イギリスは当初、主権を中国に返還しても、行政権をイギリスが持ち続ける
という方式も考えていた。1982年9月24日、北京の人民大会堂で、マーガレット・
サッチャーは鄧小平との会談に臨んだ。 フォークランド紛争に勝利して自信に
満ちたサッチャーは、意気揚々と北京に乗り込んだが、そこで手痛い挫折を
味わった。
イギリスが香港を条約によって正式に得たということ、香港の繁栄はイギリスが
築いたということを堂々と主張するサッチャーに対して、鄧小平は大いに怒り、
『爆撃しろ』という言葉も吐いたという。
サッチャーが香港に関するイギリスの法的な立場を強調したことに、鄧小平は
一向に関心を示さなかったという。 中国人の目から見れば、イギリスが香港
統治の根拠としている南京条約・北京条約・新界租借条約は、強制しされた不平等
条約であり、中国人としては香港を取り戻すことはナショナリズムに触れる問題
であった。
この後両国は交渉を重ねるが、結局イギリスは香港統治の継続を断念し、1984年
12月19日に中英共同声明が正式調印され、イギリスは1997年7月1日に香港を中国に
返還すること、そして返還後の香港では『一国二制度』が実施されることが約束
され、香港返還問題は決着を見た。
尚、1997年に租借期限を迎えたのは、新界地区のみであり、期限なしで割譲された
香港島と九龍半島については、理論上この日を期限とする必要はない。 しかし、
香港の発展はこの三地区を跨いで進められており、道路や地下鉄網だけではなく、
啓徳空港の滑走路も新界と九龍の双方に跨っているため、新界のみを返還するのは
事実上不可能であり、全ての香港が一括して返還されることになったのである。
中英両国は、全ての香港の返還に基本合意したが、1984年の共同声明調印から
1997年の返還までの過渡期と言われる時期の香港政治は波乱万丈であった。 特に
民主化問題を巡って、両国は対立を繰り返した。 1997年の返還自体は、
スムーズに行われ、『一国二制度』方式の実践が始まった。
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