横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
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    タグ:第二次世界大戦

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    第二次世界大戦中、カナダはイギリスに協力して反独同盟に加わったが、直ちに
    徴兵したり、海外に兵を出したりはしなかった。 1941年の末、カナダはイギリス
    及びアメリカ合衆国と同盟し、日本に対して宣戦を布告した。 やがて、100万人
    以上のカナダ人の男女が従軍し、アジアやヨーロッパの戦闘に加わった。 死傷者は
    9万人を超えた。

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    1945年に終戦を迎えると、カナダは国内の改革に関心を向けた。 戦争で荒れ
    果てたヨーロッパやアジアの国々から、大量の移民がやって来た。 都市の
    人口は増大して、郊外が広がって行った。 住宅の需要が高まり建設業が繁栄した。

    キング牧師が目指したのは、全カナダ人の福祉を確立することだった。 同政府は
    失業保険、復員軍人恩給の充実、老齢年金の増額、医療制度の改善などをはじめ、
    広い範囲に渡る社会保障制度を立法化した。 この制度が一助となって、一般の
    人々の生活水準は上がった。

    他の分野においても、カナダの努力は目覚しい発展をもたらした。 アルバータ州で
    新しい油田が発見され、ケベックとオンタリオ両州では大量の鉱物資源が見つ
    かった。 交通が発達し、水力発電も増えた。 製造業は消費者の需要の増大に
    合わせて、生産を向上させた。 アメリカ合衆国を筆頭に諸外国がカナダの新しい
    工業に莫大な資本を投下するようになった。

    1949年、ニューファウンドランドは住民投票によりカナダ第10番目の州になる
    ことを決定した。 これはニューファウンドランドが始めてカナダの繁栄を認めた
    ことを物語っている。

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    第一次世界大戦中(1914~1918年)、保守党の新党首ロバートLボーデンが
    政権を握ったカナダは、イギリスと同盟を結び、ドイツと戦った。 60万人
    以上のカナダ人がカナダ軍に入隊し、約6万3,000人の戦死者が出た。

    ボーデンの政府は、はじめ徴兵制はとらないと公約していたが、やがて志願兵
    制度では兵員を確保出来なくなり、1917年には徴兵を始めた。 その結果、
    徴兵制を支持するイギリス系カナダ人と、反対するフランス系カナダ人とが
    反目するようになった。 ボーデンは保守党と自由党の連合政権を実現し、
    国論の分裂を避けようとした。

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    戦時中、カナダは軍艦と兵器を生産し、ヨーロッパの戦場に食料を補給して、
    多大な富を築いた。 世界大戦に軍事面で協力したことを理由に、カナダは
    イギリスに握られていた外交・防衛政策の決定権を要求した。 イギリスと
    しても、カナダの労働力と資源に頼らなければならないため、より大きな
    自治の権限を求めるカナダの意向を受け入れたが、独立を完全に認めた訳では
    なかった。

    1921年に、自由党の党首ウィリアム・ライオア・マッケンジー・キングが首相に
    なった。 彼の目標の1つは、カナダの独立を勝ち取ることだった。 1926年と
    1930年の2度に渡って、キングはイギリスの指導者たちと会見し、独立国としての
    カナダの地位を確認して、ウエストミンスター条例を作成した。 1931年に、
    この条例はイギリス議会を通過し、カ.0
    ナダは内政と外交の両面で実質的に独立
    したことになった。 イギリス王国はその後も、カナダの象徴的な国家元首の
    地位に留まった。

    1930年代に全世界を襲った大恐慌は、カナダの繁栄に大きな影響を与えた。
    特に、輸出に頼る度合いの大きい大平原の諸州は、酷い打撃を受けた。 カナダの
    外国貿易は非常に衰え、穀物の価格が下がって、失業者の数が著しく増加した。
    しかし、1939年に第二次世界大戦が起こると、カナダの経済不況は大幅に緩和
    された。 織物、鉄鋼、食料の需要が増した。 大恐慌の間は閉鎖されていた
    工場が操業を始め、失業者を雇い入れて軍需に応じた。

