多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:蝦夷

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    宮城県北部、遠田郡に位置する涌谷町は、日本で初めて金が算出された地として
    知られている。 しかし、昭和32年まで、この日本初の産金地が現代ではどこに
    当たるのかは謎とされ、特定はされていなかったのだという。 いかにして、
    この地は日本初の産金地になり得たのだろうか。 金にまつわる歴史ロマンを探し
    涌谷町を訪れた。



    宮城県北部に位置する涌谷町。 JR涌谷駅から程近い場所に広がる
    『わくや万葉の里』は、今から1200年以上も前、東大寺の大仏の完成に大きく
    貢献した。 日本初の産金地、陸奥国小田郡(現在は遠田郡涌谷町)の歴史と、
    金にまつわる太平ロマンを肌で感じることが出来るスポットだ。

    広大な敷地の一角に建てられた『太平ロマン館』内にある歴史館をまず見学して
    おきたい。 多彩な常備施設を通じて、日本における産金黎明期のさまざまな
    『謎』について、その答えが見つかるからだ。 例えば、東大寺の大仏造立の
    ピンチに際し、900両の黄金を献上した百済敬福とは、どんな人物だったの
    だろうか。



    古代における金の採取は、金鉱脈を求めて金鉱石の採掘を行うのではなく、河川
    などで発見できる『砂金掘り』だった。 水流で不純物が洗い流された砂金は、
    純度が非常に高く、しかも、採取方法が単純だ。 そうした採金の知識や技術を
    日本にもたらしたのは、百済の滅亡になどの時に朝鮮半島から日本へ渡って来た
    人々ではないかと考えれている。

    敬福は、百済王家の末裔であり、太平年間に陸奥守としてこの地に赴任した。
    日本初の金の採取に際して、大いにリーダーシップを発揮したのではないだろうか。

    0204map

    日本古代史に特筆される『太平産金』以後、陸奥国には、金を租税として、中央
    政府に納めることが義務付けられていた。 大仏造立に使われた金の量は、約146
    キロで、献上された小田郡産の金900両は、約13キロと、全体の10分の1も満たし
    てはいなかった。 そこで、更に金を調達するために、金の税制化がおこなわれた。
    陸奥国多賀郡から北の民は、4人で年間1両の金を採取し、納税することが義務付け
    られた。

    これにより、陸奥国の産金地は、北へと広がり、さながら、ゴールドラッシュの様相
    となった。 しかし、平安時代以降、産金地が宮城県北部から岩手県南部一体に
    移って行くにのに伴い、小田郡の産金記録は消滅。 中世以降には、小田軍が
    遠田郡に編入されたことで、小田郡の場所すら忘れ去られていた。

    そんな中、後世の人達は、いかにして天平の産金地を推理したのだろうか。
    ここにも魅力的な謎解きロマンがある。 江戸時代、手掛かりの1つとされたのが、
    東大寺の大仏に金が献上された際、越中国(現富山県)の国守であった大伴家持が
    詠んだ次の万葉歌の一首だ。

    『天皇の御代栄えむと東なるみちのく山に金花咲く』

    この歌の『金花咲く』から、宮城県石巻市の金華山を産金地とする説が広まる中、
    19世紀初め、伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の国学者、沖安海が、家業の染型紙の
    商いのために涌谷町を訪問、『この地には、金神社と呼ばれる神社があり、古い瓦も
    出る。 ここ黄金神社こそが天平の産金地であり、古代の神社跡ではないか』と
    いった内容の論文を記し、荒廃した黄金山神社の復興事業に尽力したという。

    koganeyama1

    黄金山神社は、現在も『わくや万葉の里』の史跡ゾーンの中枢に、厳かに鎮座して
    いる。 境内には、大伴家持が詠んだ一首を刻んだ万葉歌碑もある。 因みに、
    万葉集に登場する地名の中で、『みちのく山』は北限に位置している。

    古来、『蝦夷(えみし)』の地と呼ばれていた東北は、中央から見ると、野蛮な
    イメージがあったが、太平の産金時代だけは、都から、仏や神に祝福された、
    黄金色に輝く憧れの地と見られていたのかも知れない。

