東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:米軍

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    長崎は8月9日、被爆から71年の原爆の日を迎え、長崎市松山町の平和公園で
    原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が営まれた。 田上富久市長は平和宣言で、
    核廃絶に向け国際社会に対し『人類の未来を壊さぬため、持てる限りの英知
    結集を』と求めた。

    オバマ米大統領の広島訪問を『自分の心で感じる大切さを世界に示した』と評価。
    広島の平和宣言と同様、各国指導者に被爆地を訪れるよう呼び掛けた。

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    式典では、原爆投下時刻の午前11時2分、約5,600人の参列者らが黙とう。
    田上市長は、国連での核軍縮論議に核兵器保有国が参加していない現状を指摘。
    『廃絶への道筋を示せない。 議論に参加を』と訴えた。

    一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人のうち、約14万9千人が死没、
    建物は約36%が全焼または全半壊した。  長崎型の原爆は、威力として広島型の
    1.5倍と言われ、また長崎型はプルトニウムの物性に由来する毒性の強い原爆と
    言われている。 長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や
    爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減された。

    左:広島の被害地域 右:長崎の被害地域
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    核兵器は人間を壊す残酷な兵器です。

    1945年8月9日午前11時2分、米軍機が投下した一発の原子爆弾が、上空でさく裂
    した瞬間、 長崎の街に猛烈な爆風と熱線が襲いかかりました。あとには、黒焦げの
    亡骸、全身が焼けただれた人、内臓が飛び出した人、無数のガラス片が体に刺さり
    苦しむ人があふれ、長崎は地獄と化しました。 原爆から放たれた放射線は人々の
    体を貫き、そのために引き起こされる病気や障害は、辛うじて生き残った人たちを
    今も苦しめています。 核兵器は人間を壊し続ける残酷な兵器なのです。

    今年5月、アメリカの現職大統領として初めて、オバマ大統領が被爆地・広島を
    訪問しました。 大統領は、その行動によって、自分の目と、耳と、心で感じる
    ことの大切さを世界に示しました。 核兵器保有国をはじめとする各国の
    リーダーの皆さん、そして世界中の皆さん。長崎や広島に来てください。
    原子雲の下で人間に何が起きたのかを知ってください。 事実を知ること、
    それこそが核兵器のない未来を考えるスタートラインです。

    今年、ジュネーブの国連欧州本部で、核軍縮交渉を前進させる法的な枠組みに
    ついて話し合う会議が開かれています。 法的な議論を行う場ができたことは、
    大きな前進です。 しかし、まもなく結果がまとめられるこの会議に、核兵器
    保有国は出席していません。

    そして、会議の中では、核兵器の抑止力に依存する国々と、核兵器禁止の交渉開始を
    主張する国々との対立が続いています。 このままでは、核兵器廃絶への道筋を示す
    ことができないまま、会議が閉会してしまいます。 核兵器保有国のリーダーの
    皆さん、今からでも遅くはありません。 この会議に出席し、議論に参加して
    ください。

    国連、各国政府及び国会、NGOを含む市民社会に訴えます。核兵器廃絶に向けて、
    法的な議論を行う場を決して絶やしてはなりません。 今年秋の国連総会で、
    核兵器のない世界の実現に向けた法的な枠組みに関する協議と交渉の場を設けて
    ください。 そして、人類社会の一員として、解決策を見出す努力を続けて
    ください。

    核兵器保有国では、より高性能の核兵器に置き換える計画が進行中です。
    このままでは核兵器のない世界の実現がさらに遠のいてしまいます。 今こそ、
    人類の未来を壊さないために、持てる限りの『英知』を結集してください。

    日本政府は、核兵器廃絶を訴えながらも、一方では核抑止力に依存する立場をとって
    います。 この矛盾を超える方法として、非核三原則の法制化とともに、核抑止力に
    頼らない安全保障の枠組みである『北東アジア非核兵器地帯』の創設を検討して
    ください。 核兵器の非人道性をよく知る唯一の戦争被爆国として、非核兵器地帯
    という人類のひとつの『英知』を行動に移すリーダーシップを発揮してください。
    核兵器の歴史は、不信感の歴史です。

