多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:第一次世界大戦

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    独立以後も、ブルガリア人が多数住んでいるトラキアとマケドニアは、トルコの
    領域のままだったので、国民は不満だった。 指導者たちも、、ブルガリア人
    全てを単一の国家に統合したいと望んだ。 また、貿易の促進と経済の拡大には、
    エーゲ海に港を持つ必要があった。

    1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャの3国は、同盟を結んでトルコに宣戦し、
    第一次バルカン戦争が始まった。 1913年、3国側が勝利をおさめたが、トルコ
    から得たマケドニアの分割について3国の意見が一致せずに紛争となり、第二次
    バルカン戦争が始まった。 この戦争では、セルビアとギリシャが、ブルガリア
    だけを敵に回して戦った。

    daiichiji

    ブルガリアは敗れて、同年、講和条約が結ばれた。 その結果、ブルガリアは、
    一部の領土をトルコに返還し、マケドニアの極一部だけがブルガリア領となった。

    この頃、貿易と領土をめぐる敵対関係から、ヨーロッパ諸国はふたつの陣営に
    分かれていた。 ひとつは、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、トルコの3国
    からなる陣営で、『連合諸国』と呼ばれた。 それとは別に、バルカン半島の
    いくつかの国々は、オーストリア・ハンガリーの支配からの自由を求めていた。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、それが切っ掛けで
    オーストリア・ハンガリーは、セルビアに宣戦を布告した。 セルビアと同盟
    関係にあったロシアは、この紛争に介入、やがて『中央同盟』と『連合諸国』の
    戦争に広がり、第一次世界大戦が始まった。

    BulgariaWW2

    第二次バルカン戦争で失った領土を取り戻す好機と考えたブルガリアは政府は、
    同盟国側に付く事を決め、1915年、マケドニアの返還を条件に、連合国側に
    宣戦を布告した。 セルビアやブルガリアとの国境でも戦闘が始まった。

    しかし、ブルガリアの政治家たちの間では政策について意見が対立し、国内は、
    不安定な状況となった。 社会民主党と農民連合党は、ブルガリア政府の戦争
    関与を激しく非難した。

    1918年秋、同盟国側は、連合国側に降伏し、ブルガリアもトラキアとマケドニアを
    ギリシャに割譲する条約に調印せざるを得なくなった。 その上、セルビアを
    中心に新しく成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(後のユーゴ
    スラビア)は、ブルガリアの領土の割譲を要求した。 ブルガリアの軍隊は、
    反乱を起こして政権を握り、フェルディナントは退位して、息子のボリス3世に
    王位を譲った。

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    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成し、領邦国家となった。
    その集団の中でも、最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、
    800年から1806年まで存続した。  元々、この地域では。ドイツ語を話す集団と
    して、ある程度のまとまりは見せていたものの、それぞれの小国家にハッキリと
    分かれていたため、それぞれの独自性は維持された。

    その後、フランスのナポレン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は解体
    されたが、当時のドイツ北東部にあった強国、プロイセンによって、いくつかの
    同盟と戦争を経て、他の国々をまとめ上げたため、初めてのドイツ民族による
    統一国家が1971年に建国された。



    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。

    ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に割譲させられた。
    戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊されたものを修復する費用
    として、多額の賠償金を課せられた。

    ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせてくれる指導者を
    待望する動きが現れた。 アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党
    (ナチス)という小さな政党の党首であったが、ドイツの苦境を連合国や
    ヨーロッパのユダヤ人等のせいにして非難することで、国民の人気を集めた。
    1933年、ヒトラーは、その人気を利用して、ドイツの首相となった。 そして、
    間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。
    ナチスは、強制収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)
    等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた事実が明らかになった。

    1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。 西側諸国の
    力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。 社会主義政権の
    支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の約束を
    守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに困難な事業で
    あった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政によっても殆ど解決
    し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、老朽化しているために、
    労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ないところもあった。

    ドイツ再統一後、ドイツ経済の勢いに陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの
    近代化に毎年700億ドルを支出しなければならなかった。 しかし、2010年以降は、
    力強い経済発展を遂げ、現在では、EUの中でも1人勝ちとも言える程の経済力を
    誇っている。

