横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:第一次世界大戦

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    1860年代には、北ドイツのプロシア王国、並びに、イタリアとの戦いに敗れ、
    スラブ人とハンガリー人の反乱もハプスブルク帝国を弱体化した。 1867年、
    帝国が崩壊するのを恐れた皇帝フランツ・ヨーゼフは、新しくオーストリア・
    ハンガリー帝国を樹立することに同意した。 その結果ハンガリーは、独立した
    議会、行政、司法機関を獲得した。

    オーストリア・ハンガリー帝国
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    しかし、この動きはスロバキアの自由独立への希望を打ち砕いた。 スロバキア
    支配の決意を新たにしたハンガリー指導者は、先祖の名に因んでマジャール化運動を
    始めた。 ハンガリー語のみが公用語となり、スロバキア語の学校は閉鎖された。

    この政策と、打ち続く貧困は、多くのスロバキア人がアメリカへ移住する要因と
    なり、残った人達は農場や工場で不満分子となった。 スロバキアの民主主義は
    労働者の間に育ち、1800年代の終わり頃にスロバキア国民党が結成された。
    党は、オーストリア・ハンガリーに住むスラブ民族の独立を支持するロシアと
    同盟を組んだ。

    【新共和国】
    1900年代初め、オーストリア・ハンガリー帝国内のスラブ諸民族は、混乱の渦に
    巻き込まれていた。 1914年に派プルブルクの皇太子がセルビア人に暗殺された。
    この事件は、独立したスラブ人の国セルビアと、オーストリアとの戦争の引き金と
    なった。 ドイツとオーストリア・ハンガリーは同盟を結び、ロシアがセルビアを
    支持した。 イギリス、フランス、イタリアはドイツ同盟国を敵に回し、第一次
    世界大戦(1914~1918年)が始まった。

    チェコ人もスロバキア人もハプスブルクの支配下にあったが、同じスラブ民族の
    ロシア人やセルビア人と戦うことを拒否した。 多数のスロバキア人が
    オーストリア軍を脱走し、チェコスロバキア軍隊を編成し、1917年までに
    ロシア側に付いて戦ったが、ロシアに社会主義革命が起こり、ロシアは戦争から
    手を引いたため、情勢が変わった。

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    戦争中、チェコの民族主義者達トマシュ・マサクリとエドアルド・ベネシュは
    イギリスに逃れ、スロバキアの指導者ミラン・シュテファニクと共に独立する案を
    作った。 2年後、アメリカでマサクリは、、チェコとスロバキアの独立宣言を
    承認するピッツバーグ協定に署名した。 マサクリは連邦の枠内でスロバキアの
    自治を約束した。

    1918年秋、ドイツとオーストリア・ハンガリーの敗北が明らかになり、
    チェコスロバキア国民評議会はプラハへ移った。 評議会は10月、スロバキア、
    ルテニア、モラビア、ボヘミアを含むチェコスロバキアの建国を宣言した。
    同年11月に戦争は終わり、オーストリア帝国は崩壊し、ハンガリーは独立した。
    トリアノン条約により、ハンガリーは正式に、スロバキア領土を失った。

    戦勝国はドイツとオーストリアの降伏に厳しい条件を付けた。 両国共、領土を
    失い、戦争の賠償支払いを強要された。 その頃、ロシア内部で共産主義者と
    皇帝派との内戦が続いていた。 最終的に共産主義者達が勝ち、ロシア、
    ウクライナ等、いくつかの共和国を含むソビエト連邦を樹立した。

    58名のスロバキア国民議会は、トマシュ・マサクリを新国家の大統領に選出した。
    マサクリが自治を約束したのにも関わらず、スロバキア人は新国家の独立を余り
    喜ばなかった。 チェコの指導者は、チェコ人が多数を占める中央政府を強化
    したからだ。 その上、チェコ人はスロバキアの行政上の高い地位も独占した。

    政府は1920年代にスロバキアに分離した立法府を作ったが、殆んど実権が
    なかった。 裏切られたと感じた多くのスロバキア人は、自身の国家建設を
    目指すようになった。

    スロバキアのカトリック神父アンドレイ・フリンカが率いるスロバキア人民党が
    設立され、フリンカは国民議会議員に選出されて、スロバキア独立のために闘った。
    彼の努力は不成功に終わったが、人民党はスロバキアでも、最も活動的な
    政治グループとなった。