    国同士の不信の中で、より威力のある、より遠くに飛ぶ核兵器が開発されて
    きました。 世界には未だに1万5千発以上もの核兵器が存在し、戦争、事故、
    テロなどにより、使われる危険が続いています。 この流れを断ち切り、不信の
    サイクルを信頼のサイクルに転換するためにできることのひとつは、粘り強く
    信頼を生み続けることです。 我が国は日本国憲法の平和の理念に基づき、
    人道支援など、世界に貢献することで信頼を広げようと努力してきました。
    ふたたび戦争をしないために、平和国家としての道をこれからも歩み続け
    なければなりません。

    市民社会の一員である私たち一人ひとりにも、できることがあります。 国を
    越えて人と交わることで、言葉や文化、考え方の違いを理解し合い、身近に信頼を
    生み出すことです。 オバマ大統領を温かく迎えた広島市民の姿もそれを表して
    います。 市民社会の行動は、一つひとつは小さく見えても、国同士の信頼関係を
    築くための、強くかけがえのない礎となります。

    被爆から71年がたち、被爆者の平均年齢は80歳を越えました。 世界が『被爆者の
    いない時代』を迎える日が少しずつ近づいています。 戦争、そして戦争が生んだ
    被爆の体験をどう受け継いでいくかが、今、問われています。 若い世代の皆さん、
    あなたたちが当たり前と感じる日常、例えば、お母さんの優しい手、お父さんの
    温かいまなざし、友だちとの会話、好きな人の笑顔…。 そのすべてを奪い去って
    しまうのが戦争です。 戦争体験、被爆者の体験に、ぜひ一度耳を傾けてみて
    ください。 つらい経験を語ることは苦しいことです。それでも語ってくれるのは、
    未来の人たちを守りたいからだということを知ってください。

    長崎では、被爆者に代わって子どもや孫の世代が体験を語り伝える活動が始まって
    います。 焼け残った城山小学校の校舎などを国の史跡として後世に残す活動も
    進んでいます。 若い世代の皆さん、未来のために、過去に向き合う一歩を
    踏み出してみませんか。 福島での原発事故から5年が経過しました。 長崎は、
    放射能による苦しみを体験したまちとして、福島を応援し続けます。

    日本政府には、今なお原爆の後遺症に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、
    被爆地域の拡大をはじめとする被爆体験者の一日も早い救済を強く求めます。 
    原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、世界の
    人々とともに、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くすことをここに宣言します。

    2016年8月9日
    長崎市長 田上富久

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    ブログネタ
    事件について に参加中!

    1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機
    『エノラ・ゲイ』によって、原子爆弾の投下行われてから70周年目の夏を
    迎える。 広島への原爆投下は、実戦で使用された世界で初めての核兵器と
    なっている。 この一発の原爆により、当時の広島市の人口約35万人のうち、
    9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡したとされている。 今でも、
    約1万柱の遺体が見つかってはいないと言う。



    現在の広島の地図から名前が消えた中島地区(中島本町・材木町・天神町・
    元柳町・木挽町・中島新町)は、数千人の一般庶民が暮らす街であり、また
    広島の第一の歓楽街・繁華街であった。 この地区は爆心地から500メートル
    以内にあり壊滅、唯一、RC建築の燃料会館(旧大正屋呉服店)だけが耐え残った。

    原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあった広島県産業奨励館は、現在では、
    原爆ドームと呼ばれており、世界遺産にも登録をされている。 戦後、この地区は
    広島平和記念公園として整備され、燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園の
    レストハウスとなって現在も残っている。
     
    genbakudome

    爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死、および、即日死の死亡率が
    約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、
    即死、および、即日死の死亡率が約60から70パーセントにも及んだ。 更に、
    生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが
    死亡して行った。
     
    11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99
    パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、
    約90パーセントが死亡した。 1945年(昭和20年)の8月から12月の間の
    被爆死亡者は、9万人、ないし、12万人と推定されている。



    B-29爆撃機は、相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。 投下43秒後、
    爆弾は上空約600メートルの地点にあった、現島外科内科付近で炸裂した。
    原爆炸裂後、付近にあった建物は、0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの
    数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000度に達した。 0.8秒後には、
    前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風が襲い、350万パスカルという
    爆風圧にさらされた。

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    原爆の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。 これは、
    爆発による高熱で発生した上昇気流によって巻き上げられた地上の粉塵が
    上空で拡散したため、特徴的なキノコ形になったものとされる。 キノコ雲の
    到達高度は従来約8000メートルだとされてきたが、米軍機が撮影した写真を
    基に測定したところ、実に二倍の約16000メートルに達していたことが判明した。