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    1917年、ロシアで共産主義者と呼ばれる革命家達が政権を握った。 この政権は、
    第一次世界大戦の戦線から離脱し、ポーランド人が自らの政権を樹立するのを認めた。
    ポーランド臨時政府が成立し、やがて共和国の樹立が宣言された。 ピウスツキは、
    共和国の国家主席になった。

    ヴェルサイユ講和条約の結果、ドイツは武装解除され、ヨーロッパ北部と中部に新しい
    国境線が引かれた。 ポーランドは、ヴィスワ川からバルト海岸に及ぶ細長い地域を
    ドイツから獲得した。 隣接するグダニスク港は、住民の大半がドイツ語を話すため、
    ダンツィヒ自由市となり、結成された国際連盟の管理下に置かれた。

    ピウスツキは、3回に渡るポーランド分割以前に存在した国境を回復しようと考え、
    そのためロシアと紛争を起こした。 当時ロシアでは、共産主義政権が、皇帝の
    支持者たちと戦い続けていた。 1920年から始まった戦争で、ポーランド軍はロシア
    国内の混乱に乗じて、東部国境外の地域を奪い取った。 1921年、ポーランドと
    ロシアは、やっと平和協定を結んだ。

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    ロシアの共産主義者たちは、やがて国内の混乱を鎮圧して、1922年、ソビエト連邦を
    創設した。 同じ年、ポーランド国会は新憲法を制定し、ピウスツキは国家主席の
    地位を辞任した。

    1920年代、再建された下院議会は、教育、労働法、地主制度の改革案を成立させた。
    産業労働者たちは、労働組合を結成し、田園地帯の農民は自分たちの私有地を
    獲得した。 貿易を振興させるために、ポーランド政府は、バルト海岸に、新しく
    グディニア港を建設した。

    ポーランドの指導者たちは、見事にポーランドの再建しつつあったのにも関わらず、
    政党間の激しい争いが政府を弱体化させた。 その上、ウクライナ人、ドイツ人、
    ベラルーシ人などがポーランド人の統治に対して民族的な反感を持ち、また、
    物価が高騰して失業が広まったために、政治的な危機が生じた。 1926年ごろには
    問題が深刻化して、政府の機能は麻痺した。

    国会の失敗に失望したピウスツキは、軍の支持を受けて、1926年、政界に復帰し、
    政府を転覆させた。 ピウスツキは、下院議員の権限を制限し、自分の戦友のを
    総理大臣に任命した。 1920年代後半から30年代前半に掛けて、ピウスツキは
    軍の総司令官になり、1935年に病死するまで独裁者として国を支配した。

    1930年代になると、ドイツでアドルフ・ヒトラーのナチス政権が成立し、急速に
    再軍備を始めた。 1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの大部分を手中に収めた。
    この国は、第一次世界大戦後、ポーランドの南につくられた国家である。 ヒトラーは
    また、ダンツィヒをドイツの支配下に戻すように要求した。

    東では、ソビエトの指導者、ヨシフ・スターリンがポーランド東部はソビエトの領土であると
    主張した。 1919年の夏、ヒトラーとスターリンは、ポーランドを侵略して分割する
    秘密協定に調印した。 ヒトラーはダンツィヒとポーランド西武の領土を要求し、
    ポーランドはそれを拒否した。 イギリスとフランスは、ドイツが攻撃した場合には、
    ポーランドを支援すると誓約した。

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    1993年のはじめに、チェコスロバキアが分離して、チェコとスロバキアという
    ふたつの国が生まれた。 スロバキアは、歴史上初めて完全な独立国となり、
    長く続いた経済不況と、共産党の一党支配から抜け出す機会に恵まれた。
    しかし、国の将来については、意見がいくつも分かれ、スロバキアの政治は
    まだ安定していない。

    1918年以前のスロバキアは、中央ヨーロッパの王国、ハンガリーの一部であった。
    ハンガリー人は、スロバキアの独立要求を許さなかった。 そこでは、様々な
    権利や特権(例えば、投票権)を持った大地主が農場を経営して、その農場で
    働くスロバキア人農民は、投票権さえ持っていなかった。

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    第一次世界大戦(1914~1918年)の結果、中央ヨーロッパには劇的な変化が
    起こった。 ハンガリーが世界大戦で負けたのを機に、民族的に近いチェコ人と
    スロバキア人が一緒になったチェコスロバキアが建国され、独立した。
    スロバキアは国の東半分近くを占めていた。