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    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成し、領邦国家となった。
    その集団の中でも、最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、
    800年から1806年まで存続した。  元々、この地域では。ドイツ語を話す集団と
    して、ある程度のまとまりは見せていたものの、それぞれの小国家にハッキリと
    分かれていたため、それぞれの独自性は維持された。

    その後、フランスのナポレン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は解体
    されたが、当時のドイツ北東部にあった強国、プロイセンによって、いくつかの
    同盟と戦争を経て、他の国々をまとめ上げたため、初めてのドイツ民族による
    統一国家が1971年に建国された。



    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。

    ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に割譲させられた。
    戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊されたものを修復する費用
    として、多額の賠償金を課せられた。

    ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせてくれる指導者を
    待望する動きが現れた。 アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党
    (ナチス)という小さな政党の党首であったが、ドイツの苦境を連合国や
    ヨーロッパのユダヤ人等のせいにして非難することで、国民の人気を集めた。
    1933年、ヒトラーは、その人気を利用して、ドイツの首相となった。 そして、
    間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。
    ナチスは、強制収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)
    等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた事実が明らかになった。

    1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。 西側諸国の
    力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。 社会主義政権の
    支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の約束を
    守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに困難な事業で
    あった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政によっても殆ど解決
    し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、老朽化しているために、
    労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ないところもあった。

    ドイツ再統一後、ドイツ経済の勢いに陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの
    近代化に毎年700億ドルを支出しなければならなかった。 しかし、2010年以降は、
    力強い経済発展を遂げ、現在では、EUの中でも1人勝ちとも言える程の経済力を
    誇っている。

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    1939年、ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった。 フランス、
    イギリス、アメリカ、ソ連の連合軍は、ドイツ、イタリア、日本の枢軸国と戦った。
    チェコスロバキアでは何十万人もの労働者、学生がドイツ軍の兵器調達のために
    強制労働をさせられた。

    反ナチス分子と、約10万人のチェコのユダヤ人は捕らえられ、強制収容所へ
    送られた。 ドイツが既にチェコスロバキアのほとんどの都市を占領していたので、
    チェコの都市は、市街戦や爆撃を受けず、他のヨーロッパの諸都市と比べれば、
    被害は少なかった。

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    イギリスへ逃れたベネシュは、戦時中、ロンドンにチェコスロバキア亡命政府を
    樹立した。 また、ソ連との友好条約に署名した。 その頃、チェコスロバキアの
    各政党は、ナチス占領軍に抵抗するレジスタンスを組織した。 例えば、
    チェコスロバキア共産党は、ソ連の首府モスクワで、レジスタンスを組織した。

    1944年、レジスタンスは、東部ヨーロッパ戦線でのドイツの劣勢を利用して、
    作戦を展開した。 1945年5月、連合軍がドイツの首府ベルリンに侵攻した時期に、
    プラハの抵抗も最高潮に達した。 ドイツ軍が全面降伏した5月7日、ソ連軍と
    チェコスロバキアのレジスタンスは、プラハを手中に収め、アメリカ軍は
    南ボヘミアを占領した。

    戦争終結後、アメリカ、イギリス、ソ連は、中央ヨーロッパの将来について
    ポツダムで会談を開いた。 3カ国は、チェコスロバキアを復活され、250万人の
    ズデーデン・ドイツ人をドイツへ強制移住されることに合意した。 ベネシュ
    大統領の下で、チェコスロバキア政府はソ連と同盟関係にあった。

    次第にソ連は、チェコスロバキアだけではなく、近隣諸国にも強い影響力を
    及ぼし、支配するようになった。

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    1993年のはじめに、チェコスロバキアが分離して、チェコとスロバキアという
    ふたつの国が生まれた。 スロバキアは、歴史上初めて完全な独立国となり、
    長く続いた経済不況と、共産党の一党支配から抜け出す機会に恵まれた。
    しかし、国の将来については、意見がいくつも分かれ、スロバキアの政治は
    まだ安定していない。

