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    タグ:自由貿易港

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    イギリス人は、香港を自由貿易港とし、一切関税を掛けなかったため、香港は
    アヘン貿易の中継地としての役割を果たすようになり、それまで広州、マカオで
    中国との交易に従事していた多くの商社が香港に拠点を構えた。 更に中国大陸
    からも、沿岸部を荒らしまわっていた海賊や、アヘン戦争の際にイギリス軍へ
    食料を提供したために、清朝側から敵視された人々等、多くの人達が香港へと
    移り住んだ。 このように、イギリスへの割譲初期の香港は、にわか作りの
    移民社会といった様相を呈していた。

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    1850年代に入ると、香港社会は、中国内外の新しい動向に大きな影響を受ける
    ようになる。 当時、中国国内では大勢の人達が、太平天国による戦乱を避ける
    ために住み慣れた土地から離れることを余儀なくされていた。 一方、アメリカ
    西海岸やオーストラリアでは、ゴールドラッシュにより、鉱山経営者が安価な
    労働力を大量に求めていた。 こうした事情が重なり、中国から香港を経由して
    アメリカやオーストラリアへ移住する人が急増した。

    移民の大半は、男性の肉体労働者であり、欧米の商社が運行する輸送船で渡航先
    まで運ばれて行った。 こうした移民の中には、斡旋業者によって騙された者も
    多く、輸送中の死亡率も高かったことから、香港政庁は1860年代に入ると、
    移民船への監視体制を強化したが、実情はなかなか改善しなかった。

    香港を通じた移民の流れは、1870年代後半以降、北米やオーストラリアにおける
    排華運動の高まりや、華人の移民に対する規制の強化に伴い、当時欧米列強の
    植民地開発が進行していた東南アジアへと向かうようになる。 そして、華人の
    活動範囲が広がるにつれて、香港は北米、および、東南アジア各地と中国との
    間の人、物、金の流れを結ぶ結節点としての役割を果たすようになった。

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    1930年代には、日中間の武力衝突が香港社会にも影響を与えるようになり、
    とりわけ、1937年に始まった日中戦争の拡大は、中国大陸から香港へ避難する
    人々の数を増加させた。 太平洋戦争が勃発すると、日本軍は香港にも侵攻し、
    同地を1941年12月25日に陥落させた。 以後3年8ヶ月に渡り、香港は、日本軍の
    統治下に置かれた。

    【お勧めの一冊】


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    ウラジオストク自由港内への8日間のビザなし渡航が、2016年1月1日からいよいよ
    許可される。 ウラジオストク自由港に関する連邦法は、2015年10月12日に施行
    された。 自由港体制は、ウラジオストク、ナホトカ、ウスリースクなどを含む沿海
    地方の15の行政区で稼働する。 フリーゾーンの面積はおよそ3万平方キロメートル、
    人口は140万人となっている。

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    ウラジオストックは、1935年にそれまであった小規模な艦隊を拡張する形で、
    ウラジオストクを本部とするソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設された。 ソビエト
    連邦時代の1938年には沿海州を改組した沿海地方の州都となると共に軍港として
    重視され、1958年からソ連の崩壊する1991年まで、極一部を除いて外国人の居住と、
    ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止される閉鎖都市であった。 その間、
    東のナホトカが外国貿易港の機能を代行していた。 このため、90年代初頭までは、
    地図すらなかった。

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    90年初めのロシアのビザには、滞在都市全てを事前に記載しなければならず、
    それ以外の都市に行く事は完全に禁止されていた。 その後、ビザ記載都市以外
    からの出国禁止まで緩和され、その後、更に、写真が2枚必要だったものが、1枚に
    変更され、その後、更に、事前申請でビザが無料となり、ついには、8日間だけだが、
    ウラジオストックを訪れる際には、ビザが不要となった。 主な観光地は、金角湾、
    ルースキー島等。

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    ウラジオストックは、成田空港からは、2時間で到着できる、ヨーロッパでもアジア
    でもない、日本から最寄りのロシアとなっている。

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