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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んでカール1世が
    皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は経済状態の悪化に抗議した。
    中央政府の弱体化に連れて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人等が次々とオーストリアから独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツと共に遂に連合国側に降伏した。
    降伏後、カール1世は退位し、600年以上に渡ったハプスブルグ家の支配は
    終わった。 社会民主党の指導で、臨時国会が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれて、共和国の現在の
    国境が画定した。 この条約はまた、ハンガリー、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

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    オーストリアの国内の不安はなおも続き、共和国の経済は少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人達は、元のハプスブルグ帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合、ドイツ語で
    アンシュルスを支持する声が、1930年代初期に高まった。 世界的な経済不況と、
    ウィーンにある大銀行の倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は
    ますます苦しくなった。 このためにアンシュルス運動はますます力を得た。

    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党、ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府にはドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を受けて
    いた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者クルト・フォン・シュシニックは
    何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーはそれでも満足せず、1938年、
    ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によってアンシュルスを成し遂げた。
    オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者とユダヤ系住民を逮捕し、
    ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。 1939年、ドイツの
    ポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まった。

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    近代化に伴ってヨーロッパでは、領土や貿易をめぐる対立が激化していた。
    この対立が戦争になりかねないことを見て取ったヴェルヘルム2世は、1888年、
    権力の座に就くと、強力、かつ、近代的な海軍の組織作りを命じた。 既に、
    ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を結んでおり、戦争になれば協力する
    ことで合意していた。 また、ドイツの戦力を恐れたロシア、フランス、イギリスは
    後に三国協商を結成、この2つの対立するブロックは、それぞれ軍隊を整備し、
    全ヨーロッパを巻き込む戦争に備えた。

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    1914年6月、オーストリア皇太子が、ヨーロッパ南東のセルビアで暗殺されるという
    事件が起きる。 これに対してオーストリアは、セルビアに宣戦布告をした。
    一方、セルビアはロシアの同盟国であったので、三国協商の国々はセルビア救済の
    ために軍隊を終結した。 ドイツもオーストリアとの同盟の下、戦時体制を敷き、
    8月、ヴィルヘルム2世はフランスへの進軍を命じた。 こうしてヨーロッパの
    国々の対立は、第一次世界大戦(1914~1918年)へと広がって行った。

    ドイツは東部戦線でロシアを破るなど、初めは優勢であった。 ところが、
    1917年にはアメリカがイギリスなど連合国側に参加する。 また、北フランスでも
    ドイツはイギリス、フランス、アメリカとにらみ合っていたが、海上封鎖を受け、
    ヴィルヘルム2世下の軍隊にとって、次第に形勢は不利になって行った。 こうして
    1918年11月、ドイツは遂に降伏した。

    これに対し政府の政策や上官の命令に不満を抱いていたドイツの労働者や軍人達は、
    国中で暴動を引き起こした。 このためヴィルヘルム2世は退位を迫られ、
    社会民主党は新しい民主的な政府の設立を宣言することになる。 ヴェルサイユ条約
    (第一次世界大戦後の講和条約)の下、ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに
    返還、プロイセンの大部分をポーランドに割譲することを余儀なくされた。 また、
    連合国はドイツに多額の賠償金を要求し、ラインラントとザール地方を占領し、
    産業を摂取した。

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    第一次世界大戦中(1914~1918年)、保守党の新党首ロバートLボーデンが
    政権を握ったカナダは、イギリスと同盟を結び、ドイツと戦った。 60万人
    以上のカナダ人がカナダ軍に入隊し、約6万3,000人の戦死者が出た。

    ボーデンの政府は、はじめ徴兵制はとらないと公約していたが、やがて志願兵
    制度では兵員を確保出来なくなり、1917年には徴兵を始めた。 その結果、
    徴兵制を支持するイギリス系カナダ人と、反対するフランス系カナダ人とが
    反目するようになった。 ボーデンは保守党と自由党の連合政権を実現し、
    国論の分裂を避けようとした。