    1918年以前のスロバキアは、中央ヨーロッパの王国、ハンガリーの一部であった。
    ハンガリー人は、スロバキアの独立要求を許さなかった。 そこでは、様々な
    権利や特権(例えば、投票権)を持った大地主が農場を経営して、その農場で
    働くスロバキア人農民は、投票権さえ持っていなかった。

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    第一次世界大戦(1914~1918年)の結果、中央ヨーロッパには劇的な変化が
    起こった。 ハンガリーが世界大戦で負けたのを機に、民族的に近いチェコ人と
    スロバキア人が一緒になったチェコスロバキアが建国され、独立した。
    スロバキアは国の東半分近くを占めていた。

    第二次世界大戦(1939~1945年)後、チェコスロバキアは、東ヨーロッパの強大な
    共産主義国であるソビエト連邦と親密な関係を築き、その政治勢力の下に入った。
    チェコスロバキアの共産党指導者は、民営の企業を禁止し、工業、農業、貿易の
    分野で厳しく管理した。 政府は、国家の情報や報道を規制し、全ての野党を
    禁止した。

    1950年に、スロバキアは、急速に工業化された。 共産党政府は、地方に巨大な
    工場を建設し、多数のスロバキア農民は、都市へ移動した。 雇用が増えて、
    政府は国民に医療福祉の恩恵を与え、生活水準は改善に向かった。 それでも、
    スロバキア人は、スロバキア自治を望んだ。 1968年に新しく連邦制となり、
    チェコとスロバキアは、それぞれの地方政府を持つことになった。

    チェコスロバキアでは、1989年まで、厳しい一党支配が続いた。 その年に
    起こった市民革命は、共産党政権を辞任させた。 チェコでは、国家が決める
    計画経済に代わって、需要と供給が賃金と価格を決める自由市場経済の原理を
    取り入れた。 しかし、それまで共産党員であったスロバキアの指導者達は、
    未だに国家管理の計画経済を支持している。 その結果、国営企業の民営化は、
    チェコの方がスロバキアよりも遥かに早く進んだ。

    1990年代の半ばに、スロバキアの企業は、外国からの投資に門戸を開いた。
    スロバキア工業製品の多くは、依然として時代遅れであるため、輸出が難しい。
    結果として、高失業率や物資不足、生活水準の低下に悩まされた。

    その上、共産主義の崩壊の後生まれた諸政党は、まだ混沌といしている。
    スロバキアの指導者達は、急速な経済改革を強く批判している。 そのため、
    政府は、重要な政策決定を下すことが出来ない。 スロバキア人は、ついに手に
    入れた自由と独立を喜ぶ一方で、国の将来に横たわる問題に不安を抱いている。

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    デンマークが経済回復の努力を続けている間に、ヨーロッパ諸国は再度の
    大戦への道を歩み続けた。 ドイツの指導者アドルフ・ヒットラーは、ドイツの
    軍備を再建し、デンマークに対する脅威となった。 デンマーク政府は、紛争を
    避けるため、1939年、ドイツと協定を結び、互いに攻撃しないことを約束した。

    1939年、第二次世界大戦が勃発して、ドイツはイギリスと戦端を開いた。
    デンマークは中立を宣言したが、ドイツには先の協定を尊重する意志はなかった。
    1940年4月、ドイツ軍はユトランド半島を占領した。 デンマークがイギリスから
    攻撃されるのを保護するという名目だった。 デンマーク人が協力するならば、
    内政には干渉しないとドイツ政府は約束した。

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    戦争が長引くにつれて、デンマーク国民はドイツ占領への反感を募らせた。
    一部の人々はデモを行い、また一部の人々は、ドイツ系の企業でサボタージュを
    始めた。1943年8月、デンマーク政府は、ドイツに対してこれ以上協力するのを
    拒否し、ドイツ側は国土を摂取した。 1945年5月、ドイツは敗北し、
    ドイツ軍によるデンマーク占領は終わった。

    デンマークは、戦争によって国土を破壊されることはなかったが、経済は
    弱体化し、アメリカ合衆国は産業復興のために資金を提供した。 デンマークは、
    この資金で国際貿易を再開した。