    第二次世界大戦(1939~1945年)後、チェコスロバキアは、東ヨーロッパの強大な
    共産主義国であるソビエト連邦と親密な関係を築き、その政治勢力の下に入った。
    チェコスロバキアの共産党指導者は、民営の企業を禁止し、工業、農業、貿易の
    分野で厳しく管理した。 政府は、国家の情報や報道を規制し、全ての野党を
    禁止した。

    1950年に、スロバキアは、急速に工業化された。 共産党政府は、地方に巨大な
    工場を建設し、多数のスロバキア農民は、都市へ移動した。 雇用が増えて、
    政府は国民に医療福祉の恩恵を与え、生活水準は改善に向かった。 それでも、
    スロバキア人は、スロバキア自治を望んだ。 1968年に新しく連邦制となり、
    チェコとスロバキアは、それぞれの地方政府を持つことになった。

    チェコスロバキアでは、1989年まで、厳しい一等支配が続いた。 その都市に
    起こった市民革命は、共産党政権を辞任させた。 チェコでは、国家が決める計画
    経済に代わって、需要と供給が賃金と価格を決める自由市場経済の原理を取り入れた。
    しかし、それまで共産党員であったスロバキアの指導者達は、未だに国家管理の
    計画経済を支持している。 その結果、国営企業の民営化は、チェコの方が
    スロバキアよりも遥かに早く進んだ。

    1990年代の半ばに、スロバキアの企業は、外国からの投資に門戸を開いた。
    スロバキア工業製品の多くは、依然として時代遅れであるため、輸出が難しい。
    結果として、高失業率や物資不足、生活水準の低下に悩まされた。

    その上、共産主義の崩壊の後生まれた諸政党は、まだ混沌といしている。
    スロバキアの指導者達は、急速な経済改革を強く批判している。 そのため、
    政府は、重要な政策決定を下すことが出来ない。 スロバキア人は、ついに手に
    入れた自由と独立を喜ぶ一方で、国の将来に横たわる問題に不安を抱いている。

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    1930年代後半、第一次世界大戦の時と同じような軍事問題が再び起きて来た。
    しかし、今回はイギリス政府は、以前ほど積極的に国際紛争に関わろうとしなかった。
    保守党首相ネヴィル・チェンバレンは、国内問題を優先した。

    しかし、1939年9月、ドイツがイギリスの同盟国ポーランドに侵攻した時、チェンバレンは
    仕方なく宣戦を布告した。 その後まもなく、チェンバレンは辞職し、ウインストン・
    チャーチルが自由党、労働党、保守党の連立内閣の首相となった。 イギリスと
    連合国(ソ連、アメリカ、フランス)が枢軸国のドイツ、イタリア、日本と戦った。
    第二次世界大戦である。

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    1940年、ドイツ空軍がイギリスの海岸や主要都市を連日のように空爆して、ロンドン、
    コヴェントリー、リヴァプール、ハル、ブリストル、プリマスの鉄道、港湾設備、工場、
    住宅が破壊された。 海外からイギリスへ何トンもの物資を輸送する船が、ドイツの
    潜水艦に撃沈されたため、イギリスでは食料、物資の配給が日常のことになった。
    だが、イギリス国民は、戦争支持の決意をあらわにした。

    結局ドイツ軍は、イギリス侵攻を果たせず、1943年、戦争の流れは連合国に有利と
    なり、1945年に連合国側勝利で終戦となった。 しかし、イングランドの都市の多くは、
    廃墟と化し、国民は大きな損害を被った。

    戦後、クレメンツ・アトリーを党首とする労働党政府は、破壊された工場や市場の
    減少、資金の不足などの問題と取り組んだ。 破綻したイギリス経済の建て直しには、
    アメリカからの借入金があてられた。

    アトリー政府は、国有化計画の実施も図った。 これは石炭、鉄鋼、鉄道など基幹
    産業の所有を、個人の手から国家へ移すものだった。 イングランド銀行さえ国家の
    管理下に入った。

    労働党が強く目指したのは、広い社会福祉関係の立法であった。 議会は。退職者や
    失業者のための国民健康保険を規定する法案を通過させた。 新しい国民健康保険
    により、国民は安い費用で医療を受けられるようになった。

