東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:皇帝

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    共和制が成立し、新しい議会(国民公会)の選挙が行われても、広がる不安と
    外国の侵略は阻止出来なかった。 秩序を確立し、まだ王政を支持する者を
    排除するために、国民公会の一部議員が公安委員会を設けた。 公安委員会は、
    1974年まで続いた恐怖政治の間、沢山の平民、貴族、僧侶を処刑した。 一方で、
    新政府の軍隊は外国軍を追い払った。

    1795年に国民公会は新しい憲法を制定した。 この憲法で、5人の総裁から成る
    総裁府と、2院制の立法府が置かれた。 この変革で、フランスは政治の安定を
    多少取り戻したが、更に不安と暴力は4年間続いた。 王政復古を願うフランス
    国民は、新政治体制に反対した。 総政府に不満だった王党派は、1799年に
    共和制を覆すと宣言した、若く精力的なナポレオンを支持した。

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    【ナポレオンの治世】
     優れた軍事・政治の戦略家であるナポレオンは、軍と政府を掌握した。
    ナポレオンの指令で、法律家達は国家の新たな法律として、ナポレオン法典を
    編纂した。 この法典は、言論の自由、宗教の自由、および、職業選択の自由を
    確立した。 新政府は、経済を完全に組み替えて、フィリップ4世以来続いて来た
    王宮の会計検査院を廃止し、国立中央銀行としてフランス銀行を創設した。

    再びフランスの軍事力をヨーロッパ最大のものにするために、ナポレオンは
    イタリアやヨーロッパ中部のハプスブルグ家支配の各地に攻め入って勝ちまくった。
    これらの国の支配者は、ただちに講和を申し入れて来た。 ナポレオンはまた、
    イギリスとの貿易、軍事上の紛争を解決し、ローマ・カトリック教会と宗教協約を
    結んだ。 こうしてナポレオンは、ヨーロッパ大陸を支配するフランス大帝国の
    創設を着々と計画して行った。

    ナポレオンは1804年に、自ら皇帝を宣言し、再びヨーロッパ中央部の侵略を
    始めた。 ナポレオンの敵は速やかに、フランスに対抗する同盟を結んだ。
    イギリスは制海権を握ってフランスの港を封鎖し、フランスとって重大な海外
    植民地との貿易を阻んだ。 ナポレオンのロシア攻撃は失敗し、ナポレオン自慢の
    大陸軍は崩壊した。 反仏同盟軍は1813年、ナポレオンをドイツから追い払い、
    皇帝は1814年に遂に退位した。 戦勝国はブルボン朝の王位を復活させ、ルイ
    16世の弟、ルイ18世を王位に就けた。

    ナポレオンに反抗した同盟軍は、ナポレオンをイタリア領エルバ島に流した。
    しかし、ナポレオンは1815年3月、強力なフランス陸軍を率いてフランスに
    上陸した。 同年6月18日、同盟軍はベルギーの街ワーテルロー付近に集結して
    ナポレオン軍を迎え撃って破った。 皇帝はイギリスに降伏した。 イギリスは
    今度は遠いセント・ヘレナ島にナポレオンを流した。 1821年、この島で
    ナポレオンは死んだ。 同盟諸国は平和のための最善の道として、再びルイ18世を
    王位に戻した。 また同盟軍は、民衆を抑えるために、フランスに駐留した。

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    1497年にレタイントンが死ぬと、後の皇帝は力が弱くて治世も皆短く、良く組織
    されていた政治制度を無視したので無政府状態を招いた。 16世紀になると、
    政府高官たちが互いに争い、1527年にそのひとり、マツクダンズン将軍が9代
    100年続いたレ王朝を倒し、遂に長年に渡る内乱が始まる。

    16世紀も後半になると、2大氏族が権力を分割して統治した。 北部ではティン氏が
    実権を握ったが、名目的な君主としてレ王朝を再興した。 南部で支配権を確立した
    グエン氏も、表向きはレ王朝を唯一の正統な君主とみなした。

    グエン氏は同時に、クメール帝国(カンボジア)に軍隊を進め、勢力を広めて
    行った。 クメール族は肥沃なメコンデルタをはじめ、広くインドシナ半島を
    支配していた。 グエン氏は、農民をクメール領に送り込んだ。 1690年までに
    ベトナム人は、メコンデルタのクメール族入植地、サイゴンに入り込んでいた。