    1953年、新しい憲法が制定されて議会は一院制となり、女性の王族が王位に就く
    ことが出来るようになった。 デンマークは、国際連合に加盟し、また、NATO
    (北大西洋条約機構)にも加盟した。 NATOは防衛的な性格とは言え、軍事
    機構であり、これに加盟したことは、この国の伝統的な中立政策の転換を
    意味した。

    1952年、デンマークは、ノルディック評議会の創立に参加した。 これは、
    スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、アイスランドも加わっている。
    経済と社会と文化に関する協力機関である。 1960年、デンマークはEFTA
    (欧州自由貿易連合)に加盟した。 これはEC(欧州共同体)に参加して
    いない国々で構成した貿易気候である。

    1970年までにデンマークは、世界最高の生活水準を達成した。 福祉制度に
    よって高齢者、障害者、失業者を含む全てのデンマーク国民は、生活を維持する
    だけの所得を保証されている。 全ての段階で、教育を無料で受ける制度も
    定められた。 また、全てのデンマーク人が、無料で医療を受けられる制度も
    確立した。

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    2005年、フランスで起こった移民系の若者を中心とした暴動は、警察に追われた
    若者2人が変電所に入り込んで感電死した事件が切っ掛けだった。 暴動は、
    フランス全土に広がり、死者が出るに及んで政府は、非常事態宣言を出したが、
    暴動が終息する気配はなかった。

    長い間、フランスは、移民や外国人を受け入れて来た国だった。 その理由は、
    ヨーロッパ中央に位置する地理的条件や、産業革命後の経済成長にある。 最初は、
    スペインやイタリアからの移民だったが、20世紀中頃からは、アルジェリア、
    モロッコ、チュニジアなど、かつてフランスが植民地としてきた来たアフリカ
    諸国を始め、中東、アジアからの移住が本格化した。

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    背景には、第二次世界大戦で多数の戦死者を出し、人口が大きく減少したことや、
    戦後は自動車や建設業など、フランスの高度成長を押し上げた業界の労働力不足
    があった。 政府は、経済効率を優先させる政策を採り、移住して来た彼らに
    対しては、ほぼ無制限に滞在と労働の許可を与え、不法侵入者の取り締まりも
    あまいものだった。

    オイルショック後の1974年、当時のジスカール・デスタン政権は突如、就労
    目的の移民受け入れ停止を決定する。 その背景には、低賃金など過酷な労働
    条件や劣悪な環境の地域の形成、それに移民たちの労働争議が新たな社会、経済、
    政治的問題に発展することを恐れたことがあると言われている。

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    1976年には、『帰国奨励政策』が行われたが、これは、帰国を望む移民たちに
    1万フラン(約20万円)を支給することで、本国への帰国を促すものだった。
    1981年、ミッテラン大統領の誕生で、既に入国している移民については一層の
    権利の確立が保障されたが、その後の議会で、右派が過半数を占めると、権利の
    縮小や、1993年には改定移民法、国籍法修正案によって、入国も滞在した場合の
    保護も大幅に制限された。 また、1997年の移民法は、滞在許可証の更新を
    認めないという、更に厳しいものとなった。

    21世紀初頭、世界を襲った経済成長の鈍化や同時不況は、フランスでは、
    移民たちとフランス人との間で新たな摩擦を生むことになった。 移民の多くは、
    3K(きつい、汚い、危険)と呼ばれる職場で、しかも、低賃金の仕事しか
    貰えない。 にも関わらず、移民達が自分達の仕事を奪っていると考える
    フランスの若者達は、彼らの排斥に向かう。 こうした風潮の高まりが、大きな
    社会問題となって来ている。

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    1930年代後半、第一次世界大戦の時と同じような軍事問題が再び起きて来た。
    しかし、今回はイギリス政府は、以前ほど積極的に国際紛争に関わろうと
    しなかった。 保守党首相ネヴィル・チェンバレンは、国内問題を優先した。