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    戦時中、カナダは軍艦と兵器を生産し、ヨーロッパの戦場に食料を補給して、
    多大な富を築いた。 世界大戦に軍事面で協力したことを理由に、カナダは
    イギリスに握られていた外交・防衛政策の決定権を要求した。 イギリスと
    しても、カナダの労働力と資源に頼らなければならないため、より大きな
    自治の権限を求めるカナダの意向を受け入れたが、独立を完全に認めた訳では
    なかった。

    1921年に、自由党の党首ウィリアム・ライオア・マッケンジー・キングが首相に
    なった。 彼の目標の1つは、カナダの独立を勝ち取ることだった。 1926年と
    1930年の2度に渡って、キングはイギリスの指導者たちと会見し、独立国としての
    カナダの地位を確認して、ウエストミンスター条例を作成した。 1931年に、
    この条例はイギリス議会を通過し、カ.0
    ナダは内政と外交の両面で実質的に独立
    したことになった。 イギリス王国はその後も、カナダの象徴的な国家元首の
    地位に留まった。

    1930年代に全世界を襲った大恐慌は、カナダの繁栄に大きな影響を与えた。
    特に、輸出に頼る度合いの大きい大平原の諸州は、酷い打撃を受けた。 カナダの
    外国貿易は非常に衰え、穀物の価格が下がって、失業者の数が著しく増加した。
    しかし、1939年に第二次世界大戦が起こると、カナダの経済不況は大幅に緩和
    された。 織物、鉄鋼、食料の需要が増した。 大恐慌の間は閉鎖されていた
    工場が操業を始め、失業者を雇い入れて軍需に応じた。

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    独立以後も、ブルガリア人が多数住んでいるトラキアとマケドニアは、トルコの
    領域のままだったので、国民は不満だった。 指導者たちも、、ブルガリア人
    全てを単一の国家に統合したいと望んだ。 また、貿易の促進と経済の拡大には、
    エーゲ海に港を持つ必要があった。

    1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャの3国は、同盟を結んでトルコに宣戦し、
    第一次バルカン戦争が始まった。 1913年、3国側が勝利をおさめたが、トルコ
    から得たマケドニアの分割について3国の意見が一致せずに紛争となり、第二次
    バルカン戦争が始まった。 この戦争では、セルビアとギリシャが、ブルガリア
    だけを敵に回して戦った。

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    ブルガリアは敗れて、同年、講和条約が結ばれた。 その結果、ブルガリアは、
    一部の領土をトルコに返還し、マケドニアの極一部だけがブルガリア領となった。

    この頃、貿易と領土をめぐる敵対関係から、ヨーロッパ諸国はふたつの陣営に
    分かれていた。 ひとつは、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、トルコの3国
    からなる陣営で、『連合諸国』と呼ばれた。 それとは別に、バルカン半島の
    いくつかの国々は、オーストリア・ハンガリーの支配からの自由を求めていた。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、それが切っ掛けで
    オーストリア・ハンガリーは、セルビアに宣戦を布告した。 セルビアと同盟
    関係にあったロシアは、この紛争に介入、やがて『中央同盟』と『連合諸国』の
    戦争に広がり、第一次世界大戦が始まった。

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    第二次バルカン戦争で失った領土を取り戻す好機と考えたブルガリアは政府は、
    同盟国側に付く事を決め、1915年、マケドニアの返還を条件に、連合国側に
    宣戦を布告した。 セルビアやブルガリアとの国境でも戦闘が始まった。

    しかし、ブルガリアの政治家たちの間では政策について意見が対立し、国内は、
    不安定な状況となった。 社会民主党と農民連合党は、ブルガリア政府の戦争
    関与を激しく非難した。

    1918年秋、同盟国側は、連合国側に降伏し、ブルガリアもトラキアとマケドニアを
    ギリシャに割譲する条約に調印せざるを得なくなった。 その上、セルビアを
    中心に新しく成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(後のユーゴ
    スラビア)は、ブルガリアの領土の割譲を要求した。 ブルガリアの軍隊は、
    反乱を起こして政権を握り、フェルディナントは退位して、息子のボリス3世に
    王位を譲った。

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    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成し、領邦国家となった。
    その集団の中でも、最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、
    800年から1806年まで存続した。  元々、この地域では。ドイツ語を話す集団と
    して、ある程度のまとまりは見せていたものの、それぞれの小国家にハッキリと
    分かれていたため、それぞれの独自性は維持された。

