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    タグ:石巻

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    志賀 直哉
    志賀 直哉(1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、明治から
    昭和に掛けて活躍した日本の小説家で、白樺派を代表する小説家のひとり。
    「小説の神様」と称せられ、多くの日本人作家に影響を与えた。 代表作に
    「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。 宮城県石巻市
    住吉町生まれ、東京都育ち。

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    志賀直哉の父は、総武鉄道や帝国生命保険の取締役を経て、明治期の財界で重きを
    なした人物でした。 直哉は、第一銀行石巻支店に勤務していた父の任地宮城県
    石巻市に生まれ、その後、学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学
    文学部英文学学科に入学しました。

    直哉は白樺派の作家ですが、作品には自然主義の影響も指摘され、無駄のない
    文章は、小説文体の理想のひとつと見なされて高く評価されています。



    生涯で合計23回の引越しをしました
    居住開始年月居住地
    1883年2月宮城県牡鹿郡石巻町
    1885年2月東京府東京市麹町区内幸町
    1890年4月東京府東京市芝区芝公園地
    1897年7月東京府東京市麻布区三河台町
    1912年11月広島県尾道市土堂町
    1913年12月東京府荏原郡大井町
    1914年5月島根県松江市
    1914年9月京都府京都市上京区南禅寺町
    1915年1月京都府京都市上京区一条御前通
    1915年5月神奈川県鎌倉郡鎌倉町
    居住開始年月居住地
    1915年5月群馬県勢多郡富士見村
    1915年9月千葉県東葛飾郡我孫子町
    1923年3月京都府京都市上京区粟田口三条坊町
    1923年10月京都府宇治郡山科村
    1925年4月奈良県奈良市幸町
    1929年4月奈良県奈良市高畑町
    1938年4月東京府東京市淀橋区諏訪町
    1940年5月東京府東京市世田谷区新町
    1948年1月静岡県熱海市稲村大洞台
    1955年5月東京都渋谷区常磐松町

    生誕の地である宮城県石巻市住吉公園付近には、志賀直哉生誕の地の案内があります
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    【志賀直哉邸跡と白樺文学館】

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    白樺派と文学館
    白樺派は、1910年(明治43年)創刊の文学同人誌「白樺」を中心にして起こった
    文芸思潮の一つ。 また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達の
    ことである。

    白樺文学館は、千葉県我孫子市旧志賀直哉邸跡地前に、2001年(平成13年)1月に
    白樺派の作品を広く公開するために建設された文学館である。 コンセプト立案者、
    および、初代館長は武田康弘。 日本オラクル初代社長の佐野力が創設し、
    2009年に千葉県我孫子市が運営を引き継いだ。 白樺派の他、柳宗悦が始めた
    民芸運動についての資料を所蔵・展示している。

    我孫子市にある手賀沼の北岸は、当時は農村地帯であったが、我孫子駅の開業で
    東京から交通の便が良くなり、別荘地として人気が出つつあった。 柳宗悦・
    柳兼子夫妻が1914年(大正3年)4月、宗悦の叔父である嘉納治五郎(柔道家)の別荘
    向かいに引っ越し、庭にあった3本の椎にちなんで嘉納が「三樹荘」と命名。
    柳夫妻に誘われる形で「白樺」同人達が続いた。



    志賀直哉夫妻は1915年(大正4年)に移り住んだ。 直哉は当時、父との不和に悩み、
    愛児が夭逝する不幸もあったが、ここで創作意欲を回復させ「城の崎にて」「和解」
    「小僧の神様」や「暗夜行路」(前篇のみ)を執筆した。 さらに1916年(大正5年)
    には、武者小路実篤実篤も居を構え、彼らとの交流から1917年(大正6年)英国人
    陶芸家バーナード・リーチが三樹荘裏に窯を築いた。 直哉が京都へ転居した
    1923年(大正12年)を最後に各作家の居所は散り散りになるが、彼らの濃密な交流や
    東京からの文化人の来訪により、手賀沼北畔は白樺派や民芸運動の拠点となった。

    我孫子市は、白樺文学館の運営を引き継いだほか、文学館や白樺派作家の別荘跡前を
    結ぶ崖下の道を「白樺派の小径」と命名している。 また宅地開発されそうになった
    志賀直哉邸跡を購入して書斎を移築した。

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    鎖国時代の日本、ペリー来航の100年以上も前にロシアの船が日本に来ていた
    ことは意外に知られていない。