    1952年に即位した女王エリザベス2世の名の下、1950年~60年代には、保守党政権が
    続いて経済力は弱まり、求人は増え、賃金も上がった。 その結果、人々は自分の
    家を持ち、冷蔵庫やテレビも買う余裕が出来た。 イングランドの全ての階級の
    人々が余暇を様々な活動に使い、ヨーロッパ大陸などへ旅行する余裕も生まれた。

    大学も新設され、奨学金も増設された。 また、より良い生活を求めて、イギリスの
    植民地から何千人もの人々がイングランドに移住して来た。

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    【経済の衰え】

    戦時の荒廃から急速に回復したため、1960年代半ばから70年代には、イングランド
    経済に歪みが生じた。 新しい社会福祉計画は、財政負担を増やした。 アジアから
    海軍を呼び戻し、植民地の多くに自治を認めたため、イギリスの国際的影響力は
    弱まっていた。

    イギリスの持つ海外市場が減少すると共に、国内では失業者が増えて、また生活費は
    急激に膨張した。 労働組合は1972年~79年に掛けて、賃上げを要求して何度も
    ストライキを行った。 労働党政府は、連続して政権を取る中で、これらの問題解決に
    努めた。 例えば、イギリスは、1973年にEC(欧州共同体)に加盟したが、これは
    イギリスの商品をヨーロッパ市場に参入させて、市場の拡大を図ろうとする動きの
    ひとつだった。

    最近発見された北海油田開発のために資金が投入されたが、これは自国の石油を
    増産させて、石油の輸入を減らそうとの考えだった。

    しかし、なお失業率は高く、インフレはひどくなり、ストライキは頻繁に起こるなど、
    問題が重なり、労働党政府の力は弱まった。 また、与党であった労働党が非核武装
    問題で分裂することもあった。 労働党内部に、非核武装を国の政策にしたいと
    思う人がいたからだ。 このようなことで労働党政府は、1979年に政権を失った。

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    オーストリア共和国は、ヨーロッパ中央にある内陸の山岳国家で、人口は約800万人。
    かつては、多数の民族から成る巨大な帝国の一部だったが、現在は、9つの小さな
    州から成り立ち、国民の大部分がドイツ語を話す。

    オーストリアの歴史は、ヨーロッパの交易の民族移動の十字路として始まった。 国の
    北部を流れるドナウ川は、ヨーロッパの西、北、東の3つの部分を繋いでいる。
    ドナウ渓谷に最も早く定着したのは、東から来たケルト民族と、南のイタリア半島から
    来たローマ人であった。

    austriamap

    1200年代、ルドルフがこの地にハプスブルグ王朝を創設した。 この王朝は、その後
    600年以上に渡り、オーストリアを含むヨーロッパ各地を統治した。 16世紀から
    17世紀に掛けての絶頂期には、ヨーロッパの半分近くがハプスブルグ帝国の領域で
    あった。

    1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアは、隣国であるドイツに味方して、
    セルビア、ロシア、イタリア、イギリス、日本、アメリカ等と戦った。 4年間の戦闘の末、
    オーストリアとドイツは敗北し、ハプスブルグ王朝は崩壊した。 1918年、帝国内の
    非ドイツ系民族はそれぞれ独立して別個の国家となり、ドイツ系民族は、オーストリア
    共和国を創った。

    hapsburg

    1929年の世界大恐慌はオーストリアの経済にも深刻な打撃を与えた。 国力の衰えて
    いたオーストリアは、1938年に、ドイツのヒトラー政権によって併合を食い止めることが
    出来なかった。 1939年に第二次世界大戦が勃発した時、オーストリアは、ドイツの
    一部として、日本、イタリアと共に、枢軸国側に立ち、イギリス、フランス、ソビエト、
    アメリカ等の連合国側と戦った。 連合国側による広範な爆撃と地上攻撃の結果、
    ドイツは1945年に降伏し、オーストリアは独立を回復した。

    戦後のオーストリアは、外国の援助を受けて、1955年までに順調な経済成長を遂げ、
    安定した政府を持つに至った。 過去の歴史を反省したオーストリアの指導者達は、
    将来、世界にどのような扮装が生じようとも、一切関与しないと宣言した。

    現在のオーストリア国民の生活水準は高く、健康保険と社会保証は、労働者全体に
    行き渡り、失業率は低い。 国内の主要政党は、協力して国家の方針を定めており、
    東西両ヨーロッパとの貿易額は増加を続けている。