    その後、フランスのナポレン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は解体
    されたが、当時のドイツ北東部にあった強国、プロイセンによって、いくつかの
    同盟と戦争を経て、他の国々をまとめ上げたため、初めてのドイツ民族による
    統一国家が1971年に建国された。



    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。

    ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に割譲させられた。
    戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊されたものを修復する費用
    として、多額の賠償金を課せられた。

    ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせてくれる指導者を
    待望する動きが現れた。 アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党
    (ナチス)という小さな政党の党首であったが、ドイツの苦境を連合国や
    ヨーロッパのユダヤ人等のせいにして非難することで、国民の人気を集めた。
    1933年、ヒトラーは、その人気を利用して、ドイツの首相となった。 そして、
    間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。
    ナチスは、強制収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)
    等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた事実が明らかになった。

    1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。 西側諸国の
    力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。 社会主義政権の
    支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の約束を
    守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに困難な事業で
    あった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政によっても殆ど解決
    し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、老朽化しているために、
    労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ないところもあった。

    ドイツ再統一後、ドイツ経済の勢いに陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの
    近代化に毎年700億ドルを支出しなければならなかった。 しかし、2010年以降は、
    力強い経済発展を遂げ、現在では、EUの中でも1人勝ちとも言える程の経済力を
    誇っている。

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    1917年、ロシアで共産主義者と呼ばれる革命家達が政権を握った。 この政権は、
    第一次世界大戦の戦線から離脱し、ポーランド人が自らの政権を樹立するのを
    認めた。 ポーランド臨時政府が成立し、やがて共和国の樹立が宣言された。
    ピウスツキは、共和国の国家主席になった。

    ヴェルサイユ講和条約の結果、ドイツは武装解除され、ヨーロッパ北部と中部に
    新しい国境線が引かれた。 ポーランドは、ヴィスワ川からバルト海岸に及ぶ
    細長い地域をドイツから獲得した。 隣接するグダニスク港は、住民の大半が
    ドイツ語を話すため、ダンツィヒ自由市となり、結成された国際連盟の管理下に
    置かれた。

    ピウスツキは、3回に渡るポーランド分割以前に存在した国境を回復しようと考え、
    そのためロシアと紛争を起こした。 当時ロシアでは、共産主義政権が、皇帝の
    支持者たちと戦い続けていた。 1920年から始まった戦争で、ポーランド軍は
    ロシア国内の混乱に乗じて、東部国境外の地域を奪い取った。 1921年、
    ポーランドとロシアは、やっと平和協定を結んだ。

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    ロシアの共産主義者たちは、やがて国内の混乱を鎮圧して、1922年ソビエト連邦を
    創設した。 同じ年、ポーランド国会は新憲法を制定し、ピウスツキは国家主席の
    地位を辞任した。

    1920年代、再建された下院議会は、教育、労働法、地主制度の改革案を成立
    させた。 産業労働者たちは、労働組合を結成し、田園地帯の農民は自分たちの
    私有地を獲得した。 貿易を振興させるために、ポーランド政府は、バルト海岸に、
    新しくグディニア港を建設した。

    ポーランドの指導者たちは、見事にポーランドの再建しつつあったのにも関わらず、
    政党間の激しい争いが政府を弱体化させた。 その上、ウクライナ人、ドイツ人、
    ベラルーシ人などがポーランド人の統治に対して民族的な反感を持ち、また、
    物価が高騰して失業が広まったために、政治的な危機が生じた。 1926年ごろには
    問題が深刻化して、政府の機能は麻痺した。

    国会の失敗に失望したピウスツキは、軍の支持を受けて、1926年、政界に復帰し、
    政府を転覆させた。 ピウスツキは、下院議員の権限を制限し、自分の戦友のを
    総理大臣に任命した。 1920年代後半から30年代前半に掛けて、ピウスツキは
    軍の総司令官になり、1935年に病死するまで独裁者として国を支配した。

    1930年代になると、ドイツでアドルフ・ヒトラーのナチス政権が成立し、急速に
    再軍備を始めた。 1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの大部分を手中に
    収めた。 この国は、第一次世界大戦後、ポーランドの南につくられた国家
    である。 ヒトラーはまた、ダンツィヒをドイツの支配下に戻すように要求した。

