多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:石巻

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    ◎日和幼稚園訴訟(下)悲劇の伝承

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    <現場で語り部に>
    東日本大震災の津波で子どもを亡くした私立日和幼稚園(宮城県石巻市、休園中)の
    遺族4人が9月30日、園の周辺で、修学旅行で訪れた香川県丸亀高の2年生約90人を
    案内した。

    園児を乗せた送迎バスが炎上した現場付近にたたずむ。 遺族にとって、つらい
    けれど大切な場所だ。 次女明日香ちゃん=当時(6)=を失った佐々木めぐみさん
    (36)が、わが子の遺体を見つけた際の様子を静かに振り返った。

    「体を触るとポロポロと崩れてしまい、抱きしめることができませんでした。
    もっと長生きしてほしかった。 皆さんは家に帰ったら『ただいま』と言って
    ください」

    耳を傾けていた丸亀高の生徒が手で涙を拭った。 小中学生のきょうだい2人が
    いる大麻悠香さん(17)は「胸が苦しくなったけれど、遺族の話を聞いて良かった」
    としみじみ思う。 「香川県は南海トラフ巨大地震の被害が想定されている。
    ちゃんと避難訓練をする必要があると痛感した」。 教訓を持ち帰り生かしたい
    という。



    遺族は訴訟の和解から5カ月後のことし5月、男鹿市の海岸へ足を運んだ。
    その地では1983年5月、日本海中部地震の津波で、遠足中の旧合川南小
    (北秋田市)の児童13人が犠牲になった。

    佐々木さんの夫純さん(36)が、初対面した日本海中部地震の遺族に自分の
    苦しみを重ねて尋ねた。 「32年間、どのようにして子どもたちの死と向き
    合ってきたのかが知りたい」

    小学4年だった長女=当時(9)=を失った福岡史恵さん(65)が答える。
    『ただいま』という言葉がないまま、32年前の姿のままに供養しています」。
    悲劇を語り継いでいくことが、風化の防止につながるとも助言した。

    <苦悩抱えながら>
    震災から間もなく4年9カ月。 早世した園児のきょうだいは、少しずつ成長
    している。 西城春音ちゃん=当時(6)=の仏壇がある石巻市の自宅の座敷で
    11月中旬、姉の楓音(かざね)さん(13)が震災後初めて、妹と一緒に遊んで
    いた形見のおもちゃを広げた。

    女児に人気のリカちゃんの家とシルバニアファミリー。 弟の靖汰君(7)、
    春汰ちゃん(2)が夢中になって遊んだ。 母江津子さん(40)は、何も
    言わず黙って見守っていた。 楓音さんの気持ちを想像してみる。

    「妹が亡くなり、一人でどうやって遊んでいいのか、分からなくなっていた
    と思う。 でも中学生になり、抱え切れなかった思いを少し抱えられるように
    なったのかもしれない」

    江津子さんも、愛するわが子を失った悲しみを抱えながら、命の大切さを
    伝えていくつもりだ。

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~

    >>【津波訴訟和解1年】「心から」の思い見えず

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    ◎日和幼稚園訴訟(上)謝罪の意味
    東日本大震災の津波で園児5人が亡くなった宮城県石巻市の私立日和幼稚園
    (休園中)の訴訟で、園児4人の遺族側と園側が和解してから2015年12月3日で
    1年となる。 園側からいまだに直接的な謝罪はなく、遺族側は一層、苦悩を
    深める。 遺族らは園側に血の通った対話を求める一方、語り部として命の
    大切さを伝える。 和解後の遺族の日々を追った。

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    <拒否された手紙>
    長女愛梨ちゃん=当時(6)=を失った佐藤美香さん(40)の自宅に11月中旬、
    園側の関係者に出した手紙が返送されてきた。 未開封の封筒には、直筆の
    文字があった。 「受取拒否」 佐藤さんがしたためた手紙はA4判1枚。
    「園側が法的責任を認め、心からの謝罪をする」という訴訟の協議内容を胸に
    納め、和解を決心したいきさつを記した。 和解成立後、園側から連絡がなく、
    手紙を送らざるを得なかった心境もつづった。

    佐藤さんは感情を押し殺して語る。 「法的なしがらみはありません。
    園側には一人の人間として、私たちと向き合ってほしいだけです。 せめて、
    未来を奪われた愛梨たちに真実を伝え、心から謝ってほしい」

    2014年12月3日、仙台高裁。 津波犠牲者をめぐり、初の賠償命令が出た
    訴訟は提訴から3年4カ月で幕を閉じた。

    和解調書は「園側は被災園児らと遺族側を含む家族に心から謝罪する」との
    文言を明記する。 園側は「司法の勧告を厳粛に受け止め、幼くして失われた
    尊い命に思いを致し、冥福を祈る」との談話を出した。

