東日本大震災が発生した2011年3月11日、最大震度7の激震、大津波警報の
発令を受けて、人々は避難のため走り出した。 予想を超える巨大津波は、
必死で逃げた人たちをも飲み込み、多くの犠牲者を生んだ。
宮城県気仙沼市魚市場から西に約400メートルの幸町地区では、東日本
大震災の後、積み重なったがれきの下から100台以上の車が見つかった。
避難しようとした車が内陸部につながる市道に殺到し、大渋滞が発生。
身動き出来ない車の列に津波が襲い、多くの人が車内で犠牲になった。
目の前を何台もの車が流れて行く。 ドンドン、ドンドン。 助けを求め、
車内から懸命に窓をたたく音が耳に届いた。 『今行くぞ』と叫んではみた
ものの、どうすることも出来なかった。
2011年3月11日、気仙沼市幸町2丁目の無職畠山覚四郎さん(79)は夢中で
よじ登った隣家の物置の屋根に立ちすくんでいた。 自宅で大地震に
見舞われた畠山さんは、すぐに妻かつ子さん(77)と隣に住む足の不自由な
伯母を車に乗せて逃げた。 防災無線は大津波警報を伝えていた。
内陸部につながる気仙沼大橋に向かう市道は、渋滞でほとんど前に進めない。
目の前の大川から突然水があふれてきた。 『まずい』『徒歩で逃げるしか
ないか』 自宅に引き返して車を止めた時、今度は海からの津波が押し寄せ、
車を降りたかつ子さんと伯母が流された。 車内にいた覚四郎さんは偶然、
車ごと隣家の物置に押し付けられたことで助かった。
かつ子さんと伯母は数日後、遺体で見つかった。 自宅近くには、高台の
笹が陣地区がある。 覚四郎さんは『坂が急で歩くのは大変だと思って車を
使ったが、裏目に出た。 2人を死なせたのがつらい』とうなだれる。
離島の気仙沼大島で旅館を営む堺健さん(60)も、市魚市場近くの知人宅で
地震に遭い、軽乗用車で気仙沼大橋へ向かった。
幸町でやはり大渋滞に巻き込まれた。 バックミラーを見る。 がれきが壁の
ように折り重なり、3メートル近い高さの塊になって迫る。 塊には後続の車も
交じっていた。
とっさに右の脇道に入った。 幸運にも車は大破した建物などのがれきの上に
乗って、浮いた。 窓から抜け出し、民家の屋根に飛び移った。
堺さんは『なぜ助かったか分からない。 車で移動しようとしたのは間違い
だった』と反省する。 大渋滞が発生した市道は、気仙沼港と大川の間を
東西に走る。 気仙沼大橋を渡れば、最短距離で内陸部に向かうことが出来る。
だが、津波は、この道を『挟み撃ち』にした。
気仙沼署によると、震災後、市道周辺には何層にもがれきが重なり、下層
からは建物に押し込まれた車100台以上が見つかった。 その多くに、避難
途中で犠牲になったとみられる遺体があったという。
佐藤宏樹署長(49)は『渋滞時、署員が車を捨てて逃げるよう呼び掛けたが、
誰も出てこなかった。『ここまでは波も来ないだろう』『車を置いていけない』
という思いが悲劇を拡大したのではないか』と指摘する。
震災前に市が定期的に行って来た防災講座では、市中心部の住民には徒歩で
逃げるよう呼び掛けて来た。 東北大災害制御研究センターの今村文彦教授
(津波工学)は『本当に車での避難が必要な高齢者、乳幼児らがいち早く
安全な場所に避難出来るよう、徒歩で逃げられる人は車の使用を控えるべきだ』
と話す。
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