    東では、ソビエトの指導者、ヨシフ・スターリンがポーランド東部はソビエトの
    領土であると主張した。 1919年の夏、ヒトラーとスターリンは、ポーランドを
    侵略して分割する秘密協定に調印した。 ヒトラーはダンツィヒとポーランド
    西部の領土を要求し、ポーランドはそれを拒否した。 イギリスとフランスは、
    ドイツが攻撃した場合には、ポーランドを支援すると誓約した。

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    1993年のはじめに、チェコスロバキアが分離して、チェコとスロバキアという
    ふたつの国が生まれた。 スロバキアは、歴史上初めて完全な独立国となり、
    長く続いた経済不況と、共産党の一党支配から抜け出す機会に恵まれた。
    しかし、国の将来については、意見がいくつも分かれ、スロバキアの政治は
    まだ安定していない。

    1918年以前のスロバキアは、中央ヨーロッパの王国、ハンガリーの一部であった。
    ハンガリー人は、スロバキアの独立要求を許さなかった。 そこでは、様々な
    権利や特権(例えば、投票権)を持った大地主が農場を経営して、その農場で
    働くスロバキア人農民は、投票権さえ持っていなかった。

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    第一次世界大戦(1914~1918年)の結果、中央ヨーロッパには劇的な変化が
    起こった。 ハンガリーが世界大戦で負けたのを機に、民族的に近いチェコ人と
    スロバキア人が一緒になったチェコスロバキアが建国され、独立した。
    スロバキアは国の東半分近くを占めていた。

    第二次世界大戦(1939~1945年)後、チェコスロバキアは、東ヨーロッパの強大な
    共産主義国であるソビエト連邦と親密な関係を築き、その政治勢力の下に入った。
    チェコスロバキアの共産党指導者は、民営の企業を禁止し、工業、農業、貿易の
    分野で厳しく管理した。 政府は、国家の情報や報道を規制し、全ての野党を
    禁止した。

    1950年に、スロバキアは、急速に工業化された。 共産党政府は、地方に巨大な
    工場を建設し、多数のスロバキア農民は、都市へ移動した。 雇用が増えて、
    政府は国民に医療福祉の恩恵を与え、生活水準は改善に向かった。 それでも、
    スロバキア人は、スロバキア自治を望んだ。 1968年に新しく連邦制となり、
    チェコとスロバキアは、それぞれの地方政府を持つことになった。

    チェコスロバキアでは、1989年まで、厳しい一党支配が続いた。 その年に
    起こった市民革命は、共産党政権を辞任させた。 チェコでは、国家が決める
    計画経済に代わって、需要と供給が賃金と価格を決める自由市場経済の原理を
    取り入れた。 しかし、それまで共産党員であったスロバキアの指導者達は、
    未だに国家管理の計画経済を支持している。 その結果、国営企業の民営化は、
    チェコの方がスロバキアよりも遥かに早く進んだ。

    1990年代の半ばに、スロバキアの企業は、外国からの投資に門戸を開いた。
    スロバキア工業製品の多くは、依然として時代遅れであるため、輸出が難しい。
    結果として、高失業率や物資不足、生活水準の低下に悩まされた。

    その上、共産主義の崩壊の後生まれた諸政党は、まだ混沌といしている。
    スロバキアの指導者達は、急速な経済改革を強く批判している。 そのため、
    政府は、重要な政策決定を下すことが出来ない。 スロバキア人は、ついに手に
    入れた自由と独立を喜ぶ一方で、国の将来に横たわる問題に不安を抱いている。

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    1930年代後半、第一次世界大戦の時と同じような軍事問題が再び起きて来た。
    しかし、今回はイギリス政府は、以前ほど積極的に国際紛争に関わろうと
    しなかった。 保守党首相ネヴィル・チェンバレンは、国内問題を優先した。

    しかし、1939年9月、ドイツがイギリスの同盟国ポーランドに侵攻した時、
    チェンバレンは仕方なく宣戦を布告した。 その後まもなく、チェンバレンは
    辞職し、ウインストン・チャーチルが自由党、労働党、保守党の連立内閣の
    首相となった。 イギリスと連合国(ソ連、アメリカ、フランス)が枢軸国の
    ドイツ、イタリア、日本と戦った。 第二次世界大戦である。

