多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

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    タグ:独立

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    アン女王が1714年に死去し、アンの親戚のドイツのハノバー家(新教徒)が
    イギリスの王位を継いだ。 ハノバー朝の治世にイギリスは新大陸の探検、
    戦争の勝利、有利な平和条約により、貿易力、軍事力を伸ばし、北アメリカや
    カリブ諸国の大半を支配下に収めた。 イギリス商人の活躍でアジア、
    南アメリカ、インド、アフリカでの商品や奴隷の市場が広がった。

    ハノーバー朝の王は、議会の合議に国政を行う権限を与えたので、王権は弱まり、
    議会の力が強くなった。 大臣を率いるリーダーの役割と義務が増えて、
    総理大臣という地位が生み出され、議会に対し数人の大臣が責任を負う内閣制が
    確立した。 内閣は商業を重視して貿易を推進したので、植民地支配力が強まった。

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    18世紀後半、北アメリカのイギリス植民地のうち、13植民地が分離を求めて
    独立し、アメリカ合衆国を建国した。 イギリスは、植民地は減ったものの、
    その後は綿花を合衆国から大量に買い付けた。 やがて新しい紡績、紡織機械が
    発明され織物業が発達した。 綿花貿易も栄えて撚糸の改良や製品化の努力も
    なされた。 この産業が起こったのは、イングランド中央と北西部だった。
    このようにして生まれた工業都市へ多くの人々が流入して、イングランドの
    