    今年3月と夏、一部の遺族宅に花が郵送された。 差出人は園側の関係者。
    手紙や文書は添えられておらず、遺族は真意を測りかねた。



    <踏み出せぬまま>
    遺族は9月、文部科学省の学校事故対応に関する有識者会議のヒアリングに
    臨んだ。 次女春音ちゃん=当時(6)=を亡くした西城靖之さん(47)が
    研究者ら委10人に訴えた。

    「判決では園側の謝罪を得られないだろうと考えて和解を選んだ。 裁判の
    出口は出たけれど、そこから一歩を踏み出せずにいる」。 いまだに心の
    整理がつかない真情を吐露した。

    被告が原告の遺族に面会し、直接謝罪する。 日和幼稚園の遺族が対話の
    一歩として望むことが、震災関連の犠牲者をめぐる別の訴訟では実現した。
    その遺族は匿名を条件に胸の内を明かす。

    「訴訟で一番求めていたのは謝罪です。 亡くなった家族は帰ってこない
    けれど、位牌(いはい)の前で手を合わせ、頭を下げてもらったことには
    納得している。 人として最低限のことはしてもらいました」

    民事訴訟の和解に詳しい東北の元裁判官は「日和幼稚園のケースは気持ちの
    面で解決を望む遺族と、法的な問題を解決する裁判との間に大きな落差がある」
    と指摘する。

    「心からの謝罪」は目に見えない。 どうすれば、それがなされたといえるのか。
    元裁判官は「捉え方は難しい。 和解項目は任意であって強制執行はできない。
    園側が亡くなった園児や遺族とどう向き合うかが社会的、倫理的に問われている」
    と話す。

    [日和幼稚園訴訟]東日本大震災の津波で亡くなった園児4人の遺族が2011年8月、
    園側は安全配慮義務を怠ったとして、園側に損害賠償を求め仙台地裁に提訴。
    地裁は2013年9月、法的な責任を認め、園側に賠償を命令。 園側が仙台高裁に
    控訴し、訴審では園側が和解金計6,000万円を支払うことなどで和解した。
    訴えによると、園児を乗せた送迎バスは2011年3月11日午後3時ごろ、園のある
    高台から海側の低地に向けて出発。 約45分後に津波に巻き込まれ、提訴した
    遺族の子ども4人を含む園児5人が死亡した。

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~
    >>津波訴訟和解1年>わが子の命思い語る

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    東日本大震災で学校管理下の児童74人と教職員10人が犠牲となった宮城県
    石巻市立大川小学校の惨事を巡り、23人の児童の遺族19家族が市や県に国賠
    請求を求めた裁判は、2016年1月22日、仙台地裁(高宮健二裁判長)で
    口頭弁論が開かれ、同校の当時の校長ら5人の証人尋問を4月中に行うことが
    決まった。

    引き渡し時に校庭の様子を目撃した保護者が証人として採用され、教職員で唯一、
    学校現場から生還したA教諭の証人申請については引き続き『留保』となり、
    5人の尋問の後、裁判所が採否を決める。

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    この裁判は、子どもたちの遺族が同校に津波が襲来するまでの約50分間、児童らが
    校庭に居続けたことについて、市側に詳細な経緯と原因を明らかにするよう求めて
    提訴したもの。 これまでの5年間、未だ明らかにされてこなかった事実を目撃者ら
    から得て、真相解明に近づくことができるか。 遺族は司法の場に期待している。



    今回、新たに原告側から証人申請され、採用が決まったのは、地震後、学校に
    当時小学6年の娘を迎えに行った保護者。 採用された5人の中でも、津波に
    襲われる直前に、校庭での児童引き渡しの現場に立ち立った唯一の目撃者だ。

    原告側の吉岡和弘弁護士(仙台弁護士会)によると、この保護者は、地元民放
    ラジオの津波情報を聞きながら学校に娘を引き取りに向かい、14時52分頃から
    15時10分頃まで校庭にいた。 この間、小学6年生の子どもたちが『山に逃げよう』
    と言って、教諭と口論している光景を目撃。 ふだんは泣かない娘が泣いている
    異常な状態を見て、『津波が来ますよ』と担任に伝えると、『お母さん、落ち
    着いてください』などと、たしなめられたという。

    また、娘を連れて帰る途中、学校とも深いつながりのあった地域住民が
    『津波が来る』と言って学校に駆けつけてきた場面にも遭遇したという。
    証人尋問は、2日に分けて行われる。

    1日目の尋問は、震災当時は別の学校にいたが、かつて同小の教頭時代に災害
    対応マニュアルの改訂などに携わり、震災後に指導主事として保護者や住民など
    からの聞き取り調査にも携わった現校長と、震災当時の校長の2人。

    2日目は、地震直後に広報車で2度にわたり大川小前を通った市役所の支所職員の
    他、前出の校庭の様子を目撃した保護者と、『山さ逃げよう』と主張したと
    される当時6年の男児の父親で原告団長の今野浩行さんの計3人が証言する。



