現在のカナダ東部海岸を最初に探検したのは、1497年、イギリス国王ヘンリー7世の
命を受け、ニューファンドランドやケープ・ブレトン島周辺を探索した、ジェノバ生まれの
航海士、Jカボットである。 カボットの探検隊は、後に同地域がイギリス領となることの
発端となった。

フランスは、イギリスの動きに少し遅れて、1524年、フランス国王のフランソワ1世の
命を受け、フロリダからニューファンドランドまでを航海し、その『新大陸』を『ノヴァ・ガリア』
と名付けた。 1534年には、ジャック・カルティエが、ニューファンドランドからセント
ローレンス湾の沿岸、リシュリュー湾周辺を探検している。 カルティエは、現ケベック州の
ガスペ半島の先端である、ガスペ岬に上陸し、この地に『フランス国王万歳』と彫り込んだ
十字架を建て、同地をフランス領とする事を宣言している。 これを持って、『ヌーヴェル・
フランス』の歴史の始まりとされている。 その後、サムエル・ド・シャンプランがケベックを
創設し、以降、この地が北米におけるフランスの植民地活動の拠点となって行く。

【ヌーベル・フランスの領土】(青い部分全て)

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現在、『ケベック問題』と呼ばれるカナダの最大の政治的課題は、17世紀から18世紀
中期に掛けてのカナダ東部沿岸地域における英仏の覇権争いに端を発していると
言える。 英仏の衝突は、ケベックの陥落(1759年)、そして、1763年のパリ条約
(1763年)によって、一応の決着を見せ、『ヌーベル・フランス』は、スペインとイギリスに
移譲された。 その後、カナダでは、イギリスの覇権が確率されたが、ケベック州の
人口の約8割を占めるフランス語系住民達のナショナリズムは、その後のカナダ政府の
文化政策、移民の動向、エスニック集団の扱いに大きな影響を与えて来た。

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カナダの総人口のうち、民族的には、イギリス系が最も多数となっているが、一口に
イギリス系と言っても、その内訳は複雑で、カナダへの移民は、アイルランド人、
スコットランド人、ウェールズ人の順となっている。 イギリス系カナダ人がケベック
以外のカナダで安定した覇権を確立して行った分岐点のひとつは、アメリカ合衆国
からの執拗な攻撃を食い止めた1812年戦争からであると言える。 アメリカ軍は、
アメリカに親近感を持つものの多い、『ウェスト・カナダ』(現在のオンタリオ州)をまず
攻撃した。

しかし、イギリス軍は、有能な司令官アイザック・ブロックの巧みな作戦と、イギリス側に
付いた先住民の協力によって持ち堪え、いくつかの曲折を経て、1817年のラッシュ・
バゴット協定と1818年の協定によって、英領北アメリカ(現在のカナダ)とアメリカの
間の国境確定が、ロッキー山脈の東側の麓までで、ほぼ確定されている。 この1812年
戦争では、フランス系カナダ人は、革命的で脱宗教的なフランス共和国とヨーロッパで
戦うイギリス人に好感を持ち、イギリス軍と共にアメリカ軍と戦っている。

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1812年戦争までは、アメリカ13植民地からの英語系の移民が多かったが、その後は、
第二次イギリス系の波がカナダへと押し寄せた。 1815年から1850年までの
35年間の間に80万人近いイギリス系移民がやって来た。 彼らは、イギリスが
フランスを破った、ワーテルローの戦いの後に職を失ったイギリス軍の将校たち、
アイルランドの職人や貧民、スコットランドの職人や小作人、イングランドの工場労働者
たちであった。

1815年から38年の間にイギリスから新しく到着した人々の多くは、スコットランド人で、
それでの王党派が多かったノバスコシア、プリンス・エドワード島、ニュー・ブラウンズ
ウィックや、セントローレンス湾岸に定着して行った。

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