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    1940年、ドイツ空軍がイギリスの海岸や主要都市を連日のように空爆して、
    ロンドン、コヴェントリー、リヴァプール、ハル、ブリストル、プリマスの鉄道、
    港湾設備、工場、住宅が破壊された。 海外からイギリスへ何トンもの物資を
    輸送する船が、ドイツの潜水艦に撃沈されたため、イギリスでは食料、物資の
    配給が日常のことになった。 だが、イギリス国民は、戦争支持の決意を
    あらわにした。

    結局ドイツ軍は、イギリス侵攻を果たせず、1943年、戦争の流れは連合国に有利と
    なり、1945年に連合国側勝利で終戦となった。 しかし、イングランドの都市の
    多くは、廃墟と化し、国民は大きな損害を被った。

    戦後、クレメンツ・アトリーを党首とする労働党政府は、破壊された工場や市場の
    減少、資金の不足などの問題と取り組んだ。 破綻したイギリス経済の建て
    直しには、アメリカからの借入金があてられた。

    アトリー政府は、国有化計画の実施も図った。 これは石炭、鉄鋼、鉄道など基幹
    産業の所有を、個人の手から国家へ移すものだった。 イングランド銀行さえ
    国家の管理下に入った。

    労働党が強く目指したのは、広い社会福祉関係の立法であった。 議会は。退職者や
    失業者のための国民健康保険を規定する法案を通過させた。 新しい国民健康保険
    により、国民は安い費用で医療を受けられるようになった。

    1952年に即位した女王エリザベス2世の名の下、1950年~60年代には、保守党政権が
    続いて経済力は弱まり、求人は増え、賃金も上がった。 その結果、人々は自分の
    家を持ち、冷蔵庫やテレビも買う余裕が出来た。 イングランドの全ての階級の
    人々が余暇を様々な活動に使い、ヨーロッパ大陸などへ旅行する余裕も生まれた。

    大学も新設され、奨学金も増設された。 また、より良い生活を求めて、イギリスの
    植民地から何千人もの人々がイングランドに移住して来た。

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    【経済の衰え】
    戦時の荒廃から急速に回復したため、1960年代半ばから70年代には、イングランド
    経済に歪みが生じた。 新しい社会福祉計画は、財政負担を増やした。 アジアから
    海軍を呼び戻し、植民地の多くに自治を認めたため、イギリスの国際的影響力は
    弱まっていた。

    イギリスの持つ海外市場が減少すると共に、国内では失業者が増えて、また生活費は
    急激に膨張した。 労働組合は1972年~79年に掛けて、賃上げを要求して何度も
    ストライキを行った。 労働党政府は、連続して政権を取る中で、これらの問題
    解決に努めた。 例えば、イギリスは、1973年にEC(欧州共同体)に加盟したが、
    これはイギリスの商品をヨーロッパ市場に参入させて、市場の拡大を図ろうと
    する動きのひとつだった。

    最近発見された北海油田開発のために資金が投入されたが、これは自国の石油を
    増産させて、石油の輸入を減らそうとの考えだった。

    しかし、なお失業率は高く、インフレはひどくなり、ストライキは頻繁に起こる
    など、問題が重なり、労働党政府の力は弱まった。 また、与党であった
    労働党が非核武装問題で分裂することもあった。 労働党内部に、非核武装を
    国の政策にしたいと思う人がいたからだ。 このようなことで労働党政府は、
    1979年に政権を失った。

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    オーストリア共和国は、ヨーロッパ中央にある内陸の山岳国家で、人口は
    約800万人。 かつては、多数の民族から成る巨大な帝国の一部だったが、
    現在は、9つの小さな州から成り立ち、国民の大部分がドイツ語を話す。

    オーストリアの歴史は、ヨーロッパの交易の民族移動の十字路として始まった。
    国の北部を流れるドナウ川は、ヨーロッパの西、北、東の3つの部分を繋いでいる。
    ドナウ渓谷に最も早く定着したのは、東から来たケルト民族と、南のイタリア
    半島から来たローマ人であった。

    austriamap

    1200年代、ルドルフがこの地にハプスブルグ王朝を創設した。 この王朝は、
    その後600年以上に渡り、オーストリアを含むヨーロッパ各地を統治した。
    16世紀から17世紀に掛けての絶頂期には、ヨーロッパの半分近くがハプスブルグ
    帝国の領域であった。