    宮城県石巻市網地島にあるベーリングの像

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    元文の黒船(げんぶん の くろふね)
    元文の黒船とは、日本の江戸時代中頃の元文4年(1739年)夏、牡鹿半島、房総半島、
    および、伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航した事件である。 アメリカ
    合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に114年
    先立つ、いわゆる「鎖国」期における、江戸幕府とロシア帝国との歴史上初めての
    接触であった。

    元文4年6月18日、仙台藩領の本吉郡気仙沼で異国船の目撃情報があった。 更に
    4日後の23日に牡鹿半島沖の仙台湾に浮かぶ網地島にも2隻の異国船が出現した。
    これらの船は、マルティン・シュパンベルクが率いるロシア帝国の第2次北太平洋
    大探検隊であり、ベーリング海峡の語源となったヴィトゥス・ベーリング
    アリューシャン列島を探検している間、4隻の船を日本へと遣わし、ヨーロッパ
    大陸からベーリング海峡、千島列島を経て日本との通商ルートを開拓するために
    来航したものであった。
     
    まず初めに、2隻の異国船が現れたのは、牡鹿半島の南に浮かぶ網地(あじ)島の
    南東部、長渡(ふたわたし)浜で、仙台藩の公式文書には、「牡鹿郡長渡のうち、
    根組浜という所の沖に唐船(異国船)が2隻現れた」と記されている。 長渡を
    去ったロシア船は、今度は亘理荒浜沖に姿を見せたが、この時は3隻であった。
    網地島の白浜海水浴場には、これを記念してベーリングの銅像が建立されているが、
    残念ながら、ベーリング本人は網地島には来ていない。

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    翌々日の25日には、仙台藩領から遠く離れた幕府直轄領の安房国長狭郡天津村
    (現千葉県鴨川市)にも異国船が現れたが、これは上記の3隻とは別行動をとって
    いた船であった。 ロシア船員はそれぞれ上陸し、住民との間で銀貨と野菜や魚、
    タバコなどを交換した。 同月28日には伊豆国賀茂郡下田でも異国船が目撃された。
    これら上陸地の中で、ロシア人による日本初上陸の地となったのは、鴨川であった。

    当時、ロシアと日本の間には国境という概念がなく、霧を挟んで互いに姿が
    見えないという漠然とした区切りしかなかった。 その霧の向こうから
    突如ロシアが来訪し、こうして日ロの歴史が始まった。

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    鎖国時代の日ロ交流
    元文の黒船騒動で初めての接触を果たした日ロ両国であったが、千島列島では
    アイヌ人居住地にロシアの商人・海軍がじわじわとその勢力を拡大しつつあった。
    1753年、日本語学校の日本人教授を大幅に増員し、イルクーツクへと移転したが、
    これらの動きは蝦夷地(北海道)でアイヌと関係を持っていた松前藩の警戒を招いた。

    しかし、蝦夷地収益の独占を図る松前藩は、道外や和人地からの蝦夷地への訪問を
    制限しており、日本人にとって蝦夷・ロシアに関する知識は極めて限られたものと
    なった。 このような中、仙台藩の藩医工藤平助がロシア研究書である
    赤蝦夷風説考」を著述(赤蝦夷はロシア人のこと)したが、時の政治改革を主導して
    いた田沼意次もこれに関心を抱き、蝦夷地調査や新道開削などを開始したが、
    間もなく田沼が失脚したため、尻すぼみとなった。

    1793年のエカテリーナ2世の時代には、日本人漂流者でロシアで保護されていた
    大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のため、アダム・ラクスマンの使節が
    根室に来航したが、田沼の後政権を握った松平定信らは、漂流民の受け取りのみで
    通商は頑なに拒否して長崎回航を指示したため、ラクスマンはそのままオホーツクへ
    帰港した。

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    その後も1804年にニコライ・レザノフが同様に漂流者津太夫ら4名の送還のため
    長崎へ来航したのち、通称を拒否された報復で樺太と択捉島を襲撃する事件
    (文化露寇)、1811年にはゴローニン事件が起きるなど、正式な国交がないまま両国は
    緊張を続けた。

    1853年の米国による嘉永の黒船来航と同時期にエフィム・プチャーチン率いる
    ロシア使節が日本へ来航し、同年、樺太へのロシアの侵入が始まるが、交渉の末、
    1855年日露和親条約が締結され、ようやく日ロ間の国交が成立する。 1858年の
    日露修好通商条約、1875年の樺太・千島交換条約により、両国関係はようやく安定
    することとなった。