    明治時代以降は、黄金山神社を含む一帯を地質学や考古学の観点から研究し、この地
    こそが太平の産金地であることを検証するための多角的なアプローチが、各分野の
    研究者によって行われた。 その結果、黄金山神社周辺から出土する古い瓦の中に、
    『天平』の文字が刻まれた瓦があることが判明した。

    201308062305420ea

    そして、昭和32年、本格的な発掘調査が行われ、出土した瓦や建物跡から、天平の
    時代に、六角円堂と思われる仏堂がこの地に建てられていたことが分かった。 瓦の
    デザインは、陸奥国国府だった多賀城や、陸奥国国分寺に用いられた瓦と酷似して
    おり、仏堂が国家の建物であったということを示している。 仏堂は、恐らく、
    産金を仏に感謝し、更なる産金を祈るためのものであったと考えられる。

    また、遺跡の中を流れる小川では、わずかながら砂金が今でも採れる。 これらの
    事実から、涌谷の黄金山神社のある場所が、天平産金、すなわち、
    『日本初の産金地』であるとようやく確定したのだった。

    涌谷をルーツとする宮城県のゴールドラッシュは、中世、後世、近世、そして、
    現代へと産金地を北へ広げ、採掘熱をますます高揚させながら発展して行く。
    地理的な近さ故に、光り輝く金色堂で有名な平泉の『黄金文化』と宮城県の金を関連
    付ける研究者も居る。

    金にまつわるエピソードが密接に絡み合いながら、古代のロマンを今に伝える
    涌谷町。 ここには、『みちのく黄金郷』の原点がある。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    アイヌとは、主に北海道に住む先住民族であり、元々、アイヌ語では『人間』を
    表していた。 アイヌ民族は、北海道、樺太南部、千島列島にまたがって
    居住しており、それぞれ北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌと呼ばれた。

    アイヌ語は、言語学的には孤立した地位を占める。 形質状の特徴から
    コーカソイドに属すると考えられたこともあったが、今日ではモンゴロイドの
    一部である、古アジア系民族に入るという説が確定している。

    【アイヌ民族博物館でのアイヌ古式舞踊】


    アイヌ民族は、日本の近代化の過程でその数を大きく減らし、その生活様式も
    大きく変わった。 主に北海道、もしくは、首都圏に居住しているが、アイヌ
    民族であることを隠す人も多く、正確な人口は分かっておらず、2006年北海道内
    での調査に応じたアイヌ人の数は、23,782人しかいなかったものの、実際は、
    その数倍から数十倍のアイヌ人が居るものと思われる。

    mapseikatu
     
    アイヌは、大和朝廷を中心とする日本とは全く異なる歴史をたどって来たが、
    『一つの列島、二つの国家、三つの文化』という言葉が示す通り、アイヌ民族は、
    自身の国家を建てることはなかったものの、独自のアイヌ文化を打ち立てた。
    近代以前においては、北東アジア有数の海洋交易民族だった。

    大和朝廷は、古来から東方の『まつろわざる民』を『蝦夷(エミシ)』と称しており、
    これがアイヌの祖先の一部と考えられている。 蝦夷の征服事業は、長らく朝廷の
    国家事業として行われたが、征夷大将軍坂上田村麻呂がアテルイを破ったことで
    一旦終結する。 朝廷の支配下に入った蝦夷は、俘囚と呼ばれ、奥州(東北地方)
    では俘囚と和人が入り交じって生活するようになった。 やがて、奥州は安倍氏、
    清原氏を経て奥州藤原氏によって統一され繁栄を極めるが、鎌倉幕府によって
    滅ぼされてしまう。

    AinuCouple

    本州で弥生時代が始まった後も蝦夷が狩猟、採集生活を続けた時代を続縄文時代と
    呼び、北海道では、7世紀頃まで続いた。 7世紀に入ると、オホーツク海周辺に
    またがるオホーツク文化が登場し、北方の諸民族の文化がもたらされた。 北東部を
    除く北海道では擦文文化が成立したが、13世紀に入ると、この擦文文化、オホーツク
    文化両者の特徴を取り入れたアイヌ文化が成立した。 また、この頃から日本では
    蝦夷(エミシ)は蝦夷(エゾ)と読まれるようになり、蝦夷(エゾ)がほぼアイヌ民族を
    指すようになる。
     