    また、原告が申請していた、震災当時、同市内の中学教諭であり、小学6年の娘を
    亡くした遺族でもある母親の証人尋問については、採用されなかった。

    原告の遺族たちは、震災直後から『目の前に裏山があるのに、なぜ避難でき
    なかったのか?』『広報車の“河川に近づかないでください”という呼びかけを
    認識している筈なのに、なぜ避難先に選んだのが河川のすぐそば(堤防上の
    三角地帯)だったのか?』などの観点から、真実の解明を求め、これまで20人
    くらいから聴き取りをしてきた。

    現場で児童らと共にいて唯一生還した当時の教務主任だった男性教諭については、
    地裁は引き続き『留保』とした。 この教諭については、遺族たちから証人
    として採用するよう裁判所に対して強い要請が出されているものの、主治医が、
    体調や精神状態を悪化させると尋問に反対している。

    裁判所側は、他の証言を聞いた上で、さらに教務主任の証言が必要かを判断する
    方針だ。 一方、被告側の準備書面によれば、市は、当時、校庭から移動を始めた
    児童らに向かって、教頭が、『津波が来ていますので皆さん急いでください』と
    発言したことを、<『津波を目撃した』事実を裏付けるものではない>とし、
    教職員が津波を予見できていたとする原告側の主張に反論した。

    また県も、高知県でサッカーの試合中に落雷で亡くなった部活動事故の平成18年の
    最高裁判決や、平成27年の宮城県山元町立東保育所の高裁判決(上告中)を
    引き合いに出し、東日本大震災の特殊性を踏まえた上で予見可能性や予見義務の
    判断すべきとし、『学校の校庭から避難することを選択することが法的に義務
    づけられる程度の危険が迫っていることを予見するのは、尚のこと困難であった
    とみるべきである』と主張した。

    今後、A教諭の証人申請が採用されない場合は、6月頃に結審し、夏頃をめどに
    判決が下される見込みだ。

    出典:Haffpost

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    宮城県石巻市は2016年4月14日、東日本大震災の犠牲者とみられる身元不明の
    遺骨が入った34の骨箱を、石巻霊園(同市大瓜)のコンテナ仮安置所から3月に
    新設した近くの石巻第2霊園の納骨堂へ移した。

    仮安置所と納骨堂の双方で法要があり、市職員や僧侶、葬祭業者ら約40人が出席。
    参列者は僧侶の読経が響く中で焼香し、犠牲者の冥福を祈り手を合わせた。

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    仮安置所は2011年12月に設置された。 隣接するプレハブに慰霊スペースを設け、
    行方不明者の家族らが供養に訪れた。 プレハブは今後も残し、納骨堂脇にも
    焼香台を設置した。

    一方、市内では南浜地区に整備する復興祈念公園への納骨を望む声もある。
    17カ寺でつくる石巻仏教会は14日、市役所で記者会見し、桂田文隆会長が
    「多くの人が訪れて心を寄せる場所に安置するべきだ」と署名活動に協力を
    呼び掛けた。

    亀山紘市長は「丁寧に安置することが犠牲者への務めだと思う。 祈念公園へと
    いう意見も真摯(しんし)に受け止め検討したい」と話した。

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    東日本大震災で被災した宮城県石巻市の大川、門脇両小の校舎について、
    亀山紘市長が2016年3月26日、保存することを正式表明した。 記者会見での
    主なやりとりは次の通り。

    ◎遺族への配慮 在り方探る 出典:河北新報

    -保存を決めた理由は。
    -『最大被災地の石巻市で、大災害の教訓を伝えていくことが重要。 命が
    奪われたことが一番の教訓。 大川小は児童と教職員計84人が犠牲となった。
    悲しみを伴う事実を伝えるためにも校舎を残す意義はある。 門脇小は津波と
    火災の痕跡があり、校舎にいた人は裏山の日和山に逃げて助かった』

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    『実際に被害を受けた建物を見るのと、映像を見るのとでは伝わり方が違う。
    保存の期限は決めていない。 できるだけ長期にわたり伝承していくことが
    必要だ。 語り部をしている遺族らの協力も受け、防災・減災の取り組みを
    していきたい』

    -もっと議論すべきではなかったかとの声がある。 『民主的にさまざまな
    -『意見を聞き、結論に至った。 保存、解体の両論が拮抗しているのは間違い
    ないが、震災から5年を迎えた今、先送りせず保存を決めるべきだと考えた。
    解体を望む遺族らのつらい思いに配慮した保存の在り方を検討していく』

    -仮に亀山市長が交代した場合、後任に両校舎をどうつないでいくのか。
    -『住民らとの話し合いを今後進める中で両校舎の具体的な残し方について合意
    していけば、首長が代わったとしても重要な遺構として伝わっていき、保存
    方針が変更されることはないと思っている』