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    宮城県第2の都市である石巻のソウルフードと言えば、牛乳をベースにした
    スープが特徴の牧場ラーメンを挙げることが出来る。 この牧場ラーメンは、
    2000年頃までは、JR石巻駅前の牧場ビル1階にあったものだが、その後閉店し、
    東日本大震災後に一旦陸前山下駅付近の自動車学校を改装した場所で復活し、
    その後、更に、現在の場所へと再移転したもの。

    【牧場ラーメン】宮城県石巻市新成2-1-7 TEL: 0225-92-4649


    牧場ラーメンでは、麺を通常のものと唐辛子を使用した多少ピリ辛のものから
    選ぶことが出来るのだが、この独特な牛乳スープがなくなり次第、閉店と
    なるため、土日は午後5時以降に来店すると、閉店していることの方が多く、
    特に注意が必要となっている。 心配な場合は、以前に電話連絡を入れてから
    行くのが確実。 JR石巻線の渡波駅からは、歩いて10分弱で行くことが出来るが、
    石巻線は極端に列車の本数が少ないため、やはり、車で行くのが無難。 駐車場は
    4台分ぐらいあるため、恐らく大丈夫であろう。

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    牧場ラーメンでのお勧めはやはり、店名にもなっている『牧場ラーメン』であろう。
    牛乳味の独特なスープは、こくがあり、非常にまろやかな味がします。 多少
    ラー油等で辛目の味付けにしても、牛乳がまろやかな味に変えてくれるため、
    例え、唐辛子入りの麺を注文したとしても、特に辛さは感じない。

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    どうしてこの牧場ラーメンが石巻のソウルフードと呼ばれようになったのか
    に関しては、元々は、石巻駅前にお店があり、石巻の高校生御用達の
    ラーメン屋であったため、こう呼ばれるなったもの。 約20年ぶりに食した
    独特なラーメンは、懐かしいと言うよりも、変な味と言った方が分かりやすいw
    味覚とは年齢と共に変化するものです。 中高生の頃は、これを美味しいと
    思って食べていたww

    ともあれ、一旦閉店したお店が復活したことは、非常にめでたいため、石巻を
    訪れた際には、一度は牧場ラーメンを食べに行くことをお勧め致します。

    【お勧めの一品】



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    東日本大震災の最大の被災地、宮城県石巻市門脇町・南浜町地区では、震災から
    6年半が経過したが、復興が進んでいる場所とそうではない場所との『落差』が
    目立ち始めている。

    石巻市全体での死者数は3,282名となっており、行方不明者は699人となって
    いるが、この地区は、津波とその後に発生した火災により完全に廃墟と化した。
    被災前までは、約1,700世帯が住んでいた住宅街であったのだが、被災前までの
    名残は一切残ってはいない。

    【被災から6年半が経過した石巻市門脇地区
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    一部では、住宅地が復興したが、一部は道路となり、現在では、あちらこちらで
    工事中だらけとなっており、度々移転を繰り返している『がんばろう石巻』の
    看板のある場所にたどり着くのでさえ、ままならない。 基本的に右折が出来ない
    個所ばかりであるため、車での移動も非常に難しくなった。

    この地区には、災害復興住宅が建設されたが、この地区を襲った津波の高さは、
    約6.9メートルであるため、再度津波が襲った際には、また同じ過ちを繰り返すので
    あろう。 日和山へと登る階段の麓には、1つだけ商店が出来たが、住民がまばらで
    あるため、売り上げ増も期待出来ない。

     

    被災直後に炎に包まれた門脇小学校は、現在では廃校となり、この先、のこ地区での
    人口増が全く望めないという理由により、石巻小学校と統合された。 2012年の
    紅白歌合戦で、長渕剛がライブ中継を行った校庭には、その面影すら残っては
    いない。

    最近では、テレビ等でも全く報道されなくなった東日本大震災最大の被災地は、
    復興もままならないままの状態で、人気も無くひっそりと静まり返っていた。

    【お勧めの一冊】



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    宮城県石巻市牡鹿半島突端の沖合いに浮かぶ金華山は、島全体が黄金山神社の
    神域とされており、古くから信仰の対象として、青森の恐山、山形の出羽三山と
    並ぶ『奥州三霊場』にも数えられている人口わずか6名の島。 神の使いとして
    保護されている多数の鹿が生息している。

