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    タグ:石巻

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    被災地通信 に参加中!

    石ノ森萬画館は、マンガによる町興しを目的として、宮城県石巻市の中瀬に
    建設された、石ノ森章太郎氏の記念館。 石ノ森作品の原画などを所蔵、
    展示しているが、石ノ森氏は、その作品数の多さで、ギネスにも公式に認定
    されているほど、多彩なマンガを書き上げている逸材である。



    石ノ森萬画館は、石ノ森氏死去後の2001年7月23日に開館を果たしたが、2011年
    3月11日に発生した東日本大震災の影響により、壊滅的な被害を受けた。 その後、
    約1年半の長期休館を経て、2012年11月17日に再開館。 その後、館内の
    アトラクションを大幅に入れ替えて、完全リニューアルを行っている。



    『萬画(まんが)』とは、1989年に石ノ森氏が提唱した『マンガ』の新たな
    呼称であり、『マンガッタン』とは、この地がマンガの中心地となるように
    という願いを込めて、石ノ森氏自らが名付けた名前。 その名前は、JRを
    走っている電車の名前にもなっているほど。



    被災時は、円形の建物が幸いして、津波災害を最低限に食い止めたが、一階の
    キャラクターグッズ売り場は、全て津波で流出。 倉庫も津波で流されたため、
    オリジナルグッズの販売すらままならなかった。 被災直後は、5日間ほど、
    避難所として使用され、40名ほどが、ここで共同生活をした。

     

    リニューアル後の展示作品は、サイボーグ009や、仮面代ライダーの作品を中心に、
    大幅な入れ替えが行われた。 館内には、歴代の仮面ライダーのマスクが展示
    されており、仮面ライダーの歴史が一目で分かるようになっている。



    石ノ森萬画館のシンボルともなっている、「シージェッター海斗」は、石ノ森氏が
    デッサンした原画を元にしたご当地オリジナルキャラクターの走り。 石巻は、
    オリジナルヒーローを使って町興しを行った、先駆的な場所であるため、日本全国
    各地へのさまざまな指導等も行っている。

    石巻市内には、石ノ森作品を代表する、キャラクター像が19体立ち並んでいるが、
    そのうち、このシージェッター海斗と、キカイダー01の象は、津波によって流出、
    後日瓦礫の中から発見されたものの、破損が激しかったため、都内のアート
    企業から、無償提供を受けたもの。



    同ミュージアムショップ内で限定発売されていた商品のひとつに、
    シージェッター海斗のテーマソングCD『シージェッター海斗』があったが、
    先述のとおり、津波により在庫ごと流失したため、同曲を歌唱、作詞した石巻市
    出身の歌手遠藤正明氏が、同曲を作曲した影山ヒロノブ、同じ芸能事務所
    SOLID VOXに所属する、きただにひろしと共に、同曲、および、新収録を
    行ったCD『不滅のヒーロー SEAJETTER KAITO』を
    制作し、同年8月から販売を行っている。

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    被災地通信 に参加中!

    宮城県石巻市は、市中心部の高台を除く、ほぼ全域が津波に襲われた事で、
    このエリアだけで2,038人が死亡し、377人の行方不明者を出すという東日本
    大震災で最大の被害を受けた。 この動画に出て来る『捜索済み』とは、
    この瓦礫の下には、遺体はないという意味である。

     

    石巻市はこの地区の他にも、雄勝、牡鹿、河北、北上でも大きな被害を被り、
    全体(全人口約16万2千人)では、何と死者数3,282名、不明者699人という
    甚大な被害状況となっている。 これだけの人的被害を受けた各地域共に、
    建物の基礎だけが残る壊滅地帯が広がっている。

    被災直後、市内の体育館は、全て避難所、または、遺体安置所となった。
    市内の掲示板にあった『探しています』の張り紙は、全て『人』に関する
    ものばかりで、死者が余りにも多過ぎたため、火葬が間に合わず、土葬による
    仮埋葬を行ったのも、主に石巻地区である。

     

    被災後、石巻の人口は、約2~3万人程度減少したと言われているが、正確な
    数字は分かってはおらず、誰がどこに行ったのかすら分かっていないため、
    町内会での話し会ですらままならず、復興に関する話し合いが遅々として
    進まない。

    被災から8年が経過しようとしていますが、この状況は、あれから、さほど
    変わってはいない。

    【お勧めの一冊】


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    【46th month anniversary of the Aftermath of the 2011 Tohoku earthquake and tsunami】

    As of January 2015

    【Miyagi Prefecture】
    Number of deaths: 9,538 people / Missing persons: 1,256 people