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    東日本大震災で被災した宮城県石巻市で月2回、仮設住宅に無料配布
    される『仮設きずな新聞』が終刊となった。震災から5年が過ぎ、資金や
    担い手が不足し、継続が難しくなったという。 被災者から感謝と惜しむ
    声が相次ぎ、新聞制作や配布を支えてきたボランティアらが新たな情報紙の
    発行を検討している。
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    被災者支援に取り組む団体『ピースボート災害ボランティアセンター』が
    2011年10月に創刊。 A4判4ページで、約5,500部を市内133カ所の
    仮設団地で配ってきた。

    終刊について、編集長の岩元暁子さん(33)は『助成金などの支援が年々減り、
    資金難と担い手不足が主な要因』と説明する。

    岩元さん自身も結婚し、東京の夫とは別居状態が続く。 『歳月を経て支援者側の
    生活環境も変わった。 仮設住宅の解消まで頑張るかどうか悩んだが、どこかで
    区切りが必要』と話す。

    きずな新聞には住民の活動や地域の催し、健康に関する話題など暮らしに役立つ
    情報を掲載。 ボランティアや地域住民が一軒一軒を訪ね、直接手渡す
    『見守り活動』が好評だった。

    岩元さんは14日、最終号の第113号を手に石巻市鹿又の役場前団地を訪れ、住民に
    終刊を説明。最終号を配りながら、近況などを聞いて回った。

    平塚好夫さん(70)は同市門脇にあった自宅が津波で流失。 2011年10月から、
    同団地で妻と暮らす。 『本当にありがたかった。毎回楽しみだっただけに、
    終わるのは寂しい』と話す。

    きずな新聞は他の支援団体にも浸透し、新聞作りに協力する人もいた。 そうした
    メンバーからも惜しむ声が上がる。 岩元さんは『きずな新聞は終刊となるけれど、
    発行頻度を減らすなどして別の形の新聞を協力者たちと作りたい』。 夏ごろの
    発行を目指し、新媒体の準備を進めている。

    出典:河北新報

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    2011年3月11日の巨大地震発生時、宮城県石巻市の離島・金華山の港では、
    最終便となる定期船『ホエール』(19トン、72人乗り)が鮎川港への出発を
    待っていた。 突然の大きな揺れと津波の恐怖。 乗客を守るため、乗員は
    瞬時の判断を迫られた。

    逃げる その時 金華山定期船(石巻)
    出典:河北新報 2011年6月30日

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    大きな揺れが港を襲った瞬間、待合所にいた乗客の男性2人が青ざめた表情で
    船に飛び乗った。 午後3時の出発を待っていた『ホエール』。 待合所には、
    他にも黄金山神社の参拝客とみられる十数人がいたが、一様にどうしていいか、
    分からない様子だった。

    ホエールは地元の金華山観光が運航する小型旅客船。 この日は非番の船長に
    代わり、機関長の鈴木孝さん(63)が、かじを取っていた。 揺れから約5分後に
    突然、潮が上がり始めた。

    『まずい』。 鈴木さんは船をバックさせ、いったん岸壁を離れた。 無線から
    金華山観光社長遠藤得也さん(70)の声が響いた。 『客を乗せて沖に避難
    してくれ』 再び接岸して残りの客を乗せようか。 鈴木さんは迷ったが、
    岸壁は既に水没しかけている。 『だめだ。間に合わない』
    『危ないから神社に逃げて』。 鈴木さんは陸にいる人たちに船のマイクで
    何度も叫ぶと、全速力で沖を目指した。

    左手の金華山沖から、ものすごい高さの黒い波が迫った。『幅500メートルぐらいは
    あったか』。 鈴木さんは必死で逃げた。 鮎川港で地震に遭った遠藤社長は
    同じころ、海上タクシーとして使っている『くろしお』を>守るため、沖に
    向かって出港。 操舵室から全速力で逃げるホエールが見えた。

    金華山にぶつかった波がホエールを追いかけているかのようだった。

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    遠藤社長が振り返る。 『お客さんのことと自分の安全確保のことで、頭は
    パニックだった』 ホエールに乗り込んだ2人は、宮城県大和町の無職甘竹
    三郎さん(67)と仙台市太白区の無職三浦正靖さん(67)。 石巻高OBで
    つくる山歩きサークルの例会で金華山を訪れていた。

    甘竹さんは『白波を立てて津波が迫ってきた。 船にぶつかったら、終わり
    だと思った』と言う。 サークル仲間で仙台市青葉区の山岳写真家東野良さん
    (67)は、待合所から避難する途中、沖に逃げるホエールを手持ちのカメラで
    撮影。 『とにかく無事を祈りながらシャッターを押した』

    2隻は牡鹿半島の先端、黒崎灯台から約5キロ南まで避難。 金華山と牡鹿半島の
    海峡は、引き波で海底が露出するほどだったが、その海域を脱したホエールは
    無事だった。

