1740年にマリア・テレジアが帝位を継ぐと、継承権を理由にプロイセンの
フリードリヒ大王は、ボヘミア王国の伝統的領土のひとつシュレジアを奪った。
ハプスブルグ政府は、国力の増強と近代化に力を入れはじめた。 中央主権化が
進み、チェコ人もオーストリアの近代化政策の恩恵を受けるようになった。
マリア・テレジアの自由な治世に、教育界のカトリック支配は弱まり、チェコ人の
文化は息を吹き返しはじめた。 ボヘミアに住む貴族たちは織物、手工芸、ガラス、
鉱業などの新しい企業に進出するようになった。
ボヘミア、モラビア、オーストリアは互いに交易を進め、関税同盟を結んで
経済力を高め、ボヘミアとモラビア地域は、ハプスブルグ帝国の中でも最も
進んだ工業地域となった。
1780年にマリア・テレジアを継いだヨーゼフ2世は、改革を更に推し進めた。
ボヘミアのプロテスタントを除いた他の信仰の自由を認め、法を改定して、
チェコ人がチェコ語の新聞を発行することを許した。 更に農奴を解放した。
15世紀末以来、はじめてチェコの農奴を解放した。 15世紀末以来はじめて、
チェコの農民は農地と故郷を離れる自由を認められた。
ボヘミアとモラビアの都市は、急速に発展して、新しく建設された工場での
仕事が、土地を離れた農民を引き付けた。 1790年代のフランス革命の嵐は、
フランス王朝を崩壊させた。 革命の指導者たちは、選挙による国会が立憲法を
握る、共和政府樹立を要求した。 彼らは貴族の財産と教会権力の廃止も主張した。
ハプスブルグ家をはじめとするヨーロッパの支配者たちは、革命が地震の権力失墜に
及ぶことを恐れた。
革命から間もなく、フランスの将軍ナポレオンは、ドイツとオーストリアに
侵攻した。 彼は、モラビアの南にあるアウステルリッツ(チェコ名スラヴコフ)
の戦いでハプスブルグ軍を破った。 ハプスブルグが継いでいた神聖ローマ帝国は
1806年に崩壊し、オーストリア帝国の名だけが残った。 オーストリア、ボヘミア、
モラビア、ハンガリー、ポーランドとイタリアの一部がハプスブルグ領地に留まった。
【お勧めの一冊】
>>トップページに戻る
クリックをお願いします☆
にほんブログ村