    特に、商売繁盛や開運招福を願う弁財天が有名であり、地元では『三年続けて
    お参りすれば一生お金に困ることはない』という言い伝えがある。 離島にも
    関わらず、多くの参拝客を集めていたが、2011年の東日本大震災発生後は、
    震源地から最寄地点ということもあり、金華山へと向かう船は、女川港、
    鮎川港共に、日曜日にそれぞれ1往復のみの運行となっている。 天候不良の
    場合には、船が運航しないため、更にその有り難味が増した。

    港から徒歩20分程度、あるいは、島内にある無料の送迎車で5分の場所にある
    黄金山神社は、広島県の厳島神社等と共に日本の『五弁天』の1つにも数え
    られており、黄金山神社から徒歩約1時間の金華山山頂には奥ノ院が鎮座している。
    島内には、奈良時代の産金伝説も残っている。

    2000年には、航空自衛隊松島基地所属のブルーインパルス2機が金華山にほど近い
    牡鹿半島の光山に墜落、パイロット3名が死亡する事故があった。

    【金華山黄金山神社】
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    【金華山航路】
    金華山へは、石巻市牡鹿地区の鮎川と、女川町の2ヵ所の港から船が出る。
    鮎川航路は、金華山航路事業協同組合(☎0225-44-1850)への予約により、
    片道約20分、往復料金2500円~。 女川航路は、潮プランニング
    (☎0225-98-9038、☎090-4639-9038)への予約により、片道約35分、
    往復料金3100円~。
     
    【金華山パワースポット巡り便】
    女川からは、予約によって「おすすめ金華山パワースポットめぐり便」が運航。
    島内で黄金山神社周辺のパワースポット巡りが出来る。 金運開運の銭洗場や、
    体の痛みがとれる『こぶの木』、子宝に恵まれる子安地蔵など不思議な金華山の
    魅力が楽しめる。 予約すれば宿坊に宿泊することも出来る。 問い合わせは
    上記の潮プランニングまで。

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    ◎日和幼稚園訴訟(下)悲劇の伝承

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    <現場で語り部に>
    東日本大震災の津波で子どもを亡くした私立日和幼稚園(宮城県石巻市、休園中)の
    遺族4人が9月30日、園の周辺で、修学旅行で訪れた香川県丸亀高の2年生約90人を
    案内した。

    園児を乗せた送迎バスが炎上した現場付近にたたずむ。 遺族にとって、つらい
    けれど大切な場所だ。 次女明日香ちゃん=当時(6)=を失った佐々木めぐみさん
    (36)が、わが子の遺体を見つけた際の様子を静かに振り返った。

    「体を触るとポロポロと崩れてしまい、抱きしめることができませんでした。
    もっと長生きしてほしかった。 皆さんは家に帰ったら『ただいま』と言って
    ください」

    耳を傾けていた丸亀高の生徒が手で涙を拭った。 小中学生のきょうだい2人が
    いる大麻悠香さん(17)は「胸が苦しくなったけれど、遺族の話を聞いて良かった」
    としみじみ思う。 「香川県は南海トラフ巨大地震の被害が想定されている。
    ちゃんと避難訓練をする必要があると痛感した」。 教訓を持ち帰り生かしたい
    という。



    遺族は訴訟の和解から5カ月後のことし5月、男鹿市の海岸へ足を運んだ。
    その地では1983年5月、日本海中部地震の津波で、遠足中の旧合川南小
    (北秋田市)の児童13人が犠牲になった。

    佐々木さんの夫純さん(36)が、初対面した日本海中部地震の遺族に自分の
    苦しみを重ねて尋ねた。 「32年間、どのようにして子どもたちの死と向き
    合ってきたのかが知りたい」

    小学4年だった長女=当時(9)=を失った福岡史恵さん(65)が答える。
    『ただいま』という言葉がないまま、32年前の姿のままに供養しています」。
    悲劇を語り継いでいくことが、風化の防止につながるとも助言した。

    <苦悩抱えながら>
    震災から間もなく4年9カ月。 早世した園児のきょうだいは、少しずつ成長
    している。 西城春音ちゃん=当時(6)=の仏壇がある石巻市の自宅の座敷で
    11月中旬、姉の楓音(かざね)さん(13)が震災後初めて、妹と一緒に遊んで
    いた形見のおもちゃを広げた。

    女児に人気のリカちゃんの家とシルバニアファミリー。 弟の靖汰君(7)、
    春汰ちゃん(2)が夢中になって遊んだ。 母江津子さん(40)は、何も
    言わず黙って見守っていた。 楓音さんの気持ちを想像してみる。

