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    タグ:遠田郡

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    宮城県北部、遠田郡に位置する涌谷町は、日本で初めて金が算出された地として
    知られている。 しかし、昭和32年まで、この日本初の産金地が現代ではどこに
    当たるのかは謎とされ、特定はされていなかったのだという。 いかにして、
    この地は日本初の産金地になり得たのだろうか。 金にまつわる歴史ロマンを探し
    涌谷町を訪れた。



    宮城県北部に位置する涌谷町。 JR涌谷駅から程近い場所に広がる
    『わくや万葉の里』は、今から1200年以上も前、東大寺の大仏の完成に大きく
    貢献した。 日本初の産金地、陸奥国小田郡(現在は遠田郡涌谷町)の歴史と、
    金にまつわる太平ロマンを肌で感じることが出来るスポットだ。

    広大な敷地の一角に建てられた『太平ロマン館』内にある歴史館をまず見学して
    おきたい。 多彩な常備施設を通じて、日本における産金黎明期のさまざまな
    『謎』について、その答えが見つかるからだ。 例えば、東大寺の大仏造立の
    ピンチに際し、900両の黄金を献上した百済敬福とは、どんな人物だったの
    だろうか。



    古代における金の採取は、金鉱脈を求めて金鉱石の採掘を行うのではなく、河川
    などで発見できる『砂金掘り』だった。 水流で不純物が洗い流された砂金は、
    純度が非常に高く、しかも、採取方法が単純だ。 そうした採金の知識や技術を
    日本にもたらしたのは、百済の滅亡になどの時に朝鮮半島から日本へ渡って来た
    人々ではないかと考えれている。

    敬福は、百済王家の末裔であり、太平年間に陸奥守としてこの地に赴任した。
    日本初の金の採取に際して、大いにリーダーシップを発揮したのではないだろうか。

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    日本古代史に特筆される『太平産金』以後、陸奥国には、金を租税として、中央
    政府に納めることが義務付けられていた。 大仏造立に使われた金の量は、約146
    キロで、献上された小田郡産の金900両は、約13キロと、全体の10分の1も満たし
    てはいなかった。 そこで、更に金を調達するために、金の税制化がおこなわれた。
    陸奥国多賀郡から北の民は、4人で年間1両の金を採取し、納税することが義務付け
    られた。

    これにより、陸奥国の産金地は、北へと広がり、さながら、ゴールドラッシュの様相
    となった。 しかし、平安時代以降、産金地が宮城県北部から岩手県南部一体に
    移って行くにのに伴い、小田郡の産金記録は消滅。 中世以降には、小田軍が
    遠田郡に編入されたことで、小田郡の場所すら忘れ去られていた。

    そんな中、後世の人達は、いかにして天平の産金地を推理したのだろうか。
    ここにも魅力的な謎解きロマンがある。 江戸時代、手掛かりの1つとされたのが、
    東大寺の大仏に金が献上された際、越中国(現富山県)の国守であった大伴家持が
    詠んだ次の万葉歌の一首だ。

    『天皇の御代栄えむと東なるみちのく山に金花咲く』

    この歌の『金花咲く』から、宮城県石巻市の金華山を産金地とする説が広まる中、
    19世紀初め、伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の国学者、沖安海が、家業の染型紙の
    商いのために涌谷町を訪問、『この地には、金神社と呼ばれる神社があり、古い瓦も
    出る。 ここ黄金神社こそが天平の産金地であり、古代の神社跡ではないか』と
    いった内容の論文を記し、荒廃した黄金山神社の復興事業に尽力したという。

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    黄金山神社は、現在も『わくや万葉の里』の史跡ゾーンの中枢に、厳かに鎮座して
    いる。 境内には、大伴家持が詠んだ一首を刻んだ万葉歌碑もある。 因みに、
    万葉集に登場する地名の中で、『みちのく山』は北限に位置している。

    古来、『蝦夷(えみし)』の地と呼ばれていた東北は、中央から見ると、野蛮な
    イメージがあったが、太平の産金時代だけは、都から、仏や神に祝福された、
    黄金色に輝く憧れの地と見られていたのかも知れない。

    明治時代以降は、黄金山神社を含む一帯を地質学や考古学の観点から研究し、この地
    こそが太平の産金地であることを検証するための多角的なアプローチが、各分野の
    研究者によって行われた。 その結果、黄金山神社周辺から出土する古い瓦の中に、
    『天平』の文字が刻まれた瓦があることが判明した。

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    そして、昭和32年、本格的な発掘調査が行われ、出土した瓦や建物跡から、天平の
    時代に、六角円堂と思われる仏堂がこの地に建てられていたことが分かった。 瓦の
    デザインは、陸奥国国府だった多賀城や、陸奥国国分寺に用いられた瓦と酷似して
    おり、仏堂が国家の建物であったということを示している。 仏堂は、恐らく、
    産金を仏に感謝し、更なる産金を祈るためのものであったと考えられる。