    【Iwate Prefecture】
    Number of deaths: 4,673 people / Missing persons: 1,130 people

    【Fukushima Prefecture】
    Number of deaths: 1,611 people / Missing persons: 204 people

    Total amount 15,889 people / 2,594 people



    【Aujourd'hui 46 mois se sont écoulés après le séisme et le tsunami dans la région de Tohoku en 2011】

    En Janvier 2015

    【La préfecture de Miyagi】
    Le nombre de décès: 9538 personnes / Personnes disparues: 1256 personnes

    【La préfecture d'Iwate】
    Le nombre de décès: 4673 personnes / Personnes disparues: 1130 personnes

    【La préfecture de Fukushima】
    Le nombre de décès: 1611 personnes / Personnes disparues: 204 personnes

    Le montant total 15 889 personnes / 2594 personnes



    【Heute sind 46 Monate nach dem Erdbeben und Tsunami in der Region Tohoku im Jahr 2011 vergangen】

    Im Januar 2015

    【DIe Präfektur Miyagi】
    Die Zahl der Todesfälle: 9.538 Personen / Vermisste Personen: 1.256 Personen

    【DIe Präfektur Iwate】
    Die Zahl der Todesfälle: 4.673 Personen / Vermisste Personen: 1.130 Personen

    【DIe Präfektur Fukushima】
    Die Zahl der Todesfälle: 1.611 Personen / Vermisste Personen: 204 Personen

    Der Gesamtbetrag 15.889 Menschen / 2.594 Menschen
    ----------

    【Сегодня ровно прошло 46 месяцев после землетрясения и цунами в районе Тохоку в 2011 году】

    В январе 2015

    【Префектура Мияги】
    Количество смертей: 9538 человек / Пропавшие без вести: 1256 человек

    【Префектура Иватэ】
    Количество смертей: 4673 человека / Пропавшие без вести лица 1130 человек

    【Префектура Фукусима】
    Количество смертей: 1611 человек / Пропавшие без вести лица: 204 человек

    Общая сумма: 15889 человек / 2594 человека
    ----------

    【東日本大震災発生から46回目の月命日】
     
    死者     行方不明者
    宮城県 9,538人 1,256人
    岩手県 4,673人 1,130人
    福島県 1,611人  204人

    全国 15,889人 2,594人

    (1月9日 警察庁発表)
    全国避難者数 23万4千人


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    東日本大震災により、数々の悲劇が起きた宮城県石巻市。 その中でも、
    約1,700世帯を超える住宅地が、津波で丸ごと消滅した門脇(かどのわき)
    地区は、この地域だけで、死者数約3,000名を超える最大の被災地。
    震災直後、この地区では生死が隣り合わせとなった惨劇が繰り広げられていた。

    4
    被災直後の門脇小学校前 10日後に、瓦礫の下から、生存者が見つかったのもこの付近。

    門脇小学校は、その焼け爛れた姿で、度々全国メディアでも取り上げられる
    事があったが、その裏山である、日和山にある『日和幼稚園』の地獄絵図の
    ような惨劇は、余りメディアには取り上げられなかった。



    この時に、亡くなったのは、4~6歳の男児1人、女児4人。 3月11日の地震
    発生直後、亡くなった5人を含む12人を乗せワゴン車が園を出発した。
    門脇町や南浜町方面に住む7人を門脇小学校前で降ろした後、大津波警報に
    気づき、園に引き返す途中、津波に巻き込まれた。
     
    園児は14日、変わり果てた姿でワゴン車の周囲で見つかった。 保護者は、
    焼け残った衣服などで子どもの身元を確認した。 男性運転手は一命を取り
    留めた。 同乗していた女性職員は今も行方不明(実際は遺体の受取拒否
    により、行方不明とされた)。 門脇小で降りた7人は無事が確認された。

    hiyori_bus_map

    バスを運転していた運転手は、津波に飲まれた際に、車外に放り出され、
    一旦は、園長のところへと戻り、園長と2人で、津波に飲まれたバスの様子を
    見に来たが、余りの出来事に、気が動転して、その場を立ち去ったという。
    その後、その付近からは、一晩中、子供達の助けを求める声が聞こえたと
    周辺住民は話しているが、そのような惨状は、保護者達には、知らされ
    なかった。 

    犠牲になった5人は、日和山からは、若干離れた、大街道地区や蛇田地区に
    住んでいた。 いつもは、津波が直撃した南浜町、門脇町を通らないルートで
    送迎されていた。

    photo_6

    【送迎バスの最後】

    上へ、上へ。 住民が安全な場所を求めて、日和山へ急ぐさなか、1台の
    ワゴン車が、日和山から門脇町、南浜町地区へと降りて行った。 日和幼稚園の
    園児12人を乗せた送迎バス。 地震直後に園を出発し、南浜町などを回り、
    5人の子どもを降ろした後、避難者でごった返す門脇小校庭に停車した。
     