    「妹が亡くなり、一人でどうやって遊んでいいのか、分からなくなっていた
    と思う。 でも中学生になり、抱え切れなかった思いを少し抱えられるように
    なったのかもしれない」

    江津子さんも、愛するわが子を失った悲しみを抱えながら、命の大切さを
    伝えていくつもりだ。

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~

    >>【津波訴訟和解1年】「心から」の思い見えず

    【お勧めの一冊】


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    ◎日和幼稚園訴訟(上)謝罪の意味
    東日本大震災の津波で園児5人が亡くなった宮城県石巻市の私立日和幼稚園
    (休園中)の訴訟で、園児4人の遺族側と園側が和解してから2015年12月3日で
    1年となる。 園側からいまだに直接的な謝罪はなく、遺族側は一層、苦悩を
    深める。 遺族らは園側に血の通った対話を求める一方、語り部として命の
    大切さを伝える。 和解後の遺族の日々を追った。

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    <拒否された手紙>
    長女愛梨ちゃん=当時(6)=を失った佐藤美香さん(40)の自宅に11月中旬、
    園側の関係者に出した手紙が返送されてきた。 未開封の封筒には、直筆の
    文字があった。 「受取拒否」 佐藤さんがしたためた手紙はA4判1枚。
    「園側が法的責任を認め、心からの謝罪をする」という訴訟の協議内容を胸に
    納め、和解を決心したいきさつを記した。 和解成立後、園側から連絡がなく、
    手紙を送らざるを得なかった心境もつづった。

    佐藤さんは感情を押し殺して語る。 「法的なしがらみはありません。
    園側には一人の人間として、私たちと向き合ってほしいだけです。 せめて、
    未来を奪われた愛梨たちに真実を伝え、心から謝ってほしい」

    2014年12月3日、仙台高裁。 津波犠牲者をめぐり、初の賠償命令が出た
    訴訟は提訴から3年4カ月で幕を閉じた。

    和解調書は「園側は被災園児らと遺族側を含む家族に心から謝罪する」との
    文言を明記する。 園側は「司法の勧告を厳粛に受け止め、幼くして失われた
    尊い命に思いを致し、冥福を祈る」との談話を出した。

    今年3月と夏、一部の遺族宅に花が郵送された。 差出人は園側の関係者。
    手紙や文書は添えられておらず、遺族は真意を測りかねた。



    <踏み出せぬまま>
    遺族は9月、文部科学省の学校事故対応に関する有識者会議のヒアリングに
    臨んだ。 次女春音ちゃん=当時(6)=を亡くした西城靖之さん(47)が
    研究者ら委10人に訴えた。

    「判決では園側の謝罪を得られないだろうと考えて和解を選んだ。 裁判の
    出口は出たけれど、そこから一歩を踏み出せずにいる」。 いまだに心の
    整理がつかない真情を吐露した。

    被告が原告の遺族に面会し、直接謝罪する。 日和幼稚園の遺族が対話の
    一歩として望むことが、震災関連の犠牲者をめぐる別の訴訟では実現した。
    その遺族は匿名を条件に胸の内を明かす。

    「訴訟で一番求めていたのは謝罪です。 亡くなった家族は帰ってこない
    けれど、位牌(いはい)の前で手を合わせ、頭を下げてもらったことには
    納得している。 人として最低限のことはしてもらいました」

    民事訴訟の和解に詳しい東北の元裁判官は「日和幼稚園のケースは気持ちの
    面で解決を望む遺族と、法的な問題を解決する裁判との間に大きな落差がある」
    と指摘する。

    「心からの謝罪」は目に見えない。 どうすれば、それがなされたといえるのか。
    元裁判官は「捉え方は難しい。 和解項目は任意であって強制執行はできない。
    園側が亡くなった園児や遺族とどう向き合うかが社会的、倫理的に問われている」
    と話す。

    [日和幼稚園訴訟]東日本大震災の津波で亡くなった園児4人の遺族が2011年8月、
    園側は安全配慮義務を怠ったとして、園側に損害賠償を求め仙台地裁に提訴。
    地裁は2013年9月、法的な責任を認め、園側に賠償を命令。 園側が仙台高裁に
    控訴し、訴審では園側が和解金計6,000万円を支払うことなどで和解した。
    訴えによると、園児を乗せた送迎バスは2011年3月11日午後3時ごろ、園のある
    高台から海側の低地に向けて出発。 約45分後に津波に巻き込まれ、提訴した
    遺族の子ども4人を含む園児5人が死亡した。