    2隻は金華山と網地島の中間点で一夜を明かした。 余震は収まらない。
    サーチライトで照らし出された海面には、無数のがれきが漂っていた。
    ホエールには鈴木さんと客2人の他、乗務員2人が乗船。 恐怖で眠れない
    甘竹さんに、乗務員は励ましの言葉をかけた。 『水も食料もある。大丈夫。
    無事に帰れる』

    翌12日、遠藤社長は沖に避難していた数隻の小型船の助けを借り、ホエールの
    乗客と、黄金山神社に避難していた計約30人を鮎川港に搬送した。

    鈴木さんが鮎川港に上陸できたのは、地震発生から3日後の3月14日。
    『あの時、全員の乗船を待っていたら、きっと助からなかった』

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    宮城県女川町の離島・出島(いずしま)。 巨大津波に襲われ、島民らが一時
    孤立する事態に陥った。 外部との連絡が途絶え、不安の中で一夜を過ごした
    島民は、翌日午後には陸上自衛隊のヘリコプターで全員が宮城県石巻市に無事
    搬送された。 震災直後の混乱の中での『スピード救出』。 それを可能に
    したのは、1台の衛星電話だった。

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    その時 何が 島を救った衛星電話(宮城・女川町の出島)
    出典:河北新報

    養殖業が盛んで、釣り客にも人気の出島は人口約450人。 地震発生時は350人
    前後が島にいたと推定される。

    2011年3月11日の津波は『高さ20メートル近かった』と島民たちは証言する。
    養殖施設や漁港に係留していた船はあっという間に流され、付近の家々も壊滅。
    町災害対策本部は後日、出島で13人が死亡、11人が行方不明だと確認した。

    津波を逃れた住民たちは島の中央部の山を駆け登り、多くは山頂付近の女川四小・
    二中の校庭に避難した。 下校時間を迎えていた27人の児童・生徒も身を寄せ
    合っていた。

    気温が下がり、雪が吹き付けた。 島民は体育館や教室に入り、近くの民宿など
    から運んだ毛布にくるまった。 次第に、自分たちの置かれた深刻な状況が
    分かってきた。 情報源はラジオだけ。 電気・水道が止まり、携帯電話や
    インターネットも使えない。 飲料水は残りわずか。 夜が更けるにつれて
    不安と焦りが募った。

    3月12日早朝、外部と連絡を取ろうと教職員らは校庭の雪を払い、石灰で大きく
    『SOS 水 むせん』と書いた。 数機のヘリが上空を横切ったが、気付か
    ないのか、そのまま通り過ぎて行く。

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    『連絡方法は一つ』。 出島地区の赤坂宏介区長(70)は必死にがれきの中を
    走った。 島には町から配備された2台の可搬型衛星電話がある。 出島、寺間の
    両区長の家に1台ずつ置かれていた。 漁港に近い自宅の1台は水没してしまった。

    もう1台は寺間地区の高台に立つ植木千万夫区長(68)宅にある。 寺間地区に
    着いた時、植木さんは沖に出した漁船で一晩過ごし、家に帰る途中だった。
    『出島区長が来てる。 早く戻って』。 遠くから自分を呼ぶ住民の声を聞いて、
    植木さんは『衛星電話を取りに来たとすぐに察しがついた』。 走って戻り、
    家に無事残っていた衛星電話を手渡した。

    衛星電話は学校に運ばれ、当時女川四小校長だった今野孝一さん(51)が通信を
    試みた。 訓練以外に触れることのない衛星電話は、バッテリーが切れていた。
    近くの道路工事現場の発電機から電源を取った。 慎重にアンテナの向きを調整
    すると、受話器から発信音が聞こえる。

    今野さんは女川町や県の防災関係機関に次々と電話を掛けた。 だが、一向に
    つながらない。 少し考えて、ここは海の上だと気付いた。 掛けたのは海上
    保安庁の『118』。 『救助要請ですか』。 頼もしい声が耳に響いた。

    電話から約2時間後の午後1時ごろ、陸上自衛隊のヘリが島に降り立った。 30人
    乗りの大型ヘリ2機が、島と石巻市総合運動公園との間を何度も往復した。
    全員を搬送し終えた時は午後5時を回っていた。 島民たちは『われわれは運が
    良かった』と振り返る。 万が一に備えて数年前に配備された衛星電話。

    1台は偶然高台にあった。 学校の近くが道路工事中で、発電機が使えたことも
    幸いした。 いずれが欠けても“細い糸”はつながらなかった。

    出島は今も電気、水道が止まり、島民は昼間、がれきの撤去などで島に渡りながら、
    夜は本土で避難生活を送っている。 NTTドコモ東北支社によると、応急処置に
    よって出島で同社の携帯電話がほぼ使えるようになったのは、震災1カ月後の
    4月10日だった。

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    東日本大震災。 2011年3月11日、世界最大級マグニチュード(M)9.0のエネルギーが
    東北の大地を突き上げ、大津波が太平洋沿岸をことごとく破壊した。