    『バスを戻せ』。 当時の園長の指示を受け、幼稚園から教員2人が小学校脇の
    階段を駆け下りた。 バスに追いついたが、園児を連れ戻す事はなかった。

    バスは再び出発した。 途中、迎えに来た母親に園児2人を引き渡した。
    日和山に通じる坂の上り口で、バスは津波に飲まれ、流された家に押し
    つぶされた。 門脇町・南浜町地区一帯はすっかり炎に包まれ、13日午後6時頃
    まで燃え続けた。

    14日、バスに乗っていた5人の園児は変わり果てた姿で見つかった。



    【訴訟】
    園児5人が死亡した事故で、4遺族は10日、園側の対応に問題があったとして、
    園を運営する学校法人『長谷川学院』と当時の園長に対し、計2億6,690万円の
    損害賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。 被災地では、避難誘導などに
    問題があったとして、学校側の責任を問う動きが広がっていた。

    【和解】
    2014年12月3日、提訴から3年4ヶ月を経て、園側と4遺族は、ようやく和解した
    ものの、園側からの謝罪は、未だ行われていない。

    【仙台高等裁判所からの和解条項】
    『被災園児らの犠牲が、教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に
    生かされるべき』
     
    続きはこちらへ

    <津波訴訟和解1年>「心から」の思い見えず
    <津波訴訟和解1年>わが子の命思い語る

    言葉もありません。 ご冥福をお祈り致しますだけでは、決して済まされない、
    後世に語り継ぐべき大きな教訓だと思います。

    日和幼稚園ご遺族の方による『語り部』をお願いしたい方は、こちらからお願いします。
    場所:宮城県石巻市

    語り部依頼QRコード

    日和幼稚園遺族有志の会 子どもの安全を考える



    >>愛梨 & 珠莉人形 世界旅行記

    【日和幼稚園のその後が本になりました】


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    アメリカ・バージニア州出身のテイラー・アンダーソンさん(当時24歳)は、英語の非常勤講師
    として、2008年に来日し、宮城県石巻市の小・中学校で英語を教えていました。

    Taylor Anderson (at the time 24 years old) was born in Virginia, in the U.S., and
    she came to Japan in 2008 as a part-time teacher of English. She had been teaching
    English in elementary and junior high schools in the city of Ishinomaki, Miyagi Prefecture.
    4836118a.jpg
    2011年3月11日、東日本大震災が起きた際、彼女は、津波警報がけたたましく鳴る中、教え子
    全ての子供達を親に引き渡すまで、津波の恐怖から逃げる事はありませんでした。

    On March 11, 2011, when the Great East Japan Earthquake occurred, she did not
    run away from fear of tsunami to make sure that all the children were delivered to their
    parents even the tsunami warning loudly sounded.

    地震が起きた時、テイラー・アンダーソンさんと共にいた小学校の関係者によると、
    テイラーさんは、児童達を親に引き渡すまで学校に待機し、最後の子供を親御さんに
    手渡し終わってから、自転車に乗って高台に避難する途中で津波に巻き込まれたという事です。

    According to the person most nearly concerned with Taylor, she stayed at the school
    in order to hand the children to the parents, waited until completing the transfer of
    the last children to their parents, and then she took a bike and evacuated to the hill,
    but the tsunami attacked her on the way to the higher ground.

    テイラーさんの死亡が確認された場所

    石巻市は、テイラーさんの写真などから、今回の震災で亡くなった被災者である可能性が
    あるとして、アメリカ・バージニア州に暮らすテイラーさんの両親と連絡を取り、
    2011年3月23日、父親のアンディーさんたちが急きょ来日。 残念なことに、テイラーさんの
    死亡を確認しまし た。

    The city of Ishinomaki contacted Taylor's parents who live in the United States,
    Virginia, based on the information of the  photograph, and on March 23, 2011,
    her father came to Japan in a hurry. Unfortunately, it has confirmed the death
    of Taylor.

    駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディー女史が、東日本大震災最大の被災地である、
    石巻を積極的に訪れるのは、このためです。 石巻市の災害による犠牲者は、テイラーさんを
    含めて、約3,700名が死亡しています。

    Ms.Caroline Kennedy, the U.S. Ambassador to Japan, actively visits Ishinomaki,
    one of the hardest hit area, because of this tragic affair. About 3,700 people, including
    Taylor, have died by the tsunami in the city of Ishinomaki.