    低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能を
    もたらした。 熱気は上空で冷やされ雨となった。 この雨は大量の粉塵・煙を
    含んでおり、粘り気のある真っ黒な大粒の雨であった。 この雨を黒い雨と言う。
    この雨は放射性降下物を含んでいたため、雨を浴びた者を被曝させ、土壌や
    建築物及び河川などを放射能で汚染した。

    米調査機関ピュー・リサーチ・センターが2015年4月7日発表した世論調査に
    よると、米国が第2次世界大戦中に広島と長崎に原爆を投下した事について
    『正当だった』と考える米国人は56%に上った。 一方で「正当でなかった」
    との見方は34%に留まった。

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    沖縄! に参加中!

    昭和20(1945)年3月、アメリカ軍が上陸する直前の沖縄は、海上からの艦砲射撃と
    空からの爆撃と機銃掃射を浴びて、沖縄住民は戦争への総動員を余儀なくされて
    いた。 日本軍は、徹底抗戦の構えを取ったため、沖縄師範学校女子部と
    沖縄第一高等女学校女の生徒達は、それぞれ学校ごと戦争へと駆り立てられ、
    女学生達を勤労奉仕と称して、最前線の沖縄南部へと送った。 この学徒隊は、
    通称『ひめゆり部隊』と呼ばれた。

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    沖縄南部の現糸満市付近では、日本軍が米軍との死闘を繰り広げられており、
    ひめゆり部隊が配属されたのは、後に、戦後最大の犠牲者を出した伊原第三外科
    壕跡であった。 そこは、防空壕の中に、仮設のベッドを備えただけの空気も
    よどんだ洞穴の中であったが、ひめゆり部隊は、ますます激化する戦火の中、
    命懸けで、弾丸運び、水汲み、死体運び、負傷者の手当て等々、日夜を問わず
    必死で働いた。



    重病患者達を日々壕の中に入れる作業は、正に命懸けで、 手足に重症を負って
    しまった患者の場合は、手足を切り落とすしか術がなかったため、学徒隊は、その
    切り落とした手足の運搬作業も行った。 更に、酷い患者の場合は、後で別の壕に
    移すと偽りを述べて、そのまま見殺しにし、毒入りのミルクを手渡して、自決を
    迫った。 



    ひめゆり部隊の卒業式も壕の内部で行われたが、ますます激しくなる一方の米軍の
    攻撃に、日本軍はいち早く後退してしまった。 だが、彼女達には何の保護も
    与えられず、敵軍の弾丸や機銃に曝されながら、大勢の犠牲者を出すばかりで
    あった。 その後、辛くも後退しながら軍隊に追い着いたが、狭い沖縄の島は
    何処へ行っても安全な場所は無く、島から脱出するには、既に時期を逃して
    しまっていた。

    沖縄にある平和を祈念する数々の慰霊碑他
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    敵軍に包囲された島の中で、難民達は右往左往し、降伏を勧告する敵軍の放送に
    対して、思わず駆け出す住民達を日本軍は情け容赦もなく射ち殺した。 敗戦が
    濃厚となった6月18日、ひめゆり部隊には、突然解散命令が出され、学徒達は、
    突如、戦火の中へと投げ出される羽目となってしまったため、翌日の6月19日を
    はじめとする約1週間の間に、全体の死亡者のうちの約80%が死亡するといいう
    悲劇に見舞われた。

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    第三外科壕には、米軍によって、ガス弾が投げ込まれたため、その中に残っていた
    学徒の殆どの命が奪われ、荒崎海岸まで逃げ延びた学徒のうち、10人が手榴弾等を
    使用して、集団自決をした。 最終的には、教師・学徒297名のうち、戦没者は
    224名となっており、このような大量な死者を出してしまった背景には、敵への
    投降の仕方を教えられてはおらず、あくまでも、日本への忠誠と従順だけを強い
    られた結果と言える。

    IMG_4210
    荒崎海岸 ひめゆり部隊集団自決の地

    太平洋戦争での沖縄全体の死者数は約14万人。 現在、激戦地であった沖縄
    南部には、沢山の慰霊碑の建立や平和祈念公園の整備が行われており、改めて、
    平和を考え直すための場として、その意義を発揮している。



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    2011年の東日本大震災が起きた際に、自衛隊を差し置いて、真っ先に被災地に
    駆けつけたのは、地元の自衛隊ではなく、実は米軍なのだが、この時の米軍の
    活動を『トモダチ作戦』と呼ぶ。

