかも知れない。 わざわざ新しく建設した筈の道路も、かなり
遠回りとなるため、高齢者には非常に住みづらい新しい街が建設されている。
被災前の東名では、潮干狩りが非常に有名だったが、津波災害後は、いつ
潮干狩りが再開するのかすら分からない。
【野蒜小避難訴訟】 仙台地裁、現地調査へ 時期や範囲を協議 2015.07.17
東日本大震災で東松島市野蒜小体育館に避難し津波で亡くなった住民と児童
計3人の遺族3人が、避難誘導に過失があったなどとして市に計約5,300万円の
国家賠償を求めた訴訟の口頭弁論が2015年7月16日、仙台地裁であった。
計3人の遺族3人が、避難誘導に過失があったなどとして市に計約5,300万円の
国家賠償を求めた訴訟の口頭弁論が2015年7月16日、仙台地裁であった。
弁論では、遺族側が裁判所に現地調査を求めていることが分かった。 地裁は、
現地調査を実施する意向で、実施時期や範囲について現在協議を進めている
という。
現地調査を実施する意向で、実施時期や範囲について現在協議を進めている
という。
訴えによると、地震発生後、亡くなった3人のうち2人は野蒜小体育館に避難
した後、津波で犠牲になった。 もう1人は同校児童で下校後にいったん
体育館に避難したが、教員から他の児童の保護者に引き渡され、自宅付近で
車を降りた後に津波で亡くなったとしている。
した後、津波で犠牲になった。 もう1人は同校児童で下校後にいったん
体育館に避難したが、教員から他の児童の保護者に引き渡され、自宅付近で
車を降りた後に津波で亡くなったとしている。
【瑞巌寺の塩害】
国宝にも指定されている瑞巌寺は、伊達家の菩提寺であり、伊達政宗の正室、
陽徳院愛姫が祀られているが、その瑞巌寺の景色が一変していて、絶句。。
樹齢400年を超える杉の木林が、塩害により概ねなくなった。 松島は、津波
被災地の中では、一番ましな被災度合いであったものの、この付近は、1メートル
程度の津波を被ってしまったため、日本三景松島のお土産屋も長期に渡って
休業を余儀なくされた。
その後の復興は順調であったが、塩害の被害は、かなり深刻。 毎年夏の
灯篭祭りの時期には、この杉林の下でろうそくを灯して、幻想的な景色を見る
事が出来たが、今では、こんな寂しい景色になった。 瑞巌寺では、過去の
観光客を呼び戻そうと、これまで非公開であった陽徳院愛姫の廟所を期間
限定で公開している。
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