    Refer to the details below
    “To Be a Bridge Between Our Two Nations” 〜The Taylor Anderson Memorial Fund〜



    テイラーさんが、津波に巻き込まれて死亡した現場付近を訪れ、花を手向けた父親の
    アンディーさんは、『津波が想像を超えるものだった事がよく分かりました。 娘が仕事を
    していた場所を見ることができて良かった』と話していました。

    また、この後、テイラーさんが教えていた市内の小学校も訪れ、学校での様子を聞いたり、
    テイラーさんが作った折り鶴を受け取ったりしました。

    アメリカでの報道  CNN report

    テイラーさんの父親・アンディーさんと、母親のジーンさんは声明を発表し、『娘の無事を祈り、
    支援してくださった皆さまに心から感謝します。 多くの人びとの祈りと支援によって、私達は
    この危機を乗り越える事が出来ました。 どうか、その同じお気持ちを、今まだ行方不明に
    なっている多くの方たちに振り向けてくださるようお願い致します。 そして、日本の人々の
    ために祈ってください』と述べた。

    テイラーさんが使っていたポットと鍋、それに衣服は、被災者の人達に寄贈されました。
    テイラーさん家族は、余震が続き、福島原発危機がいまだ去る事のない日本の復興を支援
    するために、『テイラー・アンダーソン基金』を設立し、今でも義捐金活動を続けています。


    2014年7月、アメリカの高校生が、石巻を訪れた

    『それは、妹が望んでいた事だからです。 彼女は、自分が魅せられた日本で、自分の望んだ
    世界に住んでいたと思います。 彼女なら、この美しい日本が復興する事を何より願っている
    はずです。 私達は、彼女の名に懸けて、日本が元に戻るように働き掛けて行きたいと思います』
    と姉のジュリアさんは述べました。

    『娘の死に方は、彼女の人生観を象徴しています。 娘は人に対して深い思いやりを持った
    温かい性格です。 彼女が、この世で行なった最期の行いは人を救う事でした。 それは
    何より、彼女の人柄を物語っています。 テイラーは、生徒たちから、大好きな先生として
    慕われていたようです。 私は、娘を誇りに思っています』と母親のジーンさんは、テレビの
    取材に答えました。

    テイラー・アンダーソンさんは、今回の東日本大震災の外国人被災者のうち、安否確認が
    取れた最初の外国人です。 『未曾有の大震災。 亡骸を確認出来ただけでも幸運』というのは、
    ご遺族にとって余りにも残酷な仕打ちです。 果たして、『どうか、安らかに眠って下さい』と
    いう、お決まりの言葉で、その御霊を鎮める事が出来るのでしょうか。

    少なくとも、私たち日本人は、自分の命も顧みず、多くの日本の子供の命を救ったテイラー・
    アンダーソンさんの名前は忘れる事はないでしょう。 三陸の紺碧の海の町に
    『青い目のおなご先生』先生がいた事を。

    当時のNHKニュース

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    アメリカ・バージニア州出身のテイラー・アンダーソンさん(当時24歳)は、
    英語の非常勤講師として、2008年に来日し、宮城県石巻市の小・中学校で英語を
    教えていました。

    Taylor Anderson (at the time 24 years old) was born in Virginia, in the U.S., and
    she came to Japan in 2008 as a part-time teacher of English. She had been teaching
    English in elementary and junior high schools in the city of Ishinomaki, Miyagi
    Prefecture.
     
    20110324-2
    2011年3月11日、東日本大震災が起きた際、彼女は、津波警報がけたたましく
    鳴る中、教え子全ての子供達を親に引き渡すまで、津波の恐怖から逃げる事は
    ありませんでした。

    On March 11, 2011, when the Great East Japan Earthquake occurred, she did not
    run away from fear of tsunami to make sure that all the children were delivered to their
    parents even the tsunami warning loudly sounded.

    地震が起きた時、テイラー・アンダーソンさんと共にいた小学校の関係者によると、
    テイラーさんは、児童達を親に引き渡すまで学校に待機し、最後の子供を親御さんに
    手渡し終わってから、自転車に乗って高台に避難する途中で津波に巻き込まれたという
    事です。

    According to the person most nearly concerned with Taylor, she stayed at the school
    in order to hand the children to the parents, waited until completing the transfer of
    the last children to their parents, and then she took a bike and evacuated to the hill,
    but the tsunami attacked her on the way to the higher ground.

