昭和20(1945)年3月、アメリカ軍が上陸する直前の沖縄は、海上からの艦砲射撃と
空からの爆撃と機銃掃射を浴びて、沖縄住民は戦争への総動員を余儀なくされて
いた。 日本軍は、徹底抗戦の構えを取ったため、沖縄師範学校女子部と
沖縄第一高等女学校女の生徒達は、それぞれ学校ごと戦争へと駆り立てられ、
女学生達を勤労奉仕と称して、最前線の沖縄南部へと送った。 この学徒隊は、
通称『ひめゆり部隊』と呼ばれた。
沖縄南部の現糸満市付近では、日本軍が米軍との死闘を繰り広げられており、
ひめゆり部隊が配属されたのは、後に、戦後最大の犠牲者を出した伊原第三外科
壕跡であった。 そこは、防空壕の中に、仮設のベッドを備えただけの空気も
よどんだ洞穴の中であったが、ひめゆり部隊は、ますます激化する戦火の中、
命懸けで、弾丸運び、水汲み、死体運び、負傷者の手当て等々、日夜を問わず
必死で働いた。
重病患者達を日々壕の中に入れる作業は、正に命懸けで、 手足に重症を負って
しまった患者の場合は、手足を切り落とすしか術がなかったため、学徒隊は、その
切り落とした手足の運搬作業も行った。 更に、酷い患者の場合は、後で別の壕に
移すと偽りを述べて、そのまま見殺しにし、毒入りのミルクを手渡して、自決を
迫った。
ひめゆり部隊の卒業式も壕の内部で行われたが、ますます激しくなる一方の米軍の
攻撃に、日本軍はいち早く後退してしまった。 だが、彼女達には何の保護も
与えられず、敵軍の弾丸や機銃に曝されながら、大勢の犠牲者を出すばかりで
あった。 その後、辛くも後退しながら軍隊に追い着いたが、狭い沖縄の島は
何処へ行っても安全な場所は無く、島から脱出するには、既に時期を逃して
しまっていた。
攻撃に、日本軍はいち早く後退してしまった。 だが、彼女達には何の保護も
与えられず、敵軍の弾丸や機銃に曝されながら、大勢の犠牲者を出すばかりで
あった。 その後、辛くも後退しながら軍隊に追い着いたが、狭い沖縄の島は
何処へ行っても安全な場所は無く、島から脱出するには、既に時期を逃して
しまっていた。
沖縄にある平和を祈念する数々の慰霊碑他
敵軍に包囲された島の中で、難民達は右往左往し、降伏を勧告する敵軍の放送に
対して、思わず駆け出す住民達を日本軍は情け容赦もなく射ち殺した。 敗戦が
濃厚となった6月18日、ひめゆり部隊には、突然解散命令が出され、学徒達は、
突如、戦火の中へと投げ出される羽目となってしまったため、翌日の6月19日を
はじめとする約1週間の間に、全体の死亡者のうちの約80%が死亡するといいう
悲劇に見舞われた。
第三外科壕には、米軍によって、ガス弾が投げ込まれたため、その中に残っていた
学徒の殆どの命が奪われ、荒崎海岸まで逃げ延びた学徒のうち、10人が手榴弾等を
使用して、集団自決をした。 最終的には、教師・学徒297名のうち、戦没者は
224名となっており、このような大量な死者を出してしまった背景には、敵への
投降の仕方を教えられてはおらず、あくまでも、日本への忠誠と従順だけを強い
られた結果と言える。
荒崎海岸 ひめゆり部隊集団自決の地
太平洋戦争での沖縄全体の死者数は約14万人。 現在、激戦地であった沖縄
南部には、沢山の慰霊碑の建立や平和祈念公園の整備が行われており、改めて、
平和を考え直すための場として、その意義を発揮している。
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