    この活動は、2011年のゴールデンウィークまで続けられたが、米軍の大々的な
    活動は、かなり被災地の手助けになったのだが、その後の原発訴訟問題で、
    今度は、逆に被災地に多大な迷惑を掛ける事となった。



    宮城県内にある自衛隊は、戦前までは、『帝国陸軍第二師団』と呼ばれており、
    県内には、かなり大規模な自衛隊が今でも配備されているのだが、沿岸部にある
    各自衛隊基地は、津波災害により、多大な被害を受けてしまったため、数日間では
    あるが、完全にその機能を停止した。 但し、その4日後には、自衛隊員の獅子
    奮迅の活躍により、一部ではあるものの、自衛隊としての機能を回復し、すぐさま、
    被災地の救助活動が再開された。

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    この間、被災地と被災者を主に助けたのは、米軍なのだが、原子力空母
    『ロナルドリーガン』が、被災時に実際に活動をしたのは、宮城県と岩手県
    だけであり、福島第一原発から80キロ圏内には、米政府により、退去命令が
    出されていた
    ため、トモダチ作戦の隊員たちは、実際は、福島県には行っていない。

     

    そのトモダチ作戦が原因で、2名の隊員が死亡し、現在アメリカ国内で、訴訟
    問題に発展しているとの事だが、この件に関しては、かなり疑問を感じずには
    いられない。 そもそも、空間線量が、全体的に、0.05~0.12前後程度しかない
    宮城県内では、放射性物質が原因で死亡した人や、鼻血を出したという話を
    一切耳にした事がない。

     

    石巻市内で排出された瓦礫を北九州市へと持って行った際にも、『放射能汚染瓦礫を
    燃やしているその付近の子供たちは、鼻血を出している』と遠くの方から無責任な
    ことを散々言われたが、実際のところ、石巻市内で鼻血を出している人は
    居なかった。 念のため、石巻市内最大の病院である、『石巻赤十字病院』にも
    直接問い合わせをしてみたが、そのような問い合わせは、一件もなかったとの事。

    トモダチ作戦は、被災当初こそ、被災地を助ける活動であったが、今では、その
    大袈裟な吹聴活動により、むしろ、被災地を苦しめるだけの存在と化している
    ところが、アメリカのアメリカたるところ。 基本的に、ウソと現実は、ハッキリと
    分けるべき。

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    アメリカとの関係は、日本では、沖縄ばかりが取り沙汰されているが、東日本大震災
    での米軍による『トモダチ作戦』は、日本では、殆ど報じられなかった。 先日、
    みやぎびっきの会会長のさとう宗幸氏が舞台の上で、『果たして、我々の状況が
    正確に伝わっているのか、不安になる時があります』と述べていたのだが、その
    不安は、もっともな話しで、長年関東に住んでいるものの、ハッキリ言って
    しまうと、東北の被災状況は、関東には、殆ど伝わってはいない。 その証拠に、
    周囲の人達から、被災地の状況等、一切訊かれた事すらないので、『無関心』が、
    この日本を駄目にしているのは、明白な事実と言える。

    現在、被災地に行くと、鉄道の路線が残っていない箇所が多々あるのだが、それは、
    自衛隊と米軍が、鬼のような活躍でものの数ヶ月程度で撤去したもの。 米軍が
    被災地に留まったのは、GW明けまでで、その米軍が去る際に、被災地の海岸に
    ローマ字で米軍へ向けて『Arigatou』と書かれていた事は、関東では、報道され
    なかった。

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    東日本大震災被災地である東松島には、航空自衛隊がありながら、津波災害により、
    その機能が全てが麻痺し、自衛隊員たちの不眠不休の活躍により、4日後には、一部
    復旧を果たしたものの、その間、被災者達を助けに来たのは、米軍であった。
    実際に、アメリカと戦争になってしまった場合は、この勢いで米軍が押し寄せて
    来るのだと、逆に勘ぐってしまったが、沖縄の場合は、自分達を助けに来るのか、
    または、殺しに来るのか、良く分からない人たちが、目の前に居るため、気が気
    ではないのであろう。

    自衛隊や、米軍がすぐ近所にない人たちの場合は、何でも適当にものを言える
    のだが、一度、現地の人たちの気持ちを多少なりとも考えてみた方が良いと思う。
    自分の主義主張だけを押し通していると、相手からも、拒否されるだけ。

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