    テイラーさんの死亡が確認された場所

    石巻市は、テイラーさんの写真などから、今回の震災で亡くなった被災者である
    可能性があるとして、アメリカ・バージニア州に暮らすテイラーさんの両親と
    連絡を取り、2011年3月23日、父親のアンディーさんたちが急きょ来日。
    残念なことに、テイラーさんの死亡を確認しまし た。

    The city of Ishinomaki contacted Taylor's parents who live in the United States,
    Virginia, based on the information of the  photograph, and on March 23, 2011,
    her father came to Japan in a hurry. Unfortunately, it has confirmed the death
    of Taylor.

    駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディー女史が、東日本大震災最大の被災地
    である、石巻を積極的に訪れるのは、このためです。 石巻市の災害による
    犠牲者は、テイラーさんを含めて、約3,700名が死亡しています。

    Ms.Caroline Kennedy, the U.S. Ambassador to Japan, actively visits Ishinomaki,
    one of the hardest hit area, because of this tragic affair. About 3,700 people, including
    Taylor, have died by the tsunami in the city of Ishinomaki.

    Refer to the details below
    “To Be a Bridge Between Our Two Nations” 〜The Taylor Anderson Memorial Fund〜



    テイラーさんが、津波に巻き込まれて死亡した現場付近を訪れ、花を手向けた父親の
    アンディーさんは、『津波が想像を超えるものだった事がよく分かりました。
    娘が仕事をしていた場所を見ることができて良かった』と話していました。

    また、この後、テイラーさんが教えていた市内の小学校も訪れ、学校での様子を
    聞いたり、テイラーさんが作った折り鶴を受け取ったりしました。

    アメリカでの報道  CNN report

    テイラーさんの父親・アンディーさんと、母親のジーンさんは声明を発表し、
    『娘の無事を祈り、支援してくださった皆さまに心から感謝します。 多くの
    人びとの祈りと支援によって、私達はこの危機を乗り越える事が出来ました。
    どうか、その同じお気持ちを、今まだ行方不明になっている多くの方たちに
    振り向けてくださるようお願い致します。 そして、日本の人々のために祈って
    ください』と述べた。

    テイラーさんが使っていたポットと鍋、それに衣服は、被災者の人達に寄贈
    されました。 テイラーさん家族は、余震が続き、福島原発危機がいまだ去る
    事のない日本の復興を支援するために、『テイラー・アンダーソン基金』を設立し、
    今でも義捐金活動を続けています。


    2014年7月、アメリカの高校生が、石巻を訪れた

    『それは、妹が望んでいた事だからです。 彼女は、自分が魅せられた日本で、
    自分の望んだ世界に住んでいたと思います。 彼女なら、この美しい日本が
    復興する事を何より願っているはずです。 私達は、彼女の名に懸けて、日本が
    元に戻るように働き掛けて行きたいと思います』と姉のジュリアさんは述べました。

    『娘の死に方は、彼女の人生観を象徴しています。 娘は人に対して深い
    思いやりを持った温かい性格です。 彼女が、この世で行なった最期の行いは
    人を救う事でした。 それは何より、彼女の人柄を物語っています。 テイラーは、
    生徒たちから、大好きな先生として慕われていたようです。 私は、娘を誇りに
    思っています』と母親のジーンさんは、テレビの取材に答えました。

    テイラー・アンダーソンさんは、今回の東日本大震災の外国人被災者のうち、
    安否確認が取れた最初の外国人です。 『未曾有の大震災。 亡骸を確認出来た
    だけでも幸運』というのは、ご遺族にとって余りにも残酷な仕打ちです。
    果たして、『どうか、安らかに眠って下さい』という、お決まりの言葉で、
    その御霊を鎮める事が出来るのでしょうか。

    少なくとも、私たち日本人は、自分の命も顧みず、多くの日本の子供の命を救った
    テイラー・アンダーソンさんの名前は忘れる事はないでしょう。 三陸の紺碧の
    海の町に『青い目のおなご先生』先生がいた事を。

    当時のNHKニュース

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    東日本大震災の最大の被災地である、石巻には、被災以前から、仕事というものが殆どない。

    宮城県第二の都市といえども、交通の便がさほぼ良い場所ではないため、元々、製造業と
    言うものがほぼなく、2000年前後に、大々的に、石巻港を拡張したため、石巻市は、
    『東洋一の規模の港』とは言っているものの、企業誘致は、全く進まず、ハッキリ言ってしまうと、
    まともな人材は、皆ここからは、出て行くしかない。 漁業に極端に依存し過ぎている街である
    ため、発展性がそもそもない。

     