    グエン氏はまた、絹や貴金属を中国、日本、および、ヨーロッパの商人たちに
    売って、対外貿易を伸ばした。 グエン氏の農園では、農民は国際市場を対象に
    して砂糖等を栽培した。 一方、ローマカトリック教会の宣教師に同行して来た
    ヨーロッパの商人たちは、懸命になって貿易を軌道に乗せ、またベトナム人を
    キリスト教徒に改宗させて行った。

    グエン氏の勢力は拡大して行ったが、メコンデルタに入植したベトナム人たちは、
    圧制に悩んだ。 1771年、ベトナム中部の山村、西山に反乱が起き、同村の
    グエン3兄弟が民衆を率いた。 1780年代に数年間の戦いの後、西山軍が
    メコンデルタからグエン氏の勢力を追い払い、次いで北部のティン氏の軍隊も
    破った。

    3兄弟はベトナムの北部、中部、南部を陥れると、統一政府の西山朝を設立した。
    だが、西山朝は、戦争のために農地が荒れ、収穫が衰えて飢餓になるという
    問題を解決出来なかった。

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    隣国のタイに亡命していたグエン氏一族の若い後継者、グエン・ツアクアインは、
    ベトナムを再び征服しようとした。 アジアに通商の拠点を作り始めていた
    フランス等外国の援助を得て、軍隊をメコンデルタから北へと進め、1802年に
    西山軍を破り、今日のベトナム領の殆んど全部を征服した。 そこでグエン・
    フツクアインはグエン王朝を建てて、自らゼーロン皇帝と称した。

    ゼーロン皇帝はベトナム中部のフエを首都とし、中国風の官僚制を強め、反政府
    勢力を全て潰した。 フランス人のカトリック宣教師が、多くのベトナム人を
    キリスト教徒に変えただけではなく、宮廷政治に干渉したために、ゼーロン皇帝は
    宣教師を弾圧し、フランス人の活動を制限し、国民のキリスト教信仰を禁じた。

    1830年代には、ゼーロン皇帝を継いだ息子のミンマン帝も父帝と同じように
    フランス人の影響に反発した。 皇帝はフランス人宣教師を大勢処刑したが、
    なお布教を続けながら、ベトナムをフランスが取得してしまうことを呼び掛ける
    宣教師も居た。

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    15世紀になって、『ルネッサンス』と呼ばれる古代の芸術や哲学の復興運動が
    イタリアから伝えられると、ドイツには大きな変化が起こった。 ドイツの新しい
    大学では、ルネッサンス学者たちが強力なローマ・カトリック教会に改革を迫り、
    改革者のひとりであるドイツの聖職者マルティン・ルターは教会の悪習を非難して、
    1521年には破門される。 しかし、北ドイツには改革の呼び掛けに賛同する人々が
    多く、プロテスタント(新教徒)として知られているこれらルターの支持者たちは、
    1520年代にルター派の教会を創設した。 こうして間もなく北ヨーロッパは、
    宗教改革の嵐に包まれることになる。

    1555年には、貴族から農民まで階層を問わず、ドイツの大部分の人々が
    プロテスタントに改宗した。 また、北ドイツの諸侯の中には、宗教改革を理由に、
    カトリック教会の持っている土地を没収する者も居た。 ハプスブルグ家の皇帝
    カール5世は、カトリック教徒であったので、激しい造反に直面、アウグスブルグの
    宗教和議で、ついに諸侯の領地における宗教の選択権を認めた。

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    その後、数十年の間にドイツ、オランダ、スイスでプロテスタントの新宗教派が
    創設された。 これらの宗教はルター派、カトリック派いずれの宗教の儀式も
    拒否した。 また、ローマ・カトリック教会は南ドイツの大半、オーストリア、
    ボヘミア(オーストリア北部に位置する王国)に勢力を盛り返して行った。
    ハプスブルグ家はカトリックだったので、ローマ教会と密接な関わりを持ち
    続っており、1618年、カトリックの王をボヘミアの王位に就けようと企てた。

    ところが、激しい反対が起き、暴動に繋がり、30年戦争の間、ドイツの諸侯は
    互いを攻撃、周辺の諸国はドイツの領地を略奪しようと中央ヨーロッパに進軍、
    プロテスタントと同盟を結んだスウェーデン王国は、ドイツのバルト海沿岸を
    攻撃、フランスはハプスブルグ家と戦うため、ライン川を越えて進撃に出た。

    戦争は1648年、ドイツにおけるカトリックとプロテスタントの領土を正式に
    承認するヴェストファーレン条約にようやく解決をみる。 こうして
    プロテスタント国家におけるハプスブルグ家の支配は終わったが、神聖ローマ
    皇帝の称号はなおもハプスブルグ家が継いで行った。

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    中国の人々は、自分達の国の長い歴史を誇りにしている。 およそ5,000年前に、
    黄河流域に最初の集落が出来始めた。 人々は敵を寄せ付けないため、村の周りに
    壁を築き、小麦や雑穀、野菜を栽培した。

    およそ4,000年前になると、陶器を作る技術を身に付け、文字を発明した。 また、
    道具や武器にするために、青銅や鉄を作ることを覚えた。

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    【王朝の支配】
    中国初期の王は、現在の中国の極一部を支配していたに過ぎなかった。 紀元前
    221年、秦王の嬴政(えいせい)が幾つかの国々を統一し、中国最初の皇帝と
    なった。 その後の全ての皇帝と同じく、嬴政は、帝位に就くと名前を変え、秦の
    始皇帝と名乗った。 後に続く皇帝たちは、始皇帝から引き継いだものを更に
    拡大し、中国はより大きく強い国になって行った。

    それぞれの王朝、あるいは、支配者の一族は、新しい業績を残している。 漢王朝は
    中国の政治制度を発達させた。 隋と唐の王朝は、芸術と建築の黄金時代を築いた。
    宋王朝は、運河建設に大いに力をいれた。 明の時代は、美しい青白磁の生産で
    名高い。

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    【皇帝の壁】
    中国北西部の秦王国の王であった嬴政は、周辺の敵国を打ち倒し、秦の最初の皇帝、
    秦の始皇帝と名乗った。 英語で中国をChinaと言うのは、秦という国名がChinと
    発音されることから来ると考えられている。 始皇帝は、強力な政府を樹立し、
    度量衡と言語、貨幣を帝国全体で統一した。 彼はまた、モンゴル族の侵入を防ぐ
    ため、中国の北の国境沿いに長大な壁の建設に取り掛かった。 壁には監視所と
    厳重に防衛された門が設けられた。 壁の上部は、馬に乗った兵士たちが敵を
    迎え撃ったり、伝令として通ることが出来る程広かった。

    その後の皇帝たちは、何世紀も掛けて壁をより頑丈に、より長くして行った。
    とうとう壁の長さは約7,300キロにも達し、地球上で最も巨大な人工建築物と
    なった。 この万里の長城には、現在世界中から観光客が訪れる。 万里の長城は
    月からも見ることが出来る。

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    ペテルブルグにある中心的な建物と言えば、海軍省を挙げることが出来るが、
    その金色の尖塔は、今日のペテルブルグの目抜き通り、ネフスキー大通り、
    ゴローホヴァヤ通り、ヴェズネセンスキー大通りから見える。 つまり、海軍本部の
    建物から放射線状に3本の大通りが三方に延びているのである。

    海軍本部は、1704年に海軍造船所として造られた。 造船所は、1844年に閉鎖
    されるまで、バルト海艦隊のために256隻の軍艦を建造した。 この造船所の
    背後に海軍本部の建物が出来た。 1802年に海軍本部は海軍省となり、これを
    機会に建築家ザハーロフの設計で改築が進められ、金色の尖塔を持つ建物が
    1923年に完成した。 海軍省の建物は、幅406mもある巨大なものであり、ロシア
    帝国にとっての海軍の特別な重要性を表している。 金色の尖塔は、ペテルブルグの
    都市のシンボルとなった。 海軍省の前の庭園は、アレクサンドル庭園と名付け
    られている。

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    海軍省の東隣に、ヴァシリエフスキー島への橋に通じる通りを挟んでそびえるのが、
    冬宮、現在のエルミタージュである。 薄緑色の美しい宮殿は、皇帝の宮殿である。
    現在のものは、最初から数えて5番目の冬宮である。 冬宮は、広い広場に面して
    正面玄関があり、2階部分が皇帝一家の居住部分となっていた。 玄関の上には、
    白の間があり、そのバルコニーから、皇帝が広場に集まる臣民に挨拶したのである。

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    冬宮前は、ペテルブルグ最大の広場となっており、広場の反対側は、弓なりに
    連なる建物であり、その中央部分にアーチがある。 アーチの上には、勝利の女神の
    女神ニケーの馬車が置かれている。 アーチの右側が本来の参謀本部で、現在も
    レニングラード軍管区令部がある。 アーチの左側は、大蔵省と外務省である。

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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には、不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んで、カール
    1世が皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は、経済状態の悪化に
    抗議した。 中央政府の弱体化につれて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人が次々とオーストリアからの独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツと共に、ついに連合国側に
    降伏した。 降伏後、カール1世は退位し、600年以上にも渡るハプスブルク家
    支配は終わった。 社会民主党の指導で臨時国会 が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれ、共和国の現在の
    国境が確定した。 この条約はまた、ハンガリ-、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストラリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて、国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

    オーストリア国内の不安はなおも続き、共和国の経済は、少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人は、元のハプスブルク帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合を支持する声が、
    1930年代初期まで高まった。 世界的な経済不況と、ウィーンのある大銀行の
    倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は、ますます苦しく
    なった。 このために、統合運動は、ますます力を得た。

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    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府には、ドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を
    受けていた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者であるクルト・フォン・
    シュシニックは、何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーは、それでも
    満足せず、1939年、ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によって、
    統一を成し遂げた。 オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者と
    ユダヤ系住民達を逮捕し、ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。
    1939年、ドイツのポーランド侵入によって、第二次世界大戦が始まった。

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    ロシアでの革命には、多くの要因があった。 1905年には、民衆の間で不満が吹き出し、
    ストライキ、暴動、反乱が起こった。 食糧不足、皇帝ニコライ二世の指導力の弱さ、
    第一次世界大戦でのロシア軍の惨憺たる戦いぶりなどが更に不安を強め、戦争を
    終結させられなかったことなどが、兵士や農民の怒りを招いた。

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    【怪僧ラスプーチン】

    ニコライ二世と皇后アレクサンドラに多大な影響力を持っていたのが、怪僧グリゴリー・
    ラスプーチン。 彼がそれほど信頼されたのは、皇太子アレクセイの血友病を治療した
    ためだった。 第一次世界大戦中、皇帝が前線に出ている間は、ラスプーチンがロシアを
    支配した。 1916年、評判の悪かったラスプーチンは、皇帝の親族によって殺された。

    1905年1月9日、若い僧であるガポンは、皇帝に請願するため、労働者と共に冬の宮殿に
    向かって行進していた。 そこへ兵士が発泡し、女性や子供をも含むデモ参加者が
    何百人も殺された。 この虐殺が、皇帝に対する国民の忠誠心を揺るがすこととなった。

    1914年、ロシアは、フランスやイギリスと共に、第一次世界大戦に参戦した。 ロシア軍は、
    最初のうちは、オーストリアとドイツに対して、勝利を収めたが、補強が十分ではなく、
    やがて負け戦となって、多くの損害や脱走兵を出した。 そのあたりから、国民の熱狂は、
    幻滅と厭戦気分に変わったのである。 

    そして、1917年2月、ペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)で暴動が起こった(2月革命)。
    これを切っ掛けに、ニコライ二世は退位し、臨時政府が後を引き継いだ。 1917年10月
    には、ウラジミール・レーニンが指導するボリシェビキ(共産)党が権力を握った(10月革命)。
    レーニンは、臨時政府を解体し、ウクライナを含む広大な領土を譲って、ドイツと講和を
    結んだ。

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    1917年の革命は、ペトログラードがほぼ無血のクーデターだったのに対し、モスクワでは
    暴力的なものとなった。 戦闘的な労働者は、臨時政府に忠誠を尽くす強力な士官学校と
    激しく戦った。 ボリシェビキが、このロシア第二の首都で勝利を収めたのは、クレムリン
    周辺での激戦が10日間続いた後のことだった。

    1917年3月、巡洋艦オーロラ号の水兵達が反乱を起こし、ボリシェビキに加わった。
    10月25日、ペトログラードの中心部のネヴァ川に怒りを降ろしたオーロラ号が1発の
    空砲を発射した。 これが、殆ど無防備の冬の宮殿で会議を開いていた臨時政府の
    メンバーを襲撃する合図だった。

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    【ウラジミール・レーニン】

    ウラジミール・レーニンは、学生時代からの革命家で、1897年にシベリアに流刑になった。
    『労働者は既成権力に対して立ち上がり、公正な社会を作らなければならない』と信じる
    レーニンは、1900年に外国で逃亡者のロシア社会民主労働党の支配権を獲得した。
    党は、ボリシェビキ(多数派)のレーニンのグループと、それに対立するメンシェビキ
    (少数派)に分裂した。 ボリシェビキは、革命を指導した。

    【レオン・トロツキー】
    レオン・トロツキーは、精力的な革命家で、1905年の革命で投獄されて流刑となったが、
    国外に逃亡して、1917年にボリシェビキに参加した。 トロツキーは、レーニンと共に、
    10月革命の中心的な役割を担った。 外務人民委員や国防人事委員を努め、内戦の
    時は、赤軍を組織して、これを指揮した。

    ボリシェビキ革命後は、帝政ロシアの数々のシンボルが破壊された。 1918年には、
    ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の巨大な像が倒された。 破壊を命じた
    レーニンは、彼の兄がアレクサンドル暗殺を計画して処刑されたことを決して忘れては
    いなかった。

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    『ロシア』という国名が最初に文献に登場するのは15世紀末、広く用いられるように
    なったのは16世紀になってからのことである。 ロシアには、これまでに、2つの王朝が
    存在しており、リューリック王朝(860年頃~1598年)と動乱の時代に続く、ロマノフ王朝
    (1613年~1917年)が存在していた。

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    11世紀までは、『ルーシ』の中心地域は、現在のウクライナの首都であるキエフ周辺
    だったため、ロシア正教会の中心地もキエフであったのだが、その周辺の現代
    ウクライナとなっている南西ルーシ地域は、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国と
    ポーランド王国によって征服されて以来、18世紀のエカテリーナ2世によるウクライナ
    併合に至るまで、ウラジーミル、モスクワを始めとした北東ルーシからは切り離されて
    いた。 よって、ロシアとウクライナは、同じ東方正教国家と言えども、それぞれ異なる
    道を歩んで来た。

    1237年にキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが率いるモンゴル軍(黄金軍団)に
    滅ぼされ、その後、ロシアは、150年近くにも渡り、モンゴル・タタール軍の支配下となる。
    1380年、モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイ率いるルーシ諸公連合軍は、クリコヴォの
    戦いで、キプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破ったが、一般的に、この1380年を以て、
    ルーシは『タタールのくびき』から解放されたとされることが多い。

    その後、モスクワ公国が名実共に『ルーシの第一人者』となって行くこととなるのだが、
    この頃の『ルーシ』の統合はまだ緩やかなものであった。 1467年、ヴァシーリー2世の
    長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアを
    妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。 その後、イヴァン3世により、
    豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド(1478年)と貿易の活発であったプスコフが
    征服された。 その後、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)
    等も次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公は、
    ルーシ諸公、貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。

    【イワン雷帝と息子のイワン】 

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    イヴァン3世は初めて『ツァーリ』(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章が
    モスクワ大公の紋章に加えられた。 次のツァーリである、イヴァン4世は、紙と印刷機の
    導入、常備軍の創設等の近代化を進め、対外戦争(リヴォニア戦争など)を実行すると
    共に、ロシア正教会への国家の統制を強めた。 イヴァン4世の統治の時代は、彼の
    あだ名にもなっている『雷帝』にも象徴されるように、恐怖政治が吹き荒れた時代であった。
    リューリック王朝最後の支配者である、ボリス・ゴドノフは、人望がなく、正当な王位
    継承権を持つドミトリー王子を殺した疑いを持たれ、1605年に突然死すると、その後、
    後継者を決める長い争いが始まり、1613年まで動乱の時代が続いた。

    【ロマノフ王朝成立時のロシアの領土】
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    1613年、ミハイル・ロマノフが王に選ばれ、彼の一族がその後300年に渡って支配を
    続けた。 異母姉であるソフィアから王位を強奪したピョートル大帝は、1689年から
    1725年までを支配し、歴代皇帝の中でも最も精力的に動いた。 新しい首都を建設し、
    海軍を創設し、教育と政府の改革を始めた。 ドイツの王女として生まれたエカテリーナ
    2世は、1762年に女帝となり、30年以上にも渡って国を支配した。 エカテリーナ大帝とも
    呼ばれて、強力な4人の女王の最後のひとりでもあった。 1913年、ニコライ2世は、
    ロマノフ王朝の300周年を祝ったが、その4年後、戦争と市民の蜂起によって破局を迎え、
    1917年、血友病の息子の身を案じて退位したが、1918年に家族と共に、ボリシェビキに
    よって、殺された。 ここにロマノフ王朝は幕を閉じた。

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