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宮城県東松島市にある東北最大の海水浴場、野蒜海岸。 目の前に見えて
いるのは、石巻湾。 本州で最もアメリカ大陸に近い場所で、外洋に開けて
いるため、明治時代には、「明治三大築港」として、野蒜港がこの地に建設
されたが、その数年後に、大型の台風が発生し、港湾設備がことごとく破壊
されてしまった。

その後、関東にある横浜に新たに港が開かれたため、この地に港が戻る事は
なかった。 よって、野蒜が消滅したのは、歴史上これで二回目。 開港前
までの横浜は、単なるひなびた漁村に過ぎなかったが、その後大きく発展し、
今では日本第二位の都市にまで成長しているが、何とも皮肉な話である。 

尚、この場所は、3年4ヶ月もの間、地盤沈下により、海に沈んでいた場所で、
被災直後、暫くは、山のような瓦礫置場となっていた。 2013年の夏に
入ってから、かさ上げ工事が本格化したため、ようやく、この場所は、3年4ヶ月
ぶりに陸地に戻った。

被災直後の東松島市野蒜付近

東松島市は、市全域の60%強が、津波被害を受け、内陸側7キロまで、津波が
押し寄せた。 明治三大築港であった、野蒜築港跡を世界遺産にという話も
あったのだが、津波により、それすら流された。 松島の海岸は、砂が黒く、
海の色が、深緑色で、余り綺麗ではないのだが、野蒜の砂は、白いため、
海の色は、青ではなく青緑色。 別名奥松島。 日本三大渓谷のひとつ、
嵯峨渓があるのもこの場所。


被災直後のJR仙石線野蒜駅前

この海岸では、500名以上が津波により犠牲となった。 現在不通となっている
仙石線の電車は、下り列車は、地元の乗客の判断により、丁度高台地点に
停車したため、乗客は、一昼夜その場所に留まったのだが、翌日には、救助隊が
助けに来たため、全員無事だった。

一方、同時刻に野蒜駅を発車した上り列車は、被災当初、乗客全員が死亡したと
報じられた。 実際は、直ぐ近所にある、野蒜小学校に全員が避難したのだが、
そこの小学校の校長が、学校の校舎に鍵を掛けてしまったため、折角電車から
降りてわざわざ小学校の体育館まで避難をしたものの、最後は、津波に飲み
込まれて、数名が亡くなった。
 
被災時の野蒜小学校

被災後、宮城県内の海岸では、4年近くを経ても、4ヶ所しか海開きを行って
いない。 この野蒜海岸も、この先、いつ海開きが出来るのかすら分からない
状況となっている。 10年後、この海岸で泳げる日は来るのだろうか? 石巻の
被災状況は、時々ニュースでも取り上げられるのだが、東松島は、殆ど報道
される事はなかった。

この場所には、ユースホステルがあり、かんぽの宿もあり、民宿も沢山あった場所。
今は、何もかもなくなった。 野蒜には、建物は、一つたりとも残ってはおらず、
元々、この場所は、うっそうとした松林だった。 その松林も95%以上が流出
したため、今では何もなくなった。 防潮林だった筈の松林は、津波の激流に
押し流れ、最後は、人や建物を襲うための凶器と化した。


燃料が足りず、火葬が追いつかなかったため、遺体は一旦土葬にされました

この海岸には、約5メートルほどの防波堤があったにも関わらず、津波の高さが
余りにも高過ぎて、何の役にも立たなかった。 それでも、25年ぐらい前に、
2メートルほどかさ上げ工事をして、高くした場所。 何もかもなくなって
しまったため、もう昔の景色すら思い出せない。

福島の人たちは、避難生活が長引いて、苦しんでいるとは言うものの、それは、
宮城県でも同じこと。 福島の場合は、特に景色は変わってはいないが、宮城県の
場合は、何も残ってはいないため、この地に何があったのかは、自分の記憶に
頼るしかない。 まさか、何もかもなくなるとは思っていなかったため、写真の
1枚すら手元には残ってはいない。

復興が進んでいるとは、名ばかりで、一番復興が遅れているのは、野蒜なのでは
ないだろうか? こんなに綺麗で穏やかな海なのに、どうして、この場所で500人
以上も死ななければならなかったのか、かなり疑問だらけ。
 
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2011年12月末に撤去された、仙石線の下り電車

すぐそばにある、航空自衛隊松島基地は、津波で水没し、被災後の数日間は、
全く機能しなかった。 よって、この地で真っ先に救助活動をしたのは、
アメリカ軍。 被災後は、この付近の住民たちは、美里町と松島町に分かれて、
半年から1年近くも寒い体育館での寝泊りを余儀なくされた。


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