    宮城県の最大の問題は、仙台への一極集中であり、その元凶となったのが、明治政府による、
    全く無意味な場所への鉄道敷設。 石巻が宮城県第二の都市と言うのは、名ばかりで、現在の
    仙台市泉区が、単独で、泉市として存在していた際には、その泉市にも人口で追い抜かれ、
    石巻は、第三の都市に降格した。 その後、泉市は、仙台市泉区となったため、石巻が
    第二位に繰り上がっただけ。
    img_9
    現在の石巻駅は100年以上も前に開業した当時のまま

    藩政時代は、仙台藩唯一の港町として、繁栄を極め、『仙台をも上回る』とまで言われた
    石巻だが、今では、その面影すら一切残ってはいない。 これは、石巻の直ぐ隣にある、
    涌谷も同様で、まともな鉄道のルートから大きく外されてしまうと、駅前自体が一切発展
    しないため、それに合わせて、街自体が寂れてしまうという事実を端的に表している。

    石巻市の隣の自治体である東松島市の人口は、約4万5千人あり、女川町は約1万人の
    人口を抱えているため、今後の復興を考えると、全ての石巻地区が合併をするしかないと
    思う。

    仙台・塩釜港、松島港、石巻港の合併も決定しているため、『石巻港』という名称自体、
    そう遠くない時期に消え去ってしまう。

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    JR東日本仙台支社は、東日本大震災で被災した仙石線の全線運転を東日本
    大震災発生から4年経過した2015年6月までに再開すると発表した。 これと
    同時に、仙石線が東北線に乗り入れる『仙石東北ライン』が運行を開始する。
    不通区間の高城町~陸前小野駅間(10.4キロ)のうち、陸前大塚~陸前小野駅間の
    線路を約500メートルほど内陸側の高台に移設する工事がこの程完了し、2014年
    12月14日にレールの締結式が行われた。 2011年3月の津波災害により、長期に
    渡って運転不能となっていた仙石線がこの日1本のレールで繋がれた。 今後は、
    内陸部に移設する東松島市の東名、野蒜2駅の整備が進められる。

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    仙石線の東北線乗り入れに関しては、仙石線松島海岸~高城町駅間と東北線
    塩釜~松島駅間で両線が近接する区間に新たに約300メートルの接続線を設ける。
    このルートを通ると、震災前と比べて、仙台~石巻間が、約10分程度短縮可能
    となる。 但し、この区間は、東北線が2万ボルトの『交流電化』、仙石線が
    1,500ボルトの『直流電化』となっているのと、交直切り替えのデッドセクション
    区間が、極端に短か過ぎるため、当面は、小海線で使用されている、
    ハイブリットカーで対応するとの事。

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    陸前赤井付近にあった送電施設が津波で破壊されてしまったため、再開区間の
    高城町以北は、現在でも電化での再開の目途は立っていない。 東北線との
    乗り入れを考えると、仙石線は、全線で交流電化に転化すべきで、今後は、
    スピードアップと、複線区間の延長等も考えなければならない。 全線複線で
    なくとも、例えば、松島海岸~高城町、野蒜~陸前小野、矢本~東矢本間を
    複線化するだけでも、かなりのスピードアップが期待出来る。

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    東北電力女川原発は、被災当初、原発内の体育館が避難所になりました。
    最大で350名ほどが、その原発内で、長期間の避難生活を強いられましたが、
    その事は、関東では、一切報じられませんでした。 女川原発自体も、2011年
    4月2日に起きた余震により、非常用電源回路が麻痺し、後1本、非常用電源
    回路が失われていたら、宮城県も福島県と完全に同じ運命でした。

    女川原発は、名前は『女川』ですが、原発施設の約5分の1程度は、石巻市内に
    あります。 よって、東日本大震災の最大の被災地である石巻は、原発立地
    自治体です。

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    女川に到達した津波の高さは、20メートルを超え、遡上高で最大43メートル、
    住民の死亡率で比較すると、住民の10人に1人以上が津波災害で死亡した、
    東日本大震災最大の被災地です。

    石巻も、死亡者数だけで、約3,000名、被災後、人口の約2万人近くが、市外へと
    出て行ったと言われているため、復興に関する町内会での話し合いすら出来
    ない状況です。

    津波で、何もかも流され尽くされたJR女川駅周辺は、女川原発からは、直線
    距離にして、約7.5キロの位置にありますが、被災前までの女川原発の避難
    区域は、5キロ圏内のみでした。

    女川駅前には、『女川原発原子力保安委員会』の鉄筋コンクリート製の建物も
    ありましたが、津波により破壊され、真っ先に瓦礫として処理されたため、今では、
    何もない更地になっています。

    私の実家は、その女川原発からは、直線距離にして、約32キロの位置にあるため、
    例え、30キロ圏内が避難区域であったとしても、完全に見殺しにされた地域です。

