もうすぐ3月11日がやって来る。 最大被災地出身の関東在住者にとっては、
心中穏やかではない。 過去に類を見ない未曾有の大震災が起きた時、被災地からは
遠く離れた場所に居た。 但し、その場所は、子供の頃から慣れ親しんだ土地である
ため、テレビに次々に映し出される映像は、どこも見覚えのある場所ばかり。

gkh7201

最初に目に飛び込んで来たのは、仙台空港が津波に飲まれて、水没するところ
だった。 次に見たのは、仙台市内が津波に飲まれるところ。 仙台市内には、
一ヶ所だけ海水浴場があるが、その付近は、道が狭く、しかも、一本道しかない
ので、道路事情が悪いことも知っていた。 次々と津波に流される車や家を見て、
早く逃げて欲しい気持ちと、あの場所に居たら、もう助からないことも同時に
分かってしまう自分が居た。

東日本大震災は、かなり昔から、『30年以内に99%の確立で必ず起こる大地震』
として、東北大学が予想していた大地震。 よって、例え、震度7(マグニチュード
9.0)であったとしても、津波さえ来なければ、ここまで被害が拡大することも
なかった。 地震がかなりの頻度で起こる地域であるため、地震慣れし過ぎて、
避難しない人が多いことも知っていた。

11031904b

次に目に入ってきたのは、東松島市の惨状。 正に自分の地元。 JR仙石線が
行方不明になったというニュースだった。 津波が襲った後、仙石線の電車は、
一方が津波に飲まれて大破、もう一方は、高台に緊急停車して助かったが、
当初は、どちらも乗客は全員死亡と伝えられた。 学校の屋上では、『SOS』を
掲げた人たちが映し出されたが、すぐ近所に航空自衛隊があるため、何とかなる
だろうと思っていたが、その航空自衛隊ですら、津波に飲まれて、完全に機能が
停止したため、屋上などに取り残される人たちが続出した。

地震が発生した翌日には、福島第一原発で事故が発生したため、福島県全体が
完全に通れなくなった。 東日本大震災が発生した翌日、最大被災地で自分の
地元である石巻で、取材のための通訳の依頼が入ったのだが、この原発事故の
影響により、結局は行けなくなった。 当初は、米軍と共に行けば、何とか
石巻まで行けるとの話だったのだが、結局のところ、余りの被災度合いのため、
最終的には、行けないこととなった。

explosion

その後もテレビでは、連日、東日本大震災のことばかり伝えたが、関東の方では
輪番による、計画停電が始まった。 福島での原発事故による影響が関東でも
如実に現れた形が、この計画停電だった。

被災当時、さいたま市大宮区に住んでいたのだが、大宮区は、埼玉県の経済の
中心であるため、大宮区全体での停電は避けなければならないという理由により、
大宮駅を境に、東口と西口とが別々の時間帯で計画停電が実施された。 この時
には、関東全域が同じような計画停電を実施しているのだと思い込んでいたのだが、
実際に計画停電を行った地域は、半分にも満たず、横浜市、川崎市、千葉市等
では計画停電は実施されなかった。

計画停電初日、大宮区東口地域は、午後7時から午後10時までの時間帯で計画
停電が実施されたため、会社から帰宅した時には、電気がなかった。 帰宅前に、
近所のスーパーにも寄ったのだが、停電により、閉店していた。 近所の
コンビニなどでは、被災当初こそ計画停電中は営業を停止していたものの、
数日も経たない頃には、ろうそくや懐中電灯のようなものを使って、停電中でも
営業が再開された。 カップラーメンやパンなどの食料品には、『各自〇〇個まで』
のような購入制限が付けられた。 これは、流通事情が極端に悪くなったため、
一時的に、食料の入荷が滞ったためであった。

2ghjk3

東日本大震災が発生した翌日、変わらず出勤となったのだが、誰一人として、
被災地を心配する人間は居なかった。 むしろ、原発事故の話ばかりで、
津波被災地は、完全に無視された。 自分の実家付近が被災地となったため、
会社側にとりあえず実家に帰りたい旨を伝えたところ、仕事を辞めてから行く
ように言われた。 この時点でも、かなり愕然としたのだが、関東は関東で大変
なので、仕方がないと自分に言い聞かせた。

その後も、原発事故の影響により、東北道、東北新幹線共に、完全に通行止めと
なったため、実家に帰れる目処すら立たなかった。 東日本大震災から1ヶ月
ぐらい経過してようやく、高速バスが極一部だけ復活したのだが、その運賃は、
仙台まで片道6,000円超の通常よりも割高な運賃だけだった。 これ以外の
交通手段は、緊急処置として羽田空港から仙台空港まで飛んでいた飛行機
のみだった。 車で仙台に行く場合も、福島が通れないため、新潟と山形を
経由して被災地入りする人たちが続出した。

いつでも帰れる場所だと思っていた自分の地元は、いつ帰れるのかすら分からない
遠い場所になった。 実際に、自分の地元である石巻に帰れたのは、新幹線が
ようやく福島まで再開したゴールデンウィークになったからだった。 被災当時、
親が携帯を所持していなかったため、連絡が一切とれない状況がゴールデンウィーク
まで続いた。 実家に何度電話しても電話は通じなかったが、後で知ったところに
よると、母親は隣町にある姉の家に避難をしていた。

テレビで何度も映し出されていた自分の地元は、変わり果てていた。 変わり果てた
と言うよりも、地獄絵図そのものであった。 大宮駅に到着して、最初に掛けられた
声は、『カラオケ如何ですか?』だった。 新幹線でものの2時間程度の場所
なのに、余りにも違過ぎる現実を目の当たりにして、悔しいや悲しいを通り
越して、呆然とした。 

海外でも、フクシマの原発事故の事は、大々的に報道されたが、使われていた
画像は、どれもこれも津波被災地の宮城県のものだった。 報道されている内容
自体が、ウソだとすぐに分かった。 大袈裟な噂ばかりが一人歩きを始めた。

東日本大震災では、福島の事ばかりが語られるが、実際は津波被災地の方が凄惨な
状況であるため、津波被災地にももっと目を向けて欲しい。

【被災当初の宮城県の様子】


2016年2月10日現在、警察庁がまとめたところによると、東日本大震災による
一連の余震での死者も含め、死者15,894人(宮城県9,541人、岩手県4,673人、
福島県1,613人、茨城県24人、千葉県21人、東京都7人、栃木県4人、神奈川県4人、
青森県3人、山形県2人、群馬県1人、北海道1人)、行方不明者2,562人と
なっている。

【お勧めの一冊】



>>トップページに戻る



クリックをお願いします☆
にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村