    しかし、1939年9月、ドイツがイギリスの同盟国ポーランドに侵攻した時、
    チェンバレンは仕方なく宣戦を布告した。 その後まもなく、チェンバレンは
    辞職し、ウインストン・チャーチルが自由党、労働党、保守党の連立内閣の
    首相となった。 イギリスと連合国(ソ連、アメリカ、フランス)が枢軸国の
    ドイツ、イタリア、日本と戦った。 第二次世界大戦である。

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    1940年、ドイツ空軍がイギリスの海岸や主要都市を連日のように空爆して、
    ロンドン、コヴェントリー、リヴァプール、ハル、ブリストル、プリマスの鉄道、
    港湾設備、工場、住宅が破壊された。 海外からイギリスへ何トンもの物資を
    輸送する船が、ドイツの潜水艦に撃沈されたため、イギリスでは食料、物資の
    配給が日常のことになった。 だが、イギリス国民は、戦争支持の決意を
    あらわにした。

    結局ドイツ軍は、イギリス侵攻を果たせず、1943年、戦争の流れは連合国に有利と
    なり、1945年に連合国側勝利で終戦となった。 しかし、イングランドの都市の
    多くは、廃墟と化し、国民は大きな損害を被った。

    戦後、クレメンツ・アトリーを党首とする労働党政府は、破壊された工場や市場の
    減少、資金の不足などの問題と取り組んだ。 破綻したイギリス経済の建て
    直しには、アメリカからの借入金があてられた。

    アトリー政府は、国有化計画の実施も図った。 これは石炭、鉄鋼、鉄道など基幹
    産業の所有を、個人の手から国家へ移すものだった。 イングランド銀行さえ
    国家の管理下に入った。

    労働党が強く目指したのは、広い社会福祉関係の立法であった。 議会は。退職者や
    失業者のための国民健康保険を規定する法案を通過させた。 新しい国民健康保険
    により、国民は安い費用で医療を受けられるようになった。

    1952年に即位した女王エリザベス2世の名の下、1950年~60年代には、保守党政権が
    続いて経済力は弱まり、求人は増え、賃金も上がった。 その結果、人々は自分の
    家を持ち、冷蔵庫やテレビも買う余裕が出来た。 イングランドの全ての階級の
    人々が余暇を様々な活動に使い、ヨーロッパ大陸などへ旅行する余裕も生まれた。

    大学も新設され、奨学金も増設された。 また、より良い生活を求めて、イギリスの
    植民地から何千人もの人々がイングランドに移住して来た。

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    【経済の衰え】
    戦時の荒廃から急速に回復したため、1960年代半ばから70年代には、イングランド
    経済に歪みが生じた。 新しい社会福祉計画は、財政負担を増やした。 アジアから
    海軍を呼び戻し、植民地の多くに自治を認めたため、イギリスの国際的影響力は
    弱まっていた。

    イギリスの持つ海外市場が減少すると共に、国内では失業者が増えて、また生活費は
    急激に膨張した。 労働組合は1972年~79年に掛けて、賃上げを要求して何度も
    ストライキを行った。 労働党政府は、連続して政権を取る中で、これらの問題
    解決に努めた。 例えば、イギリスは、1973年にEC(欧州共同体)に加盟したが、
    これはイギリスの商品をヨーロッパ市場に参入させて、市場の拡大を図ろうと
    する動きのひとつだった。

    最近発見された北海油田開発のために資金が投入されたが、これは自国の石油を
    増産させて、石油の輸入を減らそうとの考えだった。

    しかし、なお失業率は高く、インフレはひどくなり、ストライキは頻繁に起こる
    など、問題が重なり、労働党政府の力は弱まった。 また、与党であった
    労働党が非核武装問題で分裂することもあった。 労働党内部に、非核武装を
    国の政策にしたいと思う人がいたからだ。 このようなことで労働党政府は、
    1979年に政権を失った。

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    オーストリア共和国は、ヨーロッパ中央にある内陸の山岳国家で、人口は
    約800万人。 かつては、多数の民族から成る巨大な帝国の一部だったが、
    現在は、9つの小さな州から成り立ち、国民の大部分がドイツ語を話す。