    復興に立ち向かうために、あの日の事実、今の現実を後世に伝えなければならない。
    『ドキュメント大震災』。 シリーズ第1弾『その時何が』では、震災直後の混乱の中で
    断片的な情報だけが入り、詳細が不明のままとなっていた出来事を掘り下げる。

    出典:河北新報

    kataribe


    ◎その時何が(1) 屋上のSOS(石巻)

    2011年3月13日の朝刊に、宮城県石巻市の学校を上空から撮影した写真が載った。
    屋上に『SOS』の白い文字が浮かんでいる。 小さな人影が両手を大きく広げ、助けを
    求めていた。

    その学校は大街道小学校だった。 石巻工業港から北へ約1キロ。 3月11日の津波で
    1階が水没し、学校の周辺も海水に沈んだ。 2、3階に避難した住民や教員、児童ら
    約600人が孤立状態に陥っていた。 甲斐好子さん(36)は地震後、首まで水に漬かり
    ながら、近所のお年寄りや赤ちゃんを救助。 ずぶぬれになって、母親(69)と学校に
    たどり着いた。

    恐怖と不安の一夜。 上空に非常事態を象徴するヘリコプターの爆音がとどろいていた。
    夜明けが近づくと、爆音が交錯し始める。 12日朝、何機ものヘリが、上空を飛び交って
    いた。 甲斐さんら数人が屋上へ駆け上がった。 ヘリを見上げる。 『気付いて』。
    救助を求めようとの声が挙がった。 誰が発案したか甲斐さんは覚えていないが、
    教員らがB4判のコピー用紙を持ってきて、並べ始めた。 『SOS』。 風で飛ばされぬよう、
    ウレタンの破片を重りにした。



    甲斐さんはヘリに向かって必死に手を振った。 『何か物資を落としてくれないか、誰か
    降りてくれないかって…。でも、みんな飛び去ってしまった』

    約600人を飢えが襲った。 備蓄食糧はなかった。 避難者のうち子どもが約400人。
    わずかな食べ物でも、子ども達を優先した。 11日は放課後児童クラブの菓子を
    児童らに分けた。 12日、水が止まる。 住民らはスティック袋に入った砂糖をなめた。

    北村統教頭(49)は『先生方や大人は2、3日間、ほとんど食べるものがない状態。 我慢
    するしかなかった』と言う。

    水が徐々に引き始めた12日、自宅などから逃げ遅れた住民らが水に漬かりながら、
    続々と校舎に来た。 避難者は1,300人まで膨れ上がった。

    近所の中華料理店が炊き出しをしたのは14日だ。 紙コップ半分ぐらいの野菜スープを
    皆ですすった。 だが、周囲にガソリンやガスの臭いが漂い、炊き出しは中止せざるを
    得なかった。

    差し入れや買い出しで調達したわずかな食料を分け合った。 自衛隊員が19日、
    おにぎりとお湯を運んで来た。 拍手が湧き上がった。 『ごつごつした、いかにも
    男の人が握ったおにぎりだった』。 甲斐さんはその味が忘れられない。



    校舎の中では、懸命な救命、医療活動も続いていた。 石巻市立病院の看護師
    中里珠丹さん(36)は12日早朝、教員の叫ぶ声を聞いた。 『誰か看護師さんはいま
    せんか』。 1階の保健室へ行くと、ベッドに女性が横たわっている。 低体温症だった。
    毛布はない。 カーテンを体に巻き付けた。

    もう一人いた看護師と心臓マッサージを施したが、女性は間もなく、静かに息を引き取った。
    十分な治療設備はない。

    ピンセットは、ライターであぶって消毒した。 急ごしらえの救護室には昼夜を問わず、
    行列ができた。 中里さんは10日間、ほとんど寝る時間もなく、応急処置などに忙殺
    された。

    日赤の緊急医療チームがやって来たのは震災1週間後だった、と記憶する。
    『精神的にも肉体的にも、もう限界だった』



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    東日本大震災で当時6歳だった仲の良い姉を亡くした宮城県石巻市の小学2年生の
    佐藤珠莉(じゅり)ちゃん(8)が、2人の人形を『世界旅行させてください』と願う
    手紙をサンタクロース宛てに書いた。 いつか海外に行くことを夢見ていた姉と
    自分の代わりに人形が世界中を旅出来るようにと、サンタクロースにお願いをした。

    『あいり姉ちゃんとたくさんりょこうしたかったので、わたしのゆめをかなえて
    ください。 たびをしたときの人形のしゃしんをいっぱいとってきて、きねんに
    ほしいです』
     
    914293006323

    珠莉ちゃんの姉の愛梨ちゃんは、石巻市内にある私立『日和幼稚園』に通い、
    震災後に幼稚園の送迎バスで自宅に帰される途中、津波と火災に巻き込まれて
    命を落とした。