    被災当初、建物や、車両等の下には、「捜索済み」という張り紙が、あちらこちらに
    張り出されたのですが、それは、『その下には、もう遺体はない』という意味です。
    石巻市内には、6月の末まで、倒壊家屋を撤去するための重機がなかなか入って
    来なかったのですが、その間、倒壊した家屋に潰されて死亡した人たちは、その
    ままにされました。

    重油が海に流れ出したため、海が燃え、今度は、それが沿岸部を焼き尽くしました。
    一番悲惨な死に方をした人は、津波に飲まれて、何十時間も寒空の中、放置され、
    その後起きた火災により、生きたまま焼かれて死亡しました。

    関東等では、『放射能汚染瓦礫受け入れ反対!』などと言っていた頃、宮城県内
    では、1万人程度が、一気に津波で死亡したのにも関わらず、その遺体を燃やす
    燃料すらなかったため、一旦土倉にして、後日、再埋葬を行いました。 その
    土葬が全て終了したのは、2011年12月の末の話です。 今でも、遺体が見つから
    ない人が大勢居ます。

    遺体が見つかったとしても、身元が分からないため、お寺に預けられて、無縁仏に
    なった人たちも、大勢居ます。 岩手県の人の遺体が、茨城県の沿岸部で
    見つかったという話も聞いた事があります。

    東日本大震災では、略奪は起きなかったと、皆言いますが、石巻やその周辺では、
    一時期無法地帯と化したため、現金が盗まれたり、物が略奪されたりは、かなり
    頻繁にありました。

    被災地の現状を正確に伝えなかった、中央メディアには、特に何も期待はしており
    ませんが、これ以上、『風評被害』を拡散するようなまねだけは、止めて欲しい
    ところです。 宮城県の被災を何もかも、『フクシマ』にしないで下さい。 被災地の
    現状を勝手に歪めないで下さい。

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    東日本大震災発生から45回目の月命日

    死者       行方不明者
    宮城県 9,538人  1,256人
    岩手県 4,673人  1,130人
    福島県 1,611人   204人
    全国 15,889人    2,594人

    全国避難者数 23万6千人

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    石ノ森萬画館のすぐ隣にあった日本ハリストス正教会。 津波災害にて、奇跡的に
    流出は免れたものの、かなりの被害を受けたため、その後、暫くは、雨風から守る
    ために、シートが被せられていた。 その後、他の場所への移築が決定し、現在
    この地は何もない更地。

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    この教会は、元々この地にあったのではなく、30年ほど前に、石巻市が、北上川に
    浮かぶこの中州を再開発した際に、別の場所から、この地に移されたもの。 現在
    石ノ森漫画館のすぐ南隣りにある公園は、その以前までは、樹木がかなり生い茂る
    緑の多い公園であったが、この教会が移転して来た際に、大々的に樹木を伐採して、
    現在の姿になったもの。

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    15メートル近く高さの津波が押し寄せ、この場所に奇跡的に残ったのは、この
    教会と石ノ森萬画館と、極々わずかな建物のみ。 この周辺だけで、約3,000名の
    死者を出したため、この周辺は、被災後に一時孤立した。 日本ハリストス
    正教会は、主に、東京を中心とする『東京大主教区』、仙台を中心とする
    『東日本大主教区』、京都を中心とする『西日本主教区』に大別されるが、
    この石巻教会は、その日本ハリストス正教会の中でも、木造としては、
    日本最古だったもの。

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    石巻駅前にある立町商店街のアーケードの撤去作業がいよいよ始った。 物心
    付いた時から、この場所には、アーケードがあって、雨や雪の時でも、安心して、
    この場所を歩けたものだが、それすらなくなるのは、寂しいを通り越して、非常に
    悲しい限り。

    今年の夏に、石巻に帰った際に、このアーケードが撤去される事は既に知っていた
    ので、これで、今生のお別れだと思って、このアーケードを眺めていました。 いくら
    汚いと言われようとも、私にとっては、これは、あって当然のもの、なくなるなんて、
    一度も考えた事すらなかったもの。

    これに続いて、旧石巻市役所の撤去作業も開始されました。 仙台は、帰る度に、
    良い方向にかなり変わって行きますが、石巻は、悪い方向にかなり変わっています
    (T^T)

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    この場所には、その昔、『エンドーチェーン』と『丸光』という2つのデパートがあって、
    物凄く活気があったのは、もう30年以上も昔の話。 子供の頃は、石巻が大好きで、
    ここに住むのが、その当時の夢でした。 今は、典型的な地方のシャッター通りに
    落ちぶれ果てて、この場所を歩く事すらもうなくなりました。

