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    タグ:農奴

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    6世紀になると、黒海の北の平原に居たスラブ人がドナウ川に到達した。
    ビザンチン帝国はこの地域にいくつもの要塞を建設していたが、スラブ人の
    勢力は強く、モエシアとトラキアはスラブ人の侵入を受けた。

    7世紀になると、トルコ系の言語を話すアジア系のブルガール人がこの地域に
    侵入して来た。 ハンと呼ばれる指導者に率いられたブルガール人たちは、
    熟練した戦士たちで、モエシア防衛のために送り込まれたビザンチン軍を
    たちまち打ち破った。

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    やがてブルガール人とスラブ人たちは、相互に婚姻を結ぶようになり、
    スラブ語が共通言語となった。 681年、ハンのアスパルフは、ブルガリア
    北東部のプリスカを首府とする第一次ブルガリア王国を建国した。 王国内に
    置かれた10の州は、それぞれ大貴族たちに統治されることになった。

    この頃から人々の階級の分化が進み、ポヤールと呼ばれる地主たちは、農奴と
    呼ばれる土地を持たない農民たちから、収穫量の一定割合を強制的に徴収する
    ようになった。

    ブルガリア王国は、ビザンチン帝国から頻繁に攻撃を受けた。 811年、ハンの
    クルムの率いるブルガリア軍は、ビザンチン軍を打ち破り、皇帝ニケフォロスを
    戦死させた。 クルムは勢いに乗じて、コンスタンチノープルに迫った。
    クルムの後継者たちは、王国の領域を拡大して、西はセルビアとマケドニアの
    一部、北は現在のルーマニアの一部にまで及んだ。

    863年、ハンのボリス1世は、キリスト教に改宗し、臣下たちにも改宗を強要した。
    この頃、キリスト教の指導者内には、教義をめぐる激しい論争が続き、教会は
    ローマ教皇を首長とするカトリックと、ビザンチウムの大司教を中心とする
    ギリシャ正教に分裂した。

    ボリス1世は教皇に、ブルガリアに大司教を置くことを求めたが、拒否されると、
    ローマの教会と絶縁して、ギリシャ正教の教義を採用した。

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    10世紀初頭には、ブルガリアはバルカン半島内で最強で、裕福な国家に
    なっていた。 スラブ人とブルガール人は完全に融合して単一のブルガリア人
    となり、ギリシャ人やアルメニア人の商人たちまでが領内の都市に定住し始めた。

    コンスタンチノープルとの接触で導入されたビザンチン文化は、ブルガリアの
    美術や文学や教育を刺激した。 10世紀はじめ、伝道師クレメントは、
    ブルガリアではじめての識字学校を開き、一種のアルファベットを人々に教えた。
    この文字は、クレメントの教師名にちなんで、キリル文字と呼ばれるようになった。

    ブルガリア王国とビザンチン帝国との関係は密接だったが、893年に国王と
    なっていたシメオンは、ビザンチン皇帝軍を打ち破って、マケドニアとトラキアを
    王国領に編入した。924年、ブルガリアは、セルビアを占領して併合した。

    927年シメオンが死ぬと、ブルガリアは弱体化し、969年、北東からロシア人が
    侵入して来て、ブルガリア王国の一家を捕虜にした。 これを自国への脅威と
    考えたビザンチン皇帝ヨアネス1世チミスケスは、ロシア人を攻撃して撃退し、
    ブルガリアの東半分を帝国領に併合した。

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    1300年代頃、ボヘミアの宗教指導者は、カトリック教会と法王の、膨大な
    権力と財力に疑いを抱くようになった。 ボヘミアのカトリック聖職者の多くは、
    宗教改革運動に賛同した。 チェコ人は、聖職者を支持したが、ボヘミアにいる
    殆んどのドイツ人は、法王を支持した。

    1378年のカレル4世の死後、チェコ人とドイツ人の間に衝突が起こった。
    プラハ大学総長ヤン・フスは、法王の権威に反抗した。 フスは、チェコ人に
    とって、神聖ローマ帝国とドイツ権力からの解放の象徴であった。 しかし
    1415年、カトリック側は、フスを捕らえて裁判に掛け、火あぶりの刑に処した。

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    フス処刑は、その後20年におよぶ宗教と民族戦争の切っ掛けとなった。
    チェコ人のフス派(ヤン・フス支持派)は、カトリック教会派に対して、
    プラハをはじめ、各地で戦った。 フス派軍を率いたチェコ人将軍ヤン・
    ジシュカは、ドイツの街や修道院、教会を破壊した。 ジシュカの戦闘が
    原因で沢山のドイツ人がボヘミアから逃げ出した。

    ローマ法王は、ボヘミアを異教徒の地と見なして、十字軍をボヘミアに向かわせた。
    十字軍を率いたのは、ハンガリー王であると同時に、ボヘミアの王位を継ぎたいと
    望んだシギスムンドである。 しかし十字軍は、優れた戦略家のジシュカの軍に
    敗れた。

    数年間、ボヘミアでは、激しい戦闘が続き、ボヘミアの王位は事実上、空白と
    なった。 あまりに酷い破壊に、フス派内部は戦闘的な急進派と、平和主義の
    穏健派に分かれた。 フス派の分裂を利用して、穏健派と組んだローマ法王は、
    急進派を一気に破った。

    戦争と破壊に失望したボヘミアの人たちは、1458年に穏健派の指導者である、
    イジー・ポジェブラドをボヘミア王に選び、法王と和解しようとした。 イジー
    王は、後継者もなく1470年に亡くなった。 その後、ポーランドから国王を
    迎えたが、王の力は弱く、権力ある土地貴族は、都市や農村に支配権を及ぼした。

    1487年に土地貴族たちは、農奴制をつくり、この制度の下、チェコ人の農民は、
    領主の合法的な所有物として土地に縛りつけられた。

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