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~
    >>津波訴訟和解1年>わが子の命思い語る

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    東日本大震災で学校管理下の児童74人と教職員10人が犠牲となった宮城県
    石巻市立大川小学校の惨事を巡り、23人の児童の遺族19家族が市や県に国賠
    請求を求めた裁判は、2016年1月22日、仙台地裁(高宮健二裁判長)で
    口頭弁論が開かれ、同校の当時の校長ら5人の証人尋問を4月中に行うことが
    決まった。

    引き渡し時に校庭の様子を目撃した保護者が証人として採用され、教職員で唯一、
    学校現場から生還したA教諭の証人申請については引き続き『留保』となり、
    5人の尋問の後、裁判所が採否を決める。

    85fa18e5.jpg

    この裁判は、子どもたちの遺族が同校に津波が襲来するまでの約50分間、児童らが
    校庭に居続けたことについて、市側に詳細な経緯と原因を明らかにするよう求めて
    提訴したもの。 これまでの5年間、未だ明らかにされてこなかった事実を目撃者ら
    から得て、真相解明に近づくことができるか。 遺族は司法の場に期待している。



    今回、新たに原告側から証人申請され、採用が決まったのは、地震後、学校に
    当時小学6年の娘を迎えに行った保護者。 採用された5人の中でも、津波に
    襲われる直前に、校庭での児童引き渡しの現場に立ち立った唯一の目撃者だ。

    原告側の吉岡和弘弁護士(仙台弁護士会)によると、この保護者は、地元民放
    ラジオの津波情報を聞きながら学校に娘を引き取りに向かい、14時52分頃から
    15時10分頃まで校庭にいた。 この間、小学6年生の子どもたちが『山に逃げよう』
    と言って、教諭と口論している光景を目撃。 ふだんは泣かない娘が泣いている
    異常な状態を見て、『津波が来ますよ』と担任に伝えると、『お母さん、落ち
    着いてください』などと、たしなめられたという。

    また、娘を連れて帰る途中、学校とも深いつながりのあった地域住民が
    『津波が来る』と言って学校に駆けつけてきた場面にも遭遇したという。
    証人尋問は、2日に分けて行われる。

    1日目の尋問は、震災当時は別の学校にいたが、かつて同小の教頭時代に災害
    対応マニュアルの改訂などに携わり、震災後に指導主事として保護者や住民など
    からの聞き取り調査にも携わった現校長と、震災当時の校長の2人。

    2日目は、地震直後に広報車で2度にわたり大川小前を通った市役所の支所職員の
    他、前出の校庭の様子を目撃した保護者と、『山さ逃げよう』と主張したと
    される当時6年の男児の父親で原告団長の今野浩行さんの計3人が証言する。



    また、原告が申請していた、震災当時、同市内の中学教諭であり、小学6年の娘を
    亡くした遺族でもある母親の証人尋問については、採用されなかった。

    原告の遺族たちは、震災直後から『目の前に裏山があるのに、なぜ避難でき
    なかったのか?』『広報車の“河川に近づかないでください”という呼びかけを
    認識している筈なのに、なぜ避難先に選んだのが河川のすぐそば(堤防上の
    三角地帯)だったのか?』などの観点から、真実の解明を求め、これまで20人
    くらいから聴き取りをしてきた。

    現場で児童らと共にいて唯一生還した当時の教務主任だった男性教諭については、
    地裁は引き続き『留保』とした。 この教諭については、遺族たちから証人
    として採用するよう裁判所に対して強い要請が出されているものの、主治医が、
    体調や精神状態を悪化させると尋問に反対している。

    裁判所側は、他の証言を聞いた上で、さらに教務主任の証言が必要かを判断する
    方針だ。 一方、被告側の準備書面によれば、市は、当時、校庭から移動を始めた
    児童らに向かって、教頭が、『津波が来ていますので皆さん急いでください』と
    発言したことを、<『津波を目撃した』事実を裏付けるものではない>とし、
    教職員が津波を予見できていたとする原告側の主張に反論した。

    また県も、高知県でサッカーの試合中に落雷で亡くなった部活動事故の平成18年の
    最高裁判決や、平成27年の宮城県山元町立東保育所の高裁判決(上告中)を
    引き合いに出し、東日本大震災の特殊性を踏まえた上で予見可能性や予見義務の
    判断すべきとし、『学校の校庭から避難することを選択することが法的に義務
    づけられる程度の危険が迫っていることを予見するのは、尚のこと困難であった
    とみるべきである』と主張した。