    また、遺跡の中を流れる小川では、わずかながら砂金が今でも採れる。 これらの
    事実から、涌谷の黄金山神社のある場所が、天平産金、すなわち、
    『日本初の産金地』であるとようやく確定したのだった。

    涌谷をルーツとする宮城県のゴールドラッシュは、中世、後世、近世、そして、
    現代へと産金地を北へ広げ、採掘熱をますます高揚させながら発展して行く。
    地理的な近さ故に、光り輝く金色堂で有名な平泉の『黄金文化』と宮城県の金を関連
    付ける研究者も居る。

    金にまつわるエピソードが密接に絡み合いながら、古代のロマンを今に伝える
    涌谷町。 ここには、『みちのく黄金郷』の原点がある。

    【お勧めの一冊】


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    3.11東日本大震災 に参加中!

    今回は、2003年7月26日に発生した『宮城県北部連続地震』の最大の被災地、
    宮城県美里町をレポート致します。 石巻の中心部からは、車で約20分程度、
    東松島市の中心部からは10分程度、大崎市との境界線付近の場所になります。
    この場所は、10年程前までは、南郷町という自治体だったのですが、隣町の
    小牛田町と合併をしてしまったため、町の名前が美里町へと変更されました。
    元々は町の中心部であったものの、市町村合併により、何もかも全て町の
    中心地である小牛田へと持って行かれてしまったため、今では、何もなくなり
    ました。

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    当時は、周辺全ての家屋が合計4回もの大規模な連続地震により、倒壊、または、
    半壊したのですが、それでも、人口が少ないという安易な理由により、被災地指定
    からは外されました。 よって、瓦礫の処理は自腹。 地震発生から数ヶ月以内で
    あれば、町がその費用の一部を負担するという話だったのですが、この周辺の
    家屋は、農家が多いため、非常に大きい家屋が多く、納屋や牛小屋等も付いて
    いるのが当たり前であるため、瓦礫処理の費用は、1軒に付き、最低でも60~
    200万円程度でした。 その当時も、災害義援金をあちらこちらで募集していた
    ものの、実際は、びた一文足りとも現地には届かず、仮設住宅も丸2年で撤去
    されてしまったため、瓦礫の処理だけで預金を使い果たした人達は、どこかへと
    引っ越して行ってしまいました。 よって、この周辺は空き地だらけ。

    この地区の特徴としては、地震が極端に多いため、その後ブロック塀や瓦屋根の
    再建を断念した家屋が殆どであるため、ブロック塀と瓦屋根が殆どないのが
    最大の特徴と言えるかも知れません。 また、余りにも地震が多過ぎるため、
    電柱が1本たりとも真っ直ぐには立っておりません。 現在、河川工事により、
    堤防の補強が行われておりますが、この付近は、堤防以外、坂道が一切ないため、
    この堤防が切れてしまうと、逃げる場所がありません。 よって、地域住民に
    とっては、この堤防が命綱となっています。

    元々町の中心部であったため、その昔、地方創生予算を利用して、このような
    取って付けたようなログハウスがあるのですが、一体こんな田んぼのド真ん中に
    誰が宿泊するものやら?と言いたくなるほど。 このログハウスのすぐ隣には、
    東松島市の仮設住宅が丸4年間もあったのですが、つい先日撤去されました。
    旧南郷町と旧矢本町、旧鳴瀬町(現在の東松島市)との間には、12年前の同じ
    被災地という理由により、災害協定が結ばれていたため、野蒜・宮戸地区の
    避難者たちは、このすぐ近所にある体育館に長期間避難をしていました。
    木の柵のようなものは、元々は、ブロック塀だった場所で、多い時には、体に
    感じない地震を含めると、1日に約300回程度もの地震が起こるため、この付近の
    住民は、震度5強程度であれば、特に話題にはしません。

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    ここからさほど遠くない場所には、町営施設である『花野果市場』があり、朝採れた
    ばかりの新鮮な野菜が、100円程度で手に入ります。 国道356号線沿いにあり、
    道の駅でもないのに、かなりの売上高を誇っております。 三陸自動車道の
    松島北インターチェンジからは車で15分で来る事が出来るため、日本三景松島で
    魚を購入した後は、美里まで足を運んでみては。 ここでは、1,000円もあれば、
    野菜、果物、花が、沢山購入出来ます。

    美里町のバラの生産は、30年ぐらい前から始まったものなのですが、その理由は、
    減反政策により、米が思うように作る事が出来ずに、休耕地が多かったため、
    その農地を転用したのが始まり。 国が押し進めた減反政策に従うと、余剰米の
    調整のために、米が思うように作れなくなるものの、その見返りは特にないため、
    遊休地をそのまま遊ばせて置くと、単なる税金の無駄使いとなるため、近所の農家
    同士が話し合い、バラの生産を始め、現在のバラの生産高は、東北1位となっています。