    オホーツク文化の影響を受けたアイヌは、積極的に周囲の民族と交易を行ったが、
    その過程で中国の王朝とも接触を持った。 中国の史書によると、先にモンゴル
    帝国に服属していたギリヤーク人が、毎年のようにアイヌが攻めて来ると訴えた
    ため、モンゴルは軍を樺太に送り、これを征討したとのことである。 これに
    よって、アイヌは一時的に樺太から追いやられたが、アイヌがモンゴルへの朝貢を
    行うようになったことで、アイヌと大陸との交易はむしろ盛んになった。

    img1230

    その後成立した明は、北方民族への影響力を失い、アイヌと大陸の交易が大幅に縮小
    したため、アイヌは、対日交易偏重を余儀なくされた。 鎌倉時代後期頃から、
    アイヌは渡島半島の『渡党』、北海道太平洋岸と千島の『日の本』、北海道
    日本海岸と樺太の『唐子』の3つに分けて認識しており、これは、そのまま、
    松前藩、東蝦夷、西蝦夷となる。

    交易に関する諍いから始まったコシャマインの戦いは、渡島半島から胆振、後志に
    渡る広い範囲で行われたが、武田(蠣崎)信広がコシャマイン父子を討ったことで
    和人の勝利に終わった。 これ以降、渡党の中での蠣崎氏の地位は決定的なものと
    なった。 蠣崎季広の時代には戦国大名の一つとして数えられるようになり、豊臣
    秀吉への臣従を経て、徳川家康によって蝦夷地支配を認められ、その後、松前氏と
    改称、江戸時代に入って松前藩を建てた。

    江戸時代の鎖国政策下にあってもアイヌの北方民族との交易はそのまま認められた
    ため、アイヌを通じて日本に入った清の物産は高値で取引されるようになった。
    このような江戸時代のアイヌと沿海州の北方民族との交易を山丹交易と呼び、この
    時代アイヌは北方において日清両国を繋げる存在であったと言える。

    当初の松前藩の影響力は限定的なものであったため、北海道の各地でアイヌ人有力
    首長が登場するようになる。 その内の一人、シャクシャインが松前藩に対して
    蜂起を行ったものの敗北し、これにより、松前藩によるアイヌ民族の統制はさらに
    強化されて行く。 また、この頃から場所請負制が始まり、アイヌ民族は過酷な
    搾取にあえぐことになる。 松前藩の力が行き届いていない道東、国後島を中心に、
    クナシリ・メシリの戦いが起きるが、結局は鎮圧され、北海道、南千島は完全に
    日本の領域下となった。

    IMG_9754
    IMG_9759
    IMG_9768
    IMG_9762
    IMG_9763
    IMG_9764
    IMG_9771
    IMG_9772
    IMG_9774

    戊辰戦争以降、北海道の開発のため開拓使が設置され、本州からの移民が激増
    した。 このため、アイヌ民族は次々と土地を失った。 アイヌは本州からの
    移住者達からは差別の対象とされ、『北海道旧土人保護法』の下、土地を制限され、
    日本との同化政策が行われた。 千島・樺太交換条約で千島が、ポーツマス条約で
    南樺太が正式に日本の領土となったことでアイヌ民族の居住地は、ほぼ全て日本の
    領土内に入ったが、日露の国境地帯となった千島・南樺太では、アイヌ民族が
    以前のような生活をすることは不可能となっていた。

    太平洋戦争末期、ソ連が南樺太・千島を占領すると、多くのアイヌ人は『日本国民』
    として北海道に移住し、その後も北方領土問題が解決しなかったことから、千島
    アイヌ、樺太アイヌの伝統は途絶えた。 戦後も長らくアイヌは差別の対象で
    あったが、北海道アイヌ(ウタリ)協会の活動もあって、1997年アイヌ文化振興法が
    制定され、アイヌの立場は向上しつつある。

    北海道白老町にある『アイヌ民族博物館』は、アイヌの文化遺産を保存公開する
    ために作られた施設で、それまで白老市街にあったアイヌ集落を1965年にポロト
    湖畔に移設し、アイヌ民族や北方少数民族の資料、図書等を展示している。 この他
    にも、アイヌの伝統的な住居であったチセを再現、野外展示しており、1984年に
    国の重要無形文化財に指定されたアイヌの古式舞踊も1時間毎に再現されている。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