    今後、A教諭の証人申請が採用されない場合は、6月頃に結審し、夏頃をめどに
    判決が下される見込みだ。

    出典:Haffpost

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    宮城県石巻市は2016年4月14日、東日本大震災の犠牲者とみられる身元不明の
    遺骨が入った34の骨箱を、石巻霊園(同市大瓜)のコンテナ仮安置所から3月に
    新設した近くの石巻第2霊園の納骨堂へ移した。

    仮安置所と納骨堂の双方で法要があり、市職員や僧侶、葬祭業者ら約40人が出席。
    参列者は僧侶の読経が響く中で焼香し、犠牲者の冥福を祈り手を合わせた。

    1583eede.jpg

    仮安置所は2011年12月に設置された。 隣接するプレハブに慰霊スペースを設け、
    行方不明者の家族らが供養に訪れた。 プレハブは今後も残し、納骨堂脇にも
    焼香台を設置した。

    一方、市内では南浜地区に整備する復興祈念公園への納骨を望む声もある。
    17カ寺でつくる石巻仏教会は14日、市役所で記者会見し、桂田文隆会長が
    「多くの人が訪れて心を寄せる場所に安置するべきだ」と署名活動に協力を
    呼び掛けた。

    亀山紘市長は「丁寧に安置することが犠牲者への務めだと思う。 祈念公園へと
    いう意見も真摯(しんし)に受け止め検討したい」と話した。

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    東日本大震災で被災した宮城県石巻市の大川、門脇両小の校舎について、
    亀山紘市長が2016年3月26日、保存することを正式表明した。 記者会見での
    主なやりとりは次の通り。

    ◎遺族への配慮 在り方探る 出典:河北新報

    -保存を決めた理由は。
    -『最大被災地の石巻市で、大災害の教訓を伝えていくことが重要。 命が
    奪われたことが一番の教訓。 大川小は児童と教職員計84人が犠牲となった。
    悲しみを伴う事実を伝えるためにも校舎を残す意義はある。 門脇小は津波と
    火災の痕跡があり、校舎にいた人は裏山の日和山に逃げて助かった』

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    『実際に被害を受けた建物を見るのと、映像を見るのとでは伝わり方が違う。
    保存の期限は決めていない。 できるだけ長期にわたり伝承していくことが
    必要だ。 語り部をしている遺族らの協力も受け、防災・減災の取り組みを
    していきたい』

    -もっと議論すべきではなかったかとの声がある。 『民主的にさまざまな
    -『意見を聞き、結論に至った。 保存、解体の両論が拮抗しているのは間違い
    ないが、震災から5年を迎えた今、先送りせず保存を決めるべきだと考えた。
    解体を望む遺族らのつらい思いに配慮した保存の在り方を検討していく』

    -仮に亀山市長が交代した場合、後任に両校舎をどうつないでいくのか。
    -『住民らとの話し合いを今後進める中で両校舎の具体的な残し方について合意
    していけば、首長が代わったとしても重要な遺構として伝わっていき、保存
    方針が変更されることはないと思っている』

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    東日本大震災で被災した宮城県石巻市で月2回、仮設住宅に無料配布
    される『仮設きずな新聞』が終刊となった。震災から5年が過ぎ、資金や
    担い手が不足し、継続が難しくなったという。 被災者から感謝と惜しむ
    声が相次ぎ、新聞制作や配布を支えてきたボランティアらが新たな情報紙の
    発行を検討している。
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    被災者支援に取り組む団体『ピースボート災害ボランティアセンター』が
    2011年10月に創刊。 A4判4ページで、約5,500部を市内133カ所の
    仮設団地で配ってきた。

    終刊について、編集長の岩元暁子さん(33)は『助成金などの支援が年々減り、
    資金難と担い手不足が主な要因』と説明する。

    岩元さん自身も結婚し、東京の夫とは別居状態が続く。 『歳月を経て支援者側の
    生活環境も変わった。 仮設住宅の解消まで頑張るかどうか悩んだが、どこかで
    区切りが必要』と話す。

    きずな新聞には住民の活動や地域の催し、健康に関する話題など暮らしに役立つ
    情報を掲載。 ボランティアや地域住民が一軒一軒を訪ね、直接手渡す
    『見守り活動』が好評だった。