    また、この付近では、イチゴの生産が盛んに行われており、『仙台イチゴ』として
    出荷されています。 宮城県産イチゴのオリジナルのブランドは、『もういっこ』と
    なっており、『花野果市場』で販売して生産品は、全て付近の農家で生産したもの
    ばかりなので、地産地消の代表格となっております。

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    その他、美里町内には、『黄金澤』の酒蔵があり、市町村合併をする前までは、
    米の生産高が、宮城県内で第二位であったため、日本酒の製造も盛んです。
    ひとめぼれ、ササニシキ、まなむすめ、全て宮城県オリジナルの一等米となって
    います。

    鯨大和煮の缶詰は、被災後に石巻港から工場が移転して来たため、石巻産として
    販売をしている鯨の缶詰は、全て美里産となっております。 中に入っている野菜は、
    工場移転の際の美里町との協定により、全て美里産の野菜を使っております。
    尚、その移転してきた工場は、女川原発から30キロ圏内にあるため、実際に原発で
    事故が起きた際には、再度移転しなければならないでしょう。

    こちらの農家レストラン『はなやか亭』では、美里町の郷土料理、『すっぽこ汁』を
    堪能出来ますが、すっぽこ汁は、他地域では、『おくずがけ』と言い、法事の際の
    定番料理となっています。



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    本日のお題は、『市町村合併』

    我が宮城県美里町は、当時の宮城県知事の掛け声の下、平成の大合併により、
    強引に誕生した町。 当初は、遠田郡全ての町である、涌谷町、小牛田町、田尻町、
    南郷町全てと、すぐ隣の旧志田郡全ての町である、鹿島台町、松山町、三本木町との
    合併を目指しましたが、旧志田郡全ての町が、大崎地区の中心地である、古川市との
    合併を選択。 同じ遠田郡内の田尻町も古川市との合併を選択し、その後、
    古川市は、意味不明な『大崎市』という名前になりました。

    最後に残った、涌谷町、小牛田町、南郷町との3町合併で、『遠田市』という市の
    名称まで決定していたものの、町の中心地をどこに置くかで、涌谷と小牛田が
    激しく対立した結果、その戦いに敗れた涌谷が合併協議からギリギリのところで
    離脱しました。

    結果として、仕方なく残りの2町だけ合併をする事になりましたが、この時点で、
    合併後の人口が28,000人余りしか居なかったため、市に昇格をするための条件である
    『人口3万人』を割り込んでしまい、市ではなく、町のまま留まる事になりました。

    合併後の名前を大々的に募集した結果、何故か非常に意味不明な『美里町』と
    なりました。 よって、地元では、今でも『美里』とは誰も言いません。 取って
    付けたような無理やり感満載の町の形。 そもそも、美里って何だよ?と言いたく
    なるような変な名前。 小牛田町と南郷町が合併すると、何がどうなって
    美里町になるのかが疑問。 元々、5年以内に大崎市と合併をする計画であった
    ため、誰も町の名前なんて気にも止めていなかったのだが、8年以上も経過した
    今でも、そのままの状態。

    町の中心部である、小牛田への一極集中は、ますます増すばかり。 市町村合併で、
    良くなった点は、1つもなく、むしろ、悪くなる一方。 南郷地区は、元々、
    涌谷警察署管内であったため、運転免許を取る際には、すぐ隣の石巻運転免許
    センターへ行っていたのだが、市町村合併後は、100%古川管内である小牛田の
    お陰で、非常に遠い古川運転免許センターへと管轄が移されました。 市町村
    合併前までは、石巻運転免許センターまでは、車で20分程度で行けたところを、
    古川運転免許センターの場合は、45分程度も掛かるため、非常不便。 ハッキリ
    言って、倍以上遠くなりました。

    美里町は、水道料金が日本国内でも12を争うぐらい高いのですが、それは、
    合併後に、公共料金全てを高い方に合わせたため。 元々、南郷地区は、
    江戸時代にも領土問題で争いになった場所なので、領土問題でもかなりの
    デリケートゾーン。 石巻、仙台、古川、矢本を都合良くつまみ食い程度に
    完全に使い分けているため、車で15分も掛かる小牛田へは、基本的に行きません。
    バス路線も、市町村合併前までは、涌谷が終点だったのにも関わらず、合併後は、
    全て小牛田が終点に。 買い物の多くを涌谷でしているこちらと致しましては、
    不便極まりなし。 美里町民バスは、どこまで乗っても100円という超破格値
    だったのだが、遠い古川駅まで1時間半を掛けて、100円で行けますと言われても、
    普通に車で行けば、25分で到達出来ます。

    むしろ、買い物の殆どを石巻でしている南郷地区の場合は、石巻へのバスが
    あった方が便利で近い。 住民の意思を完全に無視して、市町村合併をすると、
    こんな大失敗を仕出かすと言う見本のような町が、宮城県美里町。 ここが
    自分の地元ですと言われても、一切そんな実感すら沸かない名前となってしまい
    ました。 すぐ隣の大崎市と合併をすれば、宮城県第二の都市に成り上がれるため、
    早めの合併を強くお勧め致します。

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