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    【七月革命二月革命から帝政へ】

    ナポレオンが追放されると、ブルボン朝のルイ18世が王位に就き、立憲君主国
    としてスタートした。 しかし、次のシャルル10世が議会を解散すると、1830年に
    七月革命が起こった。 オルレアン家のルイ・フィリップが王位に就くが、やがて
    中小の市民層が支持する共和派や、社会主義派が力を伸ばし、1848年に二月革命を
    起こした。

    ここに再び共和制が成立するが、1852年にナポレオン3世が帝位に就いた。 産業
    革命や鉄道建設を進め、スエズ運河の建設、パリの都市改造等にも着手した。
    外国にも、クリミア戦争への参加、インドネシアへの進出、メキシコ遠征等を
    進めるが、1871年にプロイセンとの戦いに敗れ、帝政は崩壊した。

    19世紀後半、フランスの文化はさまざまなジャンルで花開いた。 モネやセザンヌ、
    ルノアールらの画家が相次いで登場し、パリは芸術と流行の中心として発展した。
    それに合わせて、パリでは、万国博覧会が開かれ、世界の注目を集めた。

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    【2つの世界大戦】
    19世紀末から、ドイツとの緊張が高まった。 フランスは、ロシアやイギリスと
    手を結び、ドイツを中心とした三国同盟に対抗した。 1914年に第一次世界大戦が
    始まると、フランスは戦場となり、1918年までに140万人もの死者を出した。
    1939年に第二次世界対戦が始まると、ナチス・ドイツ軍は1940年にパリを占領
    した。

    これに対抗して、ド・ゴール将軍は、ロンドンに亡命政権を起こし、国内では
    レジスタンスによる抵抗運動が続けられた。 1944年にレジスタンスは反撃に
    転じ、パリを開放した。

    戦後は海外植民地で独立運動が高まった。 1954年にベトナムの独立を認めたが、
    アルジェリアでは1958年に反乱が起こった。 この危機に大統領に選ばれたド・
    ゴールは、アルジェリアの独立を国民投票で決め、フランスの工業化を進めると
    共に、ヨーロッパ経済共同体(EEC)を発足させる等、独自の路線を展開した。

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    経済成長期に北アフリカから多くの移民を受け入れたフランスでは、1980年代から
    移民を巡る問題が起こっている。 2005年には中東やアフリカ系移民による暴動が
    起こり、政府は非常事態宣言を出した。 移民対して開かれた国でいられるか、
    注目されている。

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    20世紀初頭までに、ベルギーは、社会的に安定して来たが、政治的、宗教的、
    言語的な面では、分裂した社会でもあった。 人々は何らかの宗教グループか
    政治的党派に属していた。 宗教的グループであるカトリックと、政治的党派で
    ある自由党は、『柱』と呼ばれる制度を採用して、それぞれ別個のグループを組み、
    平等の立場で社会生活を営むようになった。

    『柱』は、あくまでも自立したもので、教育制度、文化施設、労働組合、言語、
    医療サービス、社会サービス等の機関を別個に持っていた。 それぞれの『柱』の
    中では、別個の政党が組織されて、政府に影響力を行使し、『柱』同士の紛争を
    解決した。 これによって、『柱』のメンバー達の要求は処理され、政府に対する
    民衆の不満は大幅に回避する事が出来た。

    大部分のベルギー人は、経済的な安定を望み、そのためには、ヨーロッパでの
    平和が不可欠だと考えていた。 さまざまな国家間条約が結ばれて、列強の
    間での勢力の均衡が図られた。 戦争の危機を避けるため、ベルギーは、
    ヨーロッパの他の幾つかの小国と同じように、中立国を宣言していた。 これは、
    どんな戦争にも加担しない事を意味した。 しかし、このやり方は失敗し、
    1914年に戦争が始まった。

    p0790

    【第一次世界大戦】
    第一次世界大戦では、イギリス、フランス、イタリア、ロシア等の連合軍が、
    ドイツ、オーストリア等の同盟国と戦った。 1914年8月、ドイツ軍は、
    フランスに攻め込む過程で、ベルギーを侵略した。 戦争の全期間を通じて、
    ベルギー側の手に残っていたのは、西部の細長い地域だけだった。 占領された
    地域は、戦争により、徹底的に破壊された。 イーペルだけでも、3回もの
    激戦場となった。 ベルギー南部とフランス北部の長期の戦闘で、何十万人
    もの兵士が命を失った。 それでも、数千人ものベルギー兵が、1918年の
    ドイツの敗北まで連合軍と共に戦い続けた。