    岩元さんは14日、最終号の第113号を手に石巻市鹿又の役場前団地を訪れ、住民に
    終刊を説明。最終号を配りながら、近況などを聞いて回った。

    平塚好夫さん(70)は同市門脇にあった自宅が津波で流失。 2011年10月から、
    同団地で妻と暮らす。 『本当にありがたかった。毎回楽しみだっただけに、
    終わるのは寂しい』と話す。

    きずな新聞は他の支援団体にも浸透し、新聞作りに協力する人もいた。 そうした
    メンバーからも惜しむ声が上がる。 岩元さんは『きずな新聞は終刊となるけれど、
    発行頻度を減らすなどして別の形の新聞を協力者たちと作りたい』。 夏ごろの
    発行を目指し、新媒体の準備を進めている。

    出典:河北新報

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    2011年3月11日の巨大地震発生時、宮城県石巻市の離島・金華山の港では、
    最終便となる定期船『ホエール』(19トン、72人乗り)が鮎川港への出発を
    待っていた。 突然の大きな揺れと津波の恐怖。 乗客を守るため、乗員は
    瞬時の判断を迫られた。

    逃げる その時 金華山定期船(石巻)
    出典:河北新報 2011年6月30日

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    大きな揺れが港を襲った瞬間、待合所にいた乗客の男性2人が青ざめた表情で
    船に飛び乗った。 午後3時の出発を待っていた『ホエール』。 待合所には、
    他にも黄金山神社の参拝客とみられる十数人がいたが、一様にどうしていいか、
    分からない様子だった。

    ホエールは地元の金華山観光が運航する小型旅客船。 この日は非番の船長に
    代わり、機関長の鈴木孝さん(63)が、かじを取っていた。 揺れから約5分後に
    突然、潮が上がり始めた。

    『まずい』。 鈴木さんは船をバックさせ、いったん岸壁を離れた。 無線から
    金華山観光社長遠藤得也さん(70)の声が響いた。 『客を乗せて沖に避難
    してくれ』 再び接岸して残りの客を乗せようか。 鈴木さんは迷ったが、
    岸壁は既に水没しかけている。 『だめだ。間に合わない』
    『危ないから神社に逃げて』。 鈴木さんは陸にいる人たちに船のマイクで
    何度も叫ぶと、全速力で沖を目指した。

    左手の金華山沖から、ものすごい高さの黒い波が迫った。『幅500メートルぐらいは
    あったか』。 鈴木さんは必死で逃げた。 鮎川港で地震に遭った遠藤社長は
    同じころ、海上タクシーとして使っている『くろしお』を>守るため、沖に
    向かって出港。 操舵室から全速力で逃げるホエールが見えた。

    金華山にぶつかった波がホエールを追いかけているかのようだった。

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    遠藤社長が振り返る。 『お客さんのことと自分の安全確保のことで、頭は
    パニックだった』 ホエールに乗り込んだ2人は、宮城県大和町の無職甘竹
    三郎さん(67)と仙台市太白区の無職三浦正靖さん(67)。 石巻高OBで
    つくる山歩きサークルの例会で金華山を訪れていた。

    甘竹さんは『白波を立てて津波が迫ってきた。 船にぶつかったら、終わり
    だと思った』と言う。 サークル仲間で仙台市青葉区の山岳写真家東野良さん
    (67)は、待合所から避難する途中、沖に逃げるホエールを手持ちのカメラで
    撮影。 『とにかく無事を祈りながらシャッターを押した』

    2隻は牡鹿半島の先端、黒崎灯台から約5キロ南まで避難。 金華山と牡鹿半島の
    海峡は、引き波で海底が露出するほどだったが、その海域を脱したホエールは
    無事だった。

    2隻は金華山と網地島の中間点で一夜を明かした。 余震は収まらない。
    サーチライトで照らし出された海面には、無数のがれきが漂っていた。
    ホエールには鈴木さんと客2人の他、乗務員2人が乗船。 恐怖で眠れない
    甘竹さんに、乗務員は励ましの言葉をかけた。 『水も食料もある。大丈夫。
    無事に帰れる』

    翌12日、遠藤社長は沖に避難していた数隻の小型船の助けを借り、ホエールの
    乗客と、黄金山神社に避難していた計約30人を鮎川港に搬送した。

    鈴木さんが鮎川港に上陸できたのは、地震発生から3日後の3月14日。
    『あの時、全員の乗船を待っていたら、きっと助からなかった』

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