戦国時代のちょっといい話。

戦国武将の中でも、随一の人気を誇ると言っても過言ではない伊達政宗と真田幸村。
この伊達軍と真田軍は、慶長20年(1615年)に起きた、『大坂夏の陣』で東西
両軍に分かれて激突しました。

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伊達家随一の家臣、片倉小十郎重綱(後の重長)が率いた東軍の伊達軍は、この時、
西軍であった、真田軍と道明寺であいまみえる事となりました。 この
『道明寺の戦い』は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために
行われたもので、この時、大阪城の外堀は、既に埋められていたため、豊臣軍は、
城を出ての戦いを余儀なくされました。


毎年10月初旬に開催されている『鬼小十郎まつり』

この戦に参戦した片倉小十郎は、現在の宮城県白石市にある、白石城の2代目当主。
慶長20年(1615)5月6日未明より、片倉隊は、大坂方の後藤又兵衛、薄田兼助らと
大乱戦となります。 この時、小十郎自らも敵4騎を切り倒した他、片倉隊だけ
でも、討ち取った首が『93』と記録されています。 翌7日も片倉隊は『60』の
首を挙げたと云わっており、この2日間における、片倉隊の奮戦は凄まじいものが
ありました。
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こうした活躍により、重綱は『鬼小十郎』と称されています。 その一方で、
真田幸村は、奮戦及ばず、この戦で命を落としています。 長男の大助は、
大坂城で同じく命を落としていますが、実は、自らの死を覚悟した幸村は、自らが
戦った、敵将である片倉小十郎を見込み、予め他の子息達を託していました。
これを快く引き受けた、小十郎は、幸村の子供たちを自分の領地である、白石へと
呼び寄せました。 この時白石に来たのは、阿梅、阿菖蒲、おかね、大八の4人。

後に、阿梅は小十郎の後添えとなっている他、阿菖蒲は伊達政宗の正妻、愛姫の
実家である田村家第31代当主定広に嫁ぎ、また、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、
仙台藩領内に領地を与えられて、仙台藩士に取り立てられています。

その直系の子孫が、現在の『仙台真田家』となっています。 現在の宮城県
白石市には、真田家ゆかりの地が沢山あります。 来年度の大河ドラマは、
『真田丸』となっているため、その前に、白石を訪れて、あらかじめ予習をして
おくのも、良いかも知れません。

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その時の両軍の激突の様子を再現しているのが、大人気の戦国バトルゲームの
『戦国BASARA』。

【お勧めの一枚】


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