    戦後、ベルギーは、国際連盟の創設に力を貸した。 これは、世界的な国際
    組織で、戦争の防止を目標としていた。 国際連盟は、アフリカにあった
    ドイツの植民地ルアンダとウルンディ(現在のブルンディ)を、ベルギーの
    委託統治領とした。 ベルサイユ条約によって、第一次世界大戦は、正式に
    集結し、サンヴィット(現在は、何れもリエージュ州東部に所属)を獲得した。

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    1930年代の世界恐慌は、経済を再建しようとするベルギーの努力に水をさした。
    失業率は増加し、法と秩序と経済的安定を看板に掲げた政治運動が、いくつも
    起こった。 その中で、最も強力だったのが、ナチスで、アドルフ・
    ヒットラーの指導の下に、ドイツで勢力を振るった。 この頃、ベルギーでは、
    1934年にレオポルド3世が国王となり、安定した君主制が続いていた。

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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には、不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んで、カール
    1世が皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は、経済状態の悪化に
    抗議した。 中央政府の弱体化につれて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人が次々とオーストリアからの独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツと共に、ついに連合国側に
    降伏した。 降伏後、カール1世は退位し、600年以上にも渡るハプスブルク家
    支配は終わった。 社会民主党の指導で臨時国会 が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれ、共和国の現在の
    国境が確定した。 この条約はまた、ハンガリ-、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストラリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて、国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

    オーストリア国内の不安はなおも続き、共和国の経済は、少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人は、元のハプスブルク帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合を支持する声が、
    1930年代初期まで高まった。 世界的な経済不況と、ウィーンのある大銀行の
    倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は、ますます苦しく
    なった。 このために、統合運動は、ますます力を得た。

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    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府には、ドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を
    受けていた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者であるクルト・フォン・
    シュシニックは、何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーは、それでも
    満足せず、1939年、ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によって、
    統一を成し遂げた。 オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者と
    ユダヤ系住民達を逮捕し、ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。
    1939年、ドイツのポーランド侵入によって、第二次世界大戦が始まった。

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    皇帝であったペドロ2世は亡命し、ブラジルは正式に共和国の宣言をした。
    1891年には、新憲法が発布された。 共和制への移行は、円満とは言えな
    かった。 古くから勢力を持つ北部の大農園主と、力を付け始めた南部地域の
    産業資本家が対立し、政治を混乱させ、これが軍部が政治に割り込む口実と
    なった。

    結局のところ、南部の勢力が勝利をおさめた。 その後40年以上、ブラジルの
    大統領は、2人の例外を除いて、ミナスジェライスとサンパウロという南部
    2州の出身者で占められた。 州政府は、どこまで自治権を与えるかで
    リオデジャネイロの中央政府と州政府が衝突した。 しかし、その間にも、
    ブラジルの鉄道は発達し、港は近代化され、ブラジルは国際的にも経済力の
    ある国に成長した。

    新しくブラジルに生まれた産業勢力は、南部地域にある2、3の工業と金融の
    中心地に集中していた。 地域格差が目立つようになり、人々はそれに気付き
    始めた。 南部出身の政治家が放置して来た北東部では、貧困と病気がは
    びこり、何百万人という貧しい黒人は、飢えに苦しみながら死んだ。

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    第一次世界大戦が起きると、ブラジルの指導者層は2つに割れた。 上流階級の
    殆どと中流の人々の多くは、連合国側を支持した。 一方、ドイツ支持を表明
    する人達もいた。 南部地方のドイツ系の人々と軍の指導者の一部である。

    ブラジルの船がドイツの潜水艦に何度も撃沈されても、国論は定まらず、1917年、
    ブラジルは、ようやく、ドイツに宣戦布告した。 南アメリカの国の中で、
    ドイツに宣戦布告したのは、ブラジルのみである。 戦争の後で、ブラジル軍部に
    不満が生じ、反乱が起きた。

    1922年の『コパカバーナ砦の反乱』は、中流の下の階層出身の若手将校が、社会
    正義と政治の一新を目指して起こしたものであった。 理想は高いが、準備不足
    だったこの反乱は、たちまち鎮圧された。