    1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアは、隣国であるドイツに
    味方して、セルビア、ロシア、イタリア、イギリス、日本、アメリカ等と戦った。
    4年間の戦闘の末、オーストリアとドイツは敗北し、ハプスブルグ王朝は崩壊した。
    1918年、帝国内の非ドイツ系民族はそれぞれ独立して別個の国家となり、ドイツ系
    民族は、オーストリア共和国を創った。

    hapsburg

    1929年の世界大恐慌はオーストリアの経済にも深刻な打撃を与えた。 国力の
    衰えていたオーストリアは、1938年に、ドイツのヒトラー政権によって併合を
    食い止めることが出来なかった。 1939年に第二次世界大戦が勃発した時、
    オーストリアは、ドイツの一部として、日本、イタリアと共に、枢軸国側に立ち、
    イギリス、フランス、ソビエト、アメリカ等の連合国側と戦った。 連合国側に
    よる広範な爆撃と地上攻撃の結果、ドイツは1945年に降伏し、オーストリアは
    独立を回復した。

    戦後のオーストリアは、外国の援助を受けて、1955年までに順調な経済成長を
    遂げ、安定した政府を持つに至った。 過去の歴史を反省したオーストリアの
    指導者達は、将来、世界にどのような扮装が生じようとも、一切関与しないと
    宣言した。

    現在のオーストリア国民の生活水準は高く、健康保険と社会保証は、労働者全体に
    行き渡り、失業率は低い。 国内の主要政党は、協力して国家の方針を定めており、
    東西両ヨーロッパとの貿易額は増加を続けている。

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    【七月革命二月革命から帝政へ】

    ナポレオンが追放されると、ブルボン朝のルイ18世が王位に就き、立憲君主国
    としてスタートした。 しかし、次のシャルル10世が議会を解散すると、1830年に
    七月革命が起こった。 オルレアン家のルイ・フィリップが王位に就くが、やがて
    中小の市民層が支持する共和派や、社会主義派が力を伸ばし、1848年に二月革命を
    起こした。

    ここに再び共和制が成立するが、1852年にナポレオン3世が帝位に就いた。 産業
    革命や鉄道建設を進め、スエズ運河の建設、パリの都市改造等にも着手した。
    外国にも、クリミア戦争への参加、インドネシアへの進出、メキシコ遠征等を
    進めるが、1871年にプロイセンとの戦いに敗れ、帝政は崩壊した。

    19世紀後半、フランスの文化はさまざまなジャンルで花開いた。 モネやセザンヌ、
    ルノアールらの画家が相次いで登場し、パリは芸術と流行の中心として発展した。
    それに合わせて、パリでは、万国博覧会が開かれ、世界の注目を集めた。

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    【2つの世界大戦】
    19世紀末から、ドイツとの緊張が高まった。 フランスは、ロシアやイギリスと
    手を結び、ドイツを中心とした三国同盟に対抗した。 1914年に第一次世界大戦が
    始まると、フランスは戦場となり、1918年までに140万人もの死者を出した。
    1939年に第二次世界対戦が始まると、ナチス・ドイツ軍は1940年にパリを占領
    した。

    これに対抗して、ド・ゴール将軍は、ロンドンに亡命政権を起こし、国内では
    レジスタンスによる抵抗運動が続けられた。 1944年にレジスタンスは反撃に
    転じ、パリを開放した。

    戦後は海外植民地で独立運動が高まった。 1954年にベトナムの独立を認めたが、
    アルジェリアでは1958年に反乱が起こった。 この危機に大統領に選ばれたド・
    ゴールは、アルジェリアの独立を国民投票で決め、フランスの工業化を進めると
    共に、ヨーロッパ経済共同体(EEC)を発足させる等、独自の路線を展開した。

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    経済成長期に北アフリカから多くの移民を受け入れたフランスでは、1980年代から
    移民を巡る問題が起こっている。 2005年には中東やアフリカ系移民による暴動が
    起こり、政府は非常事態宣言を出した。 移民対して開かれた国でいられるか、
    注目されている。

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