    今の石巻市役所は、元々は、『VIVRE』という名前のデパートで、その後に、『さくら野』
    というデパートになったのですが、三陸自動車道のインターチェンジ付近に出来た
    モンモスショッピングモールの『イオン』に何もかも潰され、こうなったもの。



    今の石巻駅前には、本屋もコンビニもファミレスの1軒すらない。 石巻は、津波で
    こうなったのではなく、イオンにこうされたのです。 石巻市役所の一番上の階には、
    シネコンもありました。

    私が学生の頃は、宮城県全体が『学区制』を敷いていたため、石巻自体は、15キロ
    しか離れていないにも関わらず、石巻にある高校へはどう頑張っても入学出来なかった
    ため、途中から、石巻を非常に憎むようになりましたが、2000年からは、その学区制が
    取り払われたため、今度は、実家から最寄の南郷高校が廃校になる事が決定されました。
    その理由は、皆石巻の高校に通うようになったから。 時代の流れとは、恐ろしい
    ものです。

     

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    最近、どうも石巻の被災が、全て『福島』にすりかえられている場面に多々遭遇
    するのだが、私の実家がある場所は、石巻のすぐ隣の自治体である、美里町
    なのだが、石巻の中心部からは、15キロ程度の場所で、石巻市との境界線からは、
    3キロ程度しか離れていない。 しかも、母親が、石巻の出身であるため、私が
    生まれたのは、実は、石巻。 いとこが全員石巻に住んでいるため、当然、
    石巻弁も完全にネイティブ。
     
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    出身地を聞かれると、かなり困るのだが、私の地元は、色々な地域と接点があり、
    結局、ハッキリとどの地域に属するとは言い切れないない場所にあるため、その
    時々に応じて、『美里の出身』と言う事もあれば、『大崎の出身』と言う事もあれば、
    『石巻の出身』という事もあれば、『仙台の出身』と言う事もあれば、『宮城県の出身』
    と言う事もある。

    被災直後の石巻~女川~南三陸

    私の母方の祖父は、石巻市内に昔あった、『広淵沼』の干拓に一生を捧げた人であった。
    かなり広大な沼地だったため、大正10年(1921年)に始まった干拓が完了したのは、
    昭和3年(1928年)だった。 今では、その土地は、広大な田んぼになっているのだが、
    この沼の干拓の後に、その土地への入植者を募ったのが、今の石巻市広淵地区。

    今でも石巻の地名として残っている『砂押』とは、その当時の名残。 尚、父方の
    祖父は、樺太の開拓に行った人であった。

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    関東に住んでいると、被災地に関する情報は、全く入って来ないため、関東の
    人たちが、被災地に全く関心がないのは、仕方がないとして、全ての被災を
    『福島』と言われるのは、ハッキリ言って、耐えられない。 海が重油で燃えたのも、
    燃料が全く足りなかったため、遺体を火葬出来ずに、一旦土葬にしたのも、
    石巻付近。 私のいとこは、全て石巻方面なのだが、今でも、怖くて、自分の
    親類縁者、友人、知人に至るまで、自分の母親にすら、誰か死んだかを聞いては
    いない。 沿岸部の山元や七ヶ浜にも友人がいるが、連絡の方法すら分からない
    ため、未だに、生きているのか、死んでいるのかすら分からない。

    被災前の石巻の様子

    40年前の石巻中心部が買い物客で溢れていた時代の街並みも覚えている。
    30年前に『石巻バイパス』が完成して、石巻駅前の衰退が始まった。 その時に、
    イトーヨーカードーが開業したのだが、そのヨーカドーは、今では、完全に建て
    替えられて、同じヨーカドー系列の『ヨークベニマル』になった。 2000年頃に、
    三陸自動車道が石巻まで開業して、市の中心部が、『イオン』周辺へと全て移された。
    瀕死の状態で、衰退激しい、石巻駅前とは、打って変わり、こちらは、被災後に、
    ますます勢力を増すばかり。

    広淵沼の干拓の様子

    石巻市内では、今でも、仙石線が、完全に運転を再開していないため、被災後は、
    市内の交通量が、かなり増えた。 石巻駅から三陸道のインターチェンジまでは、
    混まなければ、車で5分弱程度で到達出来たが、今では、15分ぐらい掛かる事も
    しばしば。 津波災害で、かなりのものを失った石巻だが、これが、再生のチャンス
    なのかも知れない。

    個人的には、現在の蛇田駅か、その付近に、新しい石巻駅を建設して、町の中心部に、
    石巻駅を置いた方が、実際の生活に合っていると思う。

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