    当時3歳の珠莉ちゃんは、いつも一緒に遊んだ姉を突然失い、喪失感を抱えたまま
    成長した。 クリスマスや七夕などの度に帰ってくるよう願ったが、叶わなかった。

    昨年夏、珠莉ちゃんは、あるテレビ番組にくぎ付けになった。 病気の子に似せた
    人形を世界中を旅する人々に持ち歩いてもらい、名所を背景に写真を撮ってもらう
    企画。 番組では後日、その子にたくさんの写真が届いた。

    『愛梨もこうしてもらえないかな』その年のサンタへの手紙で、姉妹の人形を
    お願いした。 母親の美香さんが、復興支援団体を通じて人形を作れる人に製作を
    頼み、クリスマスに姉妹に似た編みぐるみが届いた。 珠莉ちゃんは大喜びで
    お礼の手紙を書き、今年は人形の世界旅行の願いを綴った。
     
    311648733673

    父親の文貴さんが家族旅行を計画し、美香さんが人形も持って行くことを提案
    したが『サンタさんに連れて行ってもらう』と珠莉ちゃん。 美香さんは
    『姉と自分を人形に投影し、自分の中に2人の世界があるのでしょう』と
    推測する。

    愛梨ちゃんの死後、事態の真相究明に奔走する両親を珠莉ちゃんはおとなしく
    見守った。 美香さんは『甘えたい盛りに我慢ばかりさせた』と悔やみ、
    『姉に対する思いの深さは親も驚くほど。 サンタの存在を信じる純粋な心を
    大切にしてあげたい』と思いやる。

    両親は、海外に行く用事があり『人形を持って行ってもいい』と申し出てくれる
    人がいれば、サンタの代役をお願いしてみようかと考えている。

    愛梨&珠莉人形 世界旅

    607317421164
    0090266830
    9534618492
    735056910
    974211426
    85455806528
    32539298
    91240959
    914293006323

    現在Facebook上には、『愛梨&珠莉人形 世界旅』 というページが制作され、
    あいり&じゅり姉妹は、世界中を飛び回っている。 サンタクロースになって、
    2人を海外へ連れて行っても良いという方は、こちらのフォームから問い合わせ
    お願いします。

    【EN】
    A girl who has lost her older sister (at the time she was 6 years old) by
    the tsunami in 2011, she dreams her dolls to travel around the world with
    her lost sister.

    【DE】
    Das Mädchen, das ihre ältere Schwester(zu der Zeit war sie 6 Jahre alt)
    vom Tsunami im Jahr 2011 verloren hat, träumt ihre Puppen, wie sie,
    um die Weltreisen mit ihrer verlorenen Schwester zu machen.

    【FR】
    La jeune fille qui a perdu sa sœur aînée (au moment elle avait 6 ans)
    per le tsunami en 2011, elle rêve des poupées comme ils voyagent à travers
    le monde avec sa sœur perdue.

    【RU】
    Девочка, которая потеряла свою старшую сестру(в то время ей было
    6 лет) в результате цунами в 2011 году, очень мечтает о том, что
    куклы похожие на них путешествуют по всему миру вместе со своей
    потерявшей сестрой.

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    宮城県石巻市にある小高い日和山。 ここから見える場所だけで、約3,000名が
    津波の犠牲となった。 この地に、約1,200軒もあった家は、ほぼ全て津波で
    流された。 鉄筋コンクリート建てであった、市民病院や石巻文化センターも
    全て取り壊されてなくなった。



    石巻は、津波災害後に、流出した重油により、海が燃えたため、この辺り周辺
    では、大規模火災が起きて、数日間燃え続けた。 被災直後に、この場所に
    『探しています』と貼り出されていたのは、物ではなく人であった。 東日本
    大震災で最も酷い被災地をひとつだけ挙げるとすれば、この石巻の門脇地区周辺。

    日和山は、約50メートルほどの標高であるため、この地域周辺を見渡すことが
    出来るが、それと同時に、被災状況も目の当たりにすることとなる。 遠くには、
    牡鹿半島も望むことが出来るため、石巻随一の観光スポットであったが、今では、
    その観光客もまばらで、時折、津波災害の被災現場を見に来る人たちばかり。 

    【日和山からの景色】
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    以下の画像は、被災前と被災後の石巻の比較画像。 被災前の石巻の画像は、
    ウェブ上にもYoutubeにも殆ど残ってはいない。 この画像で比較すると、河口
    付近が津波で何もなくなったのが、良く分かる。 このような被災前の画像は、
    非常に貴重であるため、なかなか見ることが出来ないのだが、『がんばろう!石巻』
    の看板のすぐ隣に新しく出来た、『震災伝承』つなぐ館では、被災時の様々な
    資料が展示してあり、係員が常駐しているため、更に詳しい話を聞くことも出来る。