    1924年、ひとりの軍人が改革を志した。 元陸軍大尉のルイース・カルロス・
    プレスティスは、軍を率いて全国を行軍し、各地で国の改革を訴えた。 沢山の
    ブラジル人が、彼の考えに共感したが、プレスティスは、反逆行為を行ったとして、
    追放された。 長い間、モスクワに滞在した後、彼は、熱心なマルクス・レーニン
    主義になって帰国し、1934年、ブラジル共産党を組織した。

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    【ジェトゥリオ・ヴァルガスの時代】

    世界的な不況の波がブラジルにも押し寄せ、軍や民間の指導者達は、共産革命を
    恐れるようになった。 そんな時代に、ジェトゥリオ・ヴァルガスは登場した。
    ヴァルガスは、州知事から1930年に、大統領選挙に立候補した。 ヴァルガスは、
    選挙に敗れたが、軍部の支持を得て、共産主義の扇動から国を守るためと言って、
    その年の10月に権力を握った。

    こうして、20年間にも及ぶヴァルガスの時代が始まった。 気さくで、謙虚で、
    温厚な人柄の上に、胸の奥に鉄の意志を秘めたヴァルガスは、護衛も連れずに街を
    散歩し、来客をセンスのあるユーモアで楽しませた。 当時、政治家は、地元の
    利益ばかりを考え、駆け引きに明け暮れていたので、国内は無政府状態に近かった。
    そこに、良心的で正直なヴァルガスが登場した。 彼が大統領になった時、
    ブラジルの人達の大半は、ついに国民と同じ願いを持つ大統領が登場したと
    喜んだ。

    ヴァルガスは、地方意識の強い国民に、州への忠誠よりも挙国の一致が大切だと
    説いた。 議会は、州の間の交易の生涯をなくし、外国債の支払いを停止し、
    工業の育成に務める法案を次々に可決した。 ヴァルガスが、ブラジルで最初の
    職能組合を発足させ、社会保障制度を定めると、一般市民は、大喜びした。
    反乱があると厳しく鎮圧したが、反乱分子の扱いは、寛容であった。

    ファシスト集団の台頭に悩まされたヴァルガスは、1937年11月、国の安全を
    理由に、もう1期大統領を努めると宣言した。 面倒な議会を解散すると、新しい
    憲法を制定し、中央集権的な新国家を建てた。 国民の権利は制限された。 新聞、
    ラジオをはじめとして、学校でさえも、検閲の対象となり、新政府の情報局から
    命令を受けるようになった。

    ヴァルガスが他の南アメリカの独裁者と違っていたところは、自分のやり方に
    批判的な指導者達さえも役立て、有能な人材を州知事、閣僚、軍の長官、外国の
    大使として起用した。 その度に国民の信頼は、高まるばかりであった。

    ヴァルガスの精力的な活動は、アメリカの援助を引き出し、これにより工業化が
    進められた。 1938年には国立石油審議会が、1941年には、国立製鉄会社が
    始められ、鉄道が延長された。 第二次世界大戦が近づくに連れて、ヴァルガスは、
    一方でドイツ、イタリア系の枢軸国寄りの将校の支持を取り付けながら、もう
    一方で、アメリカとも友好関係を続けなければならなかった。 だが結局、
    1942年8月、ブラジルは、枢軸国に宣戦布告した。

    1945年になって戦争が終わりに近づくと、ヴァルガスの独裁に対する不満が現れ
    始めた。 ヴァルガスは、選挙を行ったが、敗北した。 1946年9月、新政権が
    出来、新憲法が発布された。 しかし、ヴァルガスの時代は、まだ終わらなかった。

    新政府の下のブラジルは、国際収支の赤字や、インフレや政治の腐敗に悩まされ、
    国民の不満が高まった。 しかし、議会は、様々な派閥に分かれ、こうした
    問題に立ち向かう能力も意欲も示さなかった。

    1950年、ヴァルガスは、再び大統領に選ばれたが、かつての手腕は振るえ
    なかった。 大統領が代わっても、増え続ける体外赤字は止まらなかった。
    賃金労働者は、激しいインフレで給料が目減りするのに腹を立て、ヴァルガスの
    経済政策を非難した。 やがて事件が起きた。 ヴァルガスを激しく非難した
    新聞の編集長が、大統領側近が雇った殺し屋に暗殺されそうになった上に、
    同行の軍人が殺害されたのである。 これを切っ掛けに、ヴァルガスの時代は
    終わった。 ヴァルガスは、長く権力の座にあったが、個人への暴力は認めない
    人だった。 側近がこれらの事件に関わっていることを知ると、彼は自殺した。
    1954年8月のことだった。