    オーストリアの歴史は、ヨーロッパの交易の民族移動の十字路として始まった。
    国の北部を流れるドナウ川は、ヨーロッパの西、北、東の3つの部分を繋いでいる。
    ドナウ渓谷に最も早く定着したのは、東から来たケルト民族と、南のイタリア
    半島から来たローマ人であった。

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    1200年代、ルドルフがこの地にハプスブルグ王朝を創設した。 この王朝は、
    その後600年以上に渡り、オーストリアを含むヨーロッパ各地を統治した。
    16世紀から17世紀に掛けての絶頂期には、ヨーロッパの半分近くがハプスブルグ
    帝国の領域であった。

    1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアは、隣国であるドイツに
    味方して、セルビア、ロシア、イタリア、イギリス、日本、アメリカ等と戦った。
    4年間の戦闘の末、オーストリアとドイツは敗北し、ハプスブルグ王朝は崩壊した。
    1918年、帝国内の非ドイツ系民族はそれぞれ独立して別個の国家となり、ドイツ系
    民族は、オーストリア共和国を創った。

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    1929年の世界大恐慌はオーストリアの経済にも深刻な打撃を与えた。 国力の
    衰えていたオーストリアは、1938年に、ドイツのヒトラー政権によって併合を
    食い止めることが出来なかった。 1939年に第二次世界大戦が勃発した時、
    オーストリアは、ドイツの一部として、日本、イタリアと共に、枢軸国側に立ち、
    イギリス、フランス、ソビエト、アメリカ等の連合国側と戦った。 連合国側に
    よる広範な爆撃と地上攻撃の結果、ドイツは1945年に降伏し、オーストリアは
    独立を回復した。

    戦後のオーストリアは、外国の援助を受けて、1955年までに順調な経済成長を
    遂げ、安定した政府を持つに至った。 過去の歴史を反省したオーストリアの
    指導者達は、将来、世界にどのような扮装が生じようとも、一切関与しないと
    宣言した。

    現在のオーストリア国民の生活水準は高く、健康保険と社会保証は、労働者全体に
    行き渡り、失業率は低い。 国内の主要政党は、協力して国家の方針を定めており、
    東西両ヨーロッパとの貿易額は増加を続けている。

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    【七月革命二月革命から帝政へ】

    ナポレオンが追放されると、ブルボン朝のルイ18世が王位に就き、立憲君主国
    としてスタートした。 しかし、次のシャルル10世が議会を解散すると、1830年に
    七月革命が起こった。 オルレアン家のルイ・フィリップが王位に就くが、やがて
    中小の市民層が支持する共和派や、社会主義派が力を伸ばし、1848年に二月革命を
    起こした。

    ここに再び共和制が成立するが、1852年にナポレオン3世が帝位に就いた。 産業
    革命や鉄道建設を進め、スエズ運河の建設、パリの都市改造等にも着手した。
    外国にも、クリミア戦争への参加、インドネシアへの進出、メキシコ遠征等を
    進めるが、1871年にプロイセンとの戦いに敗れ、帝政は崩壊した。

    19世紀後半、フランスの文化はさまざまなジャンルで花開いた。 モネやセザンヌ、
    ルノアールらの画家が相次いで登場し、パリは芸術と流行の中心として発展した。
    それに合わせて、パリでは、万国博覧会が開かれ、世界の注目を集めた。

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    【2つの世界大戦】
    19世紀末から、ドイツとの緊張が高まった。 フランスは、ロシアやイギリスと
    手を結び、ドイツを中心とした三国同盟に対抗した。 1914年に第一次世界大戦が
    始まると、フランスは戦場となり、1918年までに140万人もの死者を出した。
    1939年に第二次世界対戦が始まると、ナチス・ドイツ軍は1940年にパリを占領
    した。

    これに対抗して、ド・ゴール将軍は、ロンドンに亡命政権を起こし、国内では
    レジスタンスによる抵抗運動が続けられた。 1944年にレジスタンスは反撃に
    転じ、パリを開放した。