    【被災前後の石巻】
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    石巻は、仙台藩唯一の港町として栄え、港湾設備の規模では、東洋一とも言われて
    いるのだが、その施設の活用は、まだまだで、災害復興だけではなく、この先を
    見据えての都市計画も非常に重要となって来る。 現在、北上川の河口付近には、
    新たな橋が2本建設中であり、街の再開発が進んではいるものの、まだ目に見える
    変化は特にない。

    新たに建設された防波堤により、海岸沿いでは、海が全く見えなくなったが、その
    ようなハード面ばかりに頼るのではなく、防災意識を更に高めて、様々な自然災害
    にも打ち勝てる強い街づくりが今後必要になるであろう。 

    日和幼稚園
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    IMG_0946
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    日和幼稚園』ご遺族で、語り部をされている佐藤さんに、送迎バスの資料を
    見せて頂いた。 これが、日和幼稚園の送迎バスの最後の姿。 1枚目の写真で
    見ると分かるのだが、家屋の屋根が上から覆い被さっていたため、バスが瓦礫で
    見えなかったそうです。
     
    現在、この場所は、道路工事の工事現場となってしまっている。 
    『頑張ろう!石巻』の看板の斜め向かいの場所なのだが、日和山のすぐ麓で、
    助けられたのではないかと何度も思ってしまった。 日和幼稚園の裁判は、
    既に園側とは和解しているのだが、その後、園長とは全く連絡が付かず、未だ
    謝罪すらしていない状況となっている。

    IMG_1203

    がんばろう!石巻の看板も、この道路工事により、裏側からしか入れなく
    なった。 がんばろう!石巻の看板の下には、『復興するぞ!』と書かれている。
    この周辺にあった住宅街の面影は、今では全くなく、荒涼とした景色ばかりが
    続く。

     

    【新蛇田周辺】
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    IMG_1128

    新しく街開きをした新蛇田地区。 街開きとは『集団移転先』という意味。
    沿岸部の人達は、今後順次この場所へと移り住む事となるのだが、これで
    街開きをした言われても、一切何もない。 遠くに見えているのが、災害復興住宅。
    来年の3月に石巻めぐみ野駅が開業するため、駅が出来れば、多少なりとも活気が
    出るのかも知れないが、山側へ移転した仙石線の野蒜駅を見ても、期待は出来ない
    であろう。 この場所は、東松島市との境界線上にあるため、石巻西高校の
    高校生も利用する駅となる。 最後の2枚の画像は、先日X JAPANがライブを
    行った『石巻ブルーレジスタンス』。

    石ノ森萬画館

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    石巻編の最後は、『石ノ森萬画館』。 この漫画館自体も、川の中州にあるため、
    一時完全に孤立して、避難者が生活を共にしていた場所。 今では、すっかり
    リニューアルされて、その面影すらないが、こういう記憶は、大事にしたいところ。

    漫画館の前に建っているシージェッター海斗像は、津波で流され、後日瓦礫の
    中から発見されたのだが、破損度合いが酷過ぎて、東京の制作会社からキカイダー
    01の像共々石巻市に贈られたもの。 ご当地ヒーローで街興しをしている街は
    多々あるが、その先駆けが、石巻となっている。



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    東北電力女川原発では、度重なる地震により、度々緊急停止や、非常用電源の消失が
    起こっているが、福島第一原発の事故を経ても尚、その緊急時の対応には、疑問が
    残っている。 そもそも、女川原発は、世界一の地震群発地域の真上に位置しているため、
    震度5強程度の地震であれば、月に2回程度は発生している。

    TKY201105110131

    福島第一原発で事故が発生した際にも、周辺自治体への連絡が遅れた事によって、
    本来であれば、無用な筈であった周辺住民の被爆問題が起きたが、有事の際の
    周辺地自体への緊急連絡網を早急に確立して欲しいところ。

    尚、福島第一原発での事故の際には、東電社員が地域住民を無視して、我先に
    第二原発へと自主避難をしたのは、まだ記憶に新しい。 こんな動画を堂々と
    映像センターで流しておきながら、言っている事とやっている事に乖離が見られる
    東北電力は、余り信用出来ない。



    出典:河北新報
    東北電力女川原発1号機(宮城県女川町、石巻市)で2015年9月下旬、外部電源が
    失われ非常用発電機が作動した問題で、東北電の原田宏哉社長は28日、周辺
    自治体への連絡が遅れたことについて「社会的にどう受け止められるかの感度が
    鈍かった。 地域に迷惑を掛け申し訳ない」と陳謝した。

    原田社長は定例記者会見で「東京電力福島第1原発事故以降、電源喪失や冷却
    設備の停止は地域の一大関心事になった」と説明。 同様の事態が発生した場合
    には「速やかに発表していきたい」と述べた。
     
    連絡が遅れた周辺自治体は原発から30キロ圏内にある緊急時防護措置区域
    (UPZ)の登米市など5市町。 東北電は法令や安全協定に定めがないことを理由に
    挙げていたが、地元からは改善を求める声が出ていた。

    国や立地自治体にはトラブル発生直後に自主的に連絡していた。
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