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    【ジュセリーノ・クビチェック】
    1956年、ジュセリーノ・クビチェック・デ・オリヴェイラが大統領に選ばれた。
    彼は、1961年まで、民主的に国をおさめた。 経済の悪化をものともせずに、
    クビチェックは、ブラジル人の昔からの夢の現実に務めた。 それはまったく
    新しい土地に首都を築くことであった。 首都であったリオデジャネイロから、
    北西におよそ1,000キロ進んだ土地に、ブラジリアが建設された。 当時は、殆ど
    住む人も居なかったが、そこは、地理的にブラジルの中心地であった。 1960年に
    ブラジリアが完成すると、国民は、国への信頼を取り戻した。 遷都のための
    急激なインフラが生じたことで、クビチェックを非難する人が居るが、歴史は、
    彼の判断の正しさを証明している。 1961年、クビチェックは、平和のうちに、
    任期を終え、後継者のジャニオ・クアドロスに大統領の座を譲った。 一般選挙で
    選ばれた大統領で、任期を終わりまで務めたのは、彼が最後となった。

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    元々、チロルはひとつだったが、第一次世界大戦後、ハプスブルグ帝国の
    崩壊と共に、南チロルは、オーストリア領からイタリア領となった。 しかし、
    この地域では、今でも『チロル』としての住民意識が根強く、イタリア内に
    ありながら、多くの人達が今でもドイツ語で生活をしている。

    現在は、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ
    自治県に属しており、街で飛び交う言語は、ドイツ語が最も多い。 街の通りは
    ドイツ語とイタリア語が併記されており、南チロルでは、イタリア語が強制
    されたことから、衝突が生じた時代もあったが、今では、ドイツ語で教える
    学校もあり、各家庭で子供をどちらで学ばせるかを選択出来るようになっている。



    【メラーノ(Merano) / メラーン(Meran)
    チロル地方の古都、メラーノは、ドイツ語では『メラーン』と呼ばれており、
    13世紀にチロル地方の都として定められた。 公式には、19世紀まで都であり
    続けたが、実際のところは、名ばかりであったため、現在では、緑あふれる
    気品のある街となっている。 ブルグラヴィアート(ブルクグラーフェンアムト)
    地方 (Burggrafenamt) の中心都市となっており、県都ボルツァーノからは、
    北西へ約25km、州都トレントからは、北へ約66kmの距離にあり、保養地
    として整備されているため、街歩きも実に楽しい。



    【ボルツァーノ(Bolzano) / ボーツェン(Bozen)】
    ボルツァーノは、ドイツ語では『ボーツェン』と呼ばれており、イタリア共和国
    トレンティーノ=アルト・アディジェ州北部の都市で、その周辺地域を含む人口
    約10万人の基礎自治体(コムーネ)で、ボルツァーノ自治県の県都となっている。
    古都メラーノの街からは、約25キロの場所にあり、山に囲まれた地理的な条件は
    同じだが、非常に対象的な街となっている。 緑の街であるメラーノに対して、
    ボルツァーノは石の町。 都であるメラーノに対して、ボルツァーノは商業の
    街だった。

    ボルツァーノの旧市街は意外に広く、街が古くから繁栄して来たことを意味して
    いる。 大きな広場を中心に、石畳の路地や、建物の中を通り抜けられる道が
    張り巡らされている。 建物には、壁画や彫刻を施されたものが目に付く。
    ボルツァーノは、石造りの特有の重々しい印象があるが、南チロルに降り注ぐ
    力強い日差しがそれを跳ね返し、街全体をとても明るくしている。 同じ
    チロルにある石造りの街、インスブルックと比較してみるのも興味深い。

    旧市街は、1本の川が境界線となっており、川沿いの道は、緑の多い公園と
    なっている。 古くは、ローマ時代まで遡る街だが、中世時代に、年に4回
    ほど大きな市が開かれたため、街が発展した。 その歴史を受け継ぎ、市が
    立つ通りが今でもある。

    【お勧めの一冊】




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