    戦後は海外植民地で独立運動が高まった。 1954年にベトナムの独立を認めたが、
    アルジェリアでは1958年に反乱が起こった。 この危機に大統領に選ばれたド・
    ゴールは、アルジェリアの独立を国民投票で決め、フランスの工業化を進めると
    共に、ヨーロッパ経済共同体(EEC)を発足させる等、独自の路線を展開した。

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    経済成長期に北アフリカから多くの移民を受け入れたフランスでは、1980年代から
    移民を巡る問題が起こっている。 2005年には中東やアフリカ系移民による暴動が
    起こり、政府は非常事態宣言を出した。 移民対して開かれた国でいられるか、
    注目されている。

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    1930年のドイツ軍事力増強は、ヨーロッパの脅威だった。 1936年、
    ベルギーは再び中立を宣言した。 イギリス、フランス、そして、ドイツが
    ベルギーの中立の立場を承認した。 しかし、ドイツが周辺諸国を次々に併合
    したため、摩擦は避けられないものとなり、1939年に第二次世界大戦が勃発した。
    1940年5月10日、ベルギーの中立を尊重すると誓約していたにも関わらず、
    ドイツは、再度ベルギーを侵略して、フランスに攻め入った。

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    激しい戦闘が18日間続いた後、レオポルド3世は、ベルギー軍を降伏させる手順を
    取った。 ナチの軍隊が国土を占領してから後、ドイツは、ベルギーから金銭と
    商品と労働力を奪い取った。 ベルギー人達は、地下の抵抗運動を組織し、
    ベルギーの武装兵力の一部は、イギリスに逃れ、ドイツ軍に対抗する連合軍と
    合流した。

    ドイツの占領は継続されたが、1944年の夏、連合軍がフランス北部に大挙して
    上陸し、やがてベルギーは開放された。 1944年12月、退却を続けていた
    ドイツ軍は、アンデンヌで最後の大攻撃を敢行した。 これは、バルジの戦いと
    呼ばれている。 1945年5月、ドイツは降伏した。

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    レオポルド3世が戦争初期にドイツに降伏したため、ベルギーは、ヨーロッパの
    他の一部の国々が被った程の破壊を受けずに済んだ。 しかし、多くの
    ベルギー人達は、国王がヒトラーに対して、協力的であり過ぎたと感じた。
    その問題は、フラマン人とワロン人の間の分裂を深め、フラマン人は、一般に
    君主制を擁護するのに対して、ワロン人は、国王は王位を捨てるべきだと要求した。
    レオポルドは、戦後の混乱期をベルギー国外で過ごし、1951年に王位を放棄した。
    息子のボードワン1世が後を継承した。

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    日本とブラジルの関係を語る時、日本人の移民とその歴史を抜きで語ることは
    出来ない。 日本からのブラジル移民が始まったのは、今から100年以上も前の
    明治時代まで遡ることが出来る。 明治時代に入り、日本は急激に近代化が
    進められたが、それに伴い、社会のあちらこちらに歪が生まれた。 農村では、
    今までお米で納めていた年貢をお金で支払うこととなり、貨幣経済に慣れて
    いない農民は、たちまち生活苦へと追い込まれた。

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    そんな生活から逃れるために、移民となって海外の新天地へと出掛けて行き、
    そこで働いてお金を稼ぐ人も出て来た。 出稼ぎ先は、はじめは、ハワイや
    アメリカ合衆国、メキシコ、ペルー等だったものが、やがて、アメリカの日本人に
    対する移民制限が始まった。 そんな時に、奴隷制度が廃止されて、労働力
    不足に悩まされていたブラジルから、日本政府に対して移民の誘いが届いた。



    【コーヒー農園での移民の暮らし】
    第一回の日本からの移民158家族、781名を乗せた笠戸丸が、ブラジルの
    サントス港に入港したのは、1908(明治41)年6月18日のことであった。
    日本からは、約50日間の船旅であった。 当時の移民の多くは、コーヒー農場に
    1年契約で雇われた。 移民家族は、農場内の住居に住み、朝から晩まで
    コーヒーの木の手入れをした。 1つの農場には、何万本ものコーヒーの木があり、
    家族ごとに木が割り当てられ、草取りからコーヒーの実の収穫まで責任を負わ
    された。

    収入は、出荷した袋の数に応じてお金が貰える仕組みであったが、出来の良い
    コーヒーの木があるとは限らなかった。 霜の害により、コーヒーの木が全滅
    することもあれば、逆に採れ過ぎて、価格が暴落してしまい、殆ど収入がない
    こともあった。

    日本からの移民の多くは、3~4年もすれば、沢山お金を稼いで帰る『出稼ぎ』の
    つもりで来ていた。 しかし、夢と現実の落差に気付き、ブラジルの大地に
    しっかりと根をおろして生きて行こうと決意する人達も居た。 また、ある人は、
    農業を辞めて、街に出て別の職業に就く人も出て来た。 このような苦労を重ね、
    日本人移民は次第にブラジルに定着して行った。

    この移民は、日本政府の援助の下に行われ、第二次世界大戦前にブラジルに
    渡った日本人の移民は、約19万人を超えた。

    Affiche

    【戦中、戦後の不幸】
    第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まると、ブラジルは、中立の立場を
    取っていたが、1942年、アメリカが属していた連合国側に付いて参戦した。
    そのため、ブラジルは、敵対する日本からの移民に対し、公の場での日本語の
    使用、日本語で書かれた書物の所持、日本語新聞の発行等を禁止した。 日本の
    敗戦をめぐっては、日本人移民同士での『勝ち組』『負け組』の対立にまで
    発展した。 『勝ち組』は、日本の敗戦を信じず、『信念派』、『負け組』は
    日本の敗戦を認め、それを知らせようとした人達で『認識派』とも呼ばれている。

    ブラジルに出稼ぎに来ているという認識が強かった当時の移民の中には、
    ポルトガル語を理解しようともせず、また、当時、日本で受けて来た教育の
    影響で、日本への想いが非常に強く、敗戦が信じられない人達も居た。 更に、
    日本語新聞の発行禁止により、情報が伝わりにくくなったため、孤立した人達も
    居た。 そのような人達が、『勝ち組』を襲って殺害する事件が、1950年頃まで
    続いた。



    【戦後の日本人移民】
    1951年、サンフランシスコ講和条約(対日平和条約)が日本とブラジルを含む
    連合国との間で結ばれると、翌年からブラジルへの移民が再開された。 敗戦後の
    日本は、外地から引き揚げて来た人達で人口が増え、食料が不足する状態で
    あった。 そんな時、ブラジルへの移民は、日本人にとって、大きな希望と
    なった。 戦後の移民も、初めは、農業移民が募られたが、そのうち、工業化を
    進めるブラジルと共同で事業を行う工業移民が募られた。 しかし、1960年代に
    入ると、日本が高度成長時代を迎え、経済的に恵まれるようになったため、
    1995年を最後に、ブラジルへの移民政策は、打ち切られた。 現在、
    ブラジルには、三世や四世等を合わせると、140万人以上の日系人が居ると
    言われている。



    【日本へ出稼ぎに来る日系ブラジル人】
    一方、最近では、ブラジルに移民した日本人の子孫である日系ブラジル人が、
    逆に日本に出稼ぎに来るという現象が続いている。 ブラジルは、1980年代から
    度重なる不況で失業者が増え、逆に、日本は、その時期には好景気となっており、
    人手不足が深刻となっていたため、ブラジルから多くの日系人がやって来た。
    日本政府は、外国人が仕事のために来日することを厳しく規制してしたが、
    1990年に日系人に対しては、三世までと、その配偶者に限り、日本での労働を
    認めたため、最大で、日系ブラジル人は、約30万近くまで膨れ上がった。

    その後、日本は長期に渡るデフレ不況に陥ったため、逆に、国策によって、
    ブラジルへの帰国が促され、ブラジル経済が活性化して来た影響もあり、現在、
    日本国内のブラジル系日系人は、15万人程度にまで激減りしているとも言われて
    いる。

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