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    タグ:西スラブ

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    ポーランド語は、チェコ語、スロバキア語と同じ西スラブ系言語となっており、
    第二次世界大戦以降、教育が普及したため、ポーランド語は文語口語とも
    標準語化されたが、地域的な方言は今も残っている。 例えば、シュロンスク
    地方は、ポーランド語とドイツ語の混成語となっている。 カルパート山脈の
    ゴラーレ人も独特の方言を持っている。

    ポーランド人にとって、文学は民族の誇りを表現する重要な手段となっている。
    この国の最初の文学作品は、歌と語りによる叙情詩と叙事詩であった。 国民の
    キリスト教改宗後は教会も民衆も、ラテン語で文学を書くことが多くなった。

    15世紀の中頃までには、ラテン語に代りポーランド語が文学言語となった。
    16世紀の詩人、ヤン・コハノフスキーは、ラテン語とポーランド語と両方を
    使った。 ミコワイ・レイ(1505~1569年)は『ポーランドの父』と呼ばれ、
    ポーランド語だけで詩と散文を書いた。 それ以降も歴史、宗教、詩などの
    分野で重要な作品が多く現れた。



    ポーランド文学は、19世紀になると、ますます重要性を増した。 詩人たちは、
    分割と外国人支配に抵抗して、祖国の文化と愛国心を鼓舞した。 アダム・
    ミツキエヴィッチは、独立の闘志コシチューシコを歌った叙事詩『パン・
    タデウシ』で祖国への深い愛情を表現した。 ヘンリク・シエンキェヴィッチは
    小説『クォ・ヴァディス』で1905年に、チェスワフ・ミウォシュは詩の作品で
    1980年にそれぞれノーベル文学賞を受賞した。

    作家たちの多くは、外国に亡命し、他の国の文化にも重要な貢献をした。
    ヨゼフ・コンラッド・コジェニョフスキは、イギリスへ移住し、ジョゼフ・
    コンラッドのペンネームで多くの海洋小説を書いた。

    ポーランド生まれのアイザック・シンガーは、ユダヤの伝統的な神話や伝説を
    作品化した。 ジャージー・コジンスキも同じくアメリカ合衆国へ移住した
    作家だが、第二次世界大戦中のポーランド人たちの苦難を小説『ペインデット・
    バード』に表した。

    ポーランドの共産主義政権は、権力を握っている間は作家やマスコミに大きな
    制約を課したが、多くの作家たちは、作品を地下で出版し続けた。 現在の
    ポ-ランドは東欧で最も出版業の盛んな国のひとつであり、3000近くの雑誌と
    新聞を発行している。 年間の書籍販売数は、2億部で、この中には共産主義
    時代には入手出来なかった大衆小説も含まれている。

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    考古学者の説では、現在のポーランドとなっている地域に人類が住み着いたのは、
    少なくとも20万年前だという。 だが、この最古の住人については、殆ど何も
    分かっていない。 約1万5000年前に、河川の流域に初めて集落が出来た。
    西暦1世紀、スラブ民族が東から、この国の中部にと北部の低地地域に移住した。

    スラブ民族の一派であるポラニエ人(平原の住人)は、ヴァルタ川流域にグロティと
    呼ばれる小さな村落をいくつも建設した。 低地や平原は外敵の攻撃を防ぎにく
    かったので、ポラニエ人は、居住地の周辺に堅固な木の壁を作った。

    ポラニエ人は、壁の外側の土地で穀物を生産し、家畜を飼育した。 グロティの
    住人は、農産物や手工芸品を、中ヨーロッパに住む他のスラブ人グループと
    交換した。

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    何世紀もの間、スラブ人達は、西ヨーロッパの出来事と無縁の生活を続けた。
    ヨーロッパ南部を基盤とするローマ帝国の軍隊は、西暦100年頃までに広大な地域を
    征服し終わっていた。 ポーランドのバルト海沿岸地域は、道路によってローマの
    諸都市と結ばれていたが、ローマ帝国が東ヨーロッパのスラブ人達を征服したことは
    一度もなく、キリスト教の信仰をドイツに広めたカトリック教会の伝道師達も、
    ポラニエ人を改宗させることは出来なかった。

    ポーランド地域の人口が増加するにつれて、スラブ人達は、いくつかのグループに
    分かれた。 西暦200年から500年に掛けて、東スラブ人達は、現在のベラルーシ、
    ウクライナ、ロシアとなった地域に移動した。 ポラニエ人を含む西スラブ人達は、
    将来ポーランド、チェコ、スロバキアと言われる地域に定住した。

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