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    タグ:独裁政権

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    ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の南西の端、大西洋に面し、大陸を背にしている。
    海洋国家として、漁業に、航海と探検に、幾世紀にも渡る盛衰の歴史を経て来た。
    海岸線が長いため、侵略されやすく、そしてまた、人の往来も盛んで通商も栄えた
    のである。

    ローマ帝国による支配時代は、ルシタニアと呼ばれ、紀元前1世紀から紀元後
    5世紀まで続いた。 その後、ポルトガルの領土は、ゲルマンとアラブの標的に
    され、征服されてしまったが、12世紀になると、ポルトガル北部が独立した王国に
    なった。 そして1世紀後、南部もその王国に加わったのである。

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    国内を平和に治めると、王や諸侯たちは、冒険と貿易を求めて海洋に出て行った。
    1400年代から1500年代に掛けて、ポルトガル人は、アフリカ、インド、アジアと
    遠く航海の旅に出て、香料や絹、高価な石を持ち帰っては、ヨーロッパ市場で売り、
    大儲けをしたのである。 貿易が盛んになると、植民地も出き、ポルトガルは、
    南米大陸のブラジルからアジアの中国に至るまで、広大な帝国の一大中心となった。

    活動を世界に広げて行ったが、国としては、その後数世紀の間、たいした変化も
    なく、国内経済はもっぱら農業に頼っていた。 北部ではブドウを栽培し、小規模
    ながら、家畜を飼った。 南部には大地主たちが居て、広い土地に穀物やオリーブ、
    コルクを作った。 国家収入の大半は、植民地から吸い上げたもので、植民地との
    輸出入貿易がなければ、当時のポルトガルは、なんとも貧しい国だったのである。

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    19世紀初頭、ポルトガルの植民地の中で、最も豊かだったブラジルが独立を宣言、
    ポルトガルはアフリカやアジアの植民地に一層頼るようになり、原材料をもらうと
    同時に、作った品物を売りさばいた。 20世紀初めになると、情勢が更に変化し、
    国内の民情不安と政治的混乱から王政は崩壊し、国王による統治に変わって、
    1926年までには独裁政権が誕生した。

    それから50年近くは、アントニオ・デ・オリベイラ・サルザールによる統治時代で、
    検閲が厳しく、政治に反対することは認められなかった。 サルザール政権は、
    農業、工業共開発努力を怠ったため、経済は衰退するばかりだった。 1960年代
    から70年代に掛けては、植民地各地が独立に立ち上がった。 そして、70年代
    半ばになると、ポルトガルの軍部までもが変化を求め、1974年、ついに無血
    クーデターを起こしたのである。

    クーデターから10年、ポルトガルは様々な政治、経済戦略で懸案を解決して行こうと
    した。 例えば、アフリカ、アジアの植民地を切り捨てて、目をヨーロッパに向けて
    投資と指導を求めて行った。 1986年、欧州共同体(EC)に加盟、西ヨーロッパ
    経済体制に仲間入りした。 ECはグループ全体の利益になるような貿易政策を
    取っているからだ。

    ECは、ポルトガルに多額の資本を投入、それによって、EC内で最も貧しい国である
    ポルトガルの農業と工業は近代化されて行くものと期待された。 しかし、
    ポルトガル人の中には、過去のノスタルジアにひたり、ポルトガルのような小国が
    果たして、他のECの豊かな大国と競争して生き残れるのだろうかと疑問に思って
    いる人たちも居る。 こうした考え方の違いもあって、ポルトガルの将来はまだ
    不安が残っている。

    【お勧めの一冊】


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    第一次世界大戦で敗れたドイツは、膨大な賠償金を課せられ、経済的に極めて
    厳しい状況に陥った。 政府は、国家を再建し、秩序を回復することがなかなか
    出来なかった。  ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせて
    くれる指導者を待望する動きが現れた。

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    アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)という小さな政党の
    党首であった。 彼は、ドイツの苦境を連合国やヨーロッパのユダヤ人等のせいに
    して非難することで、国民の人気を集めた。 1933年、ヒトラーは、その人気を
    利用して、ドイツの首相となった。 そして、間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。

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    戦争初期、ドイツ軍は、次々と勝ち進んだが、1940年には、ヒトラーは、中央
    ヨーロッパと東ヨーロッパのほとんどを手中に収めた。 1941年、ヒトラーは、
    広大なソビエト連邦に侵攻した。 ソビエト連邦は、現在のロシアを中心とする
    社会主義国家であった。 ドイツ軍は、モスクワの近くまで迫ったが、軍隊を
    広く展開させた結果、兵力が手薄になった。 ソ連軍が反撃を開始し、ドイツ軍を
    押し戻した。

    ドイツ軍は、他の戦線でもイギリス軍に敗北を続けていた。 アメリカ軍が
    連合国側として参戦し、戦況は、一変した。 1944年には、ドイツ軍は、3方向
    からの攻撃を浴びるようになった。 1945年4月には、ソ連軍がベルリンに進軍
    すると、ヒトラーは自殺した。

    Nazi01

    ドイツに進軍して来た連合軍は、後に『ホロコースト』と呼ばれるようになった
    出来事の証拠を発見した。 ナチスが、『死の収容所』を建設し、ヨーロッパの
    ユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた
    事実が明らかになった。

    収容所には、数十人の人々を瞬時に毒ガスで殺害出来る部屋が設けられていた。
    これらの収容所殺害された人々は、900万人にものぼると言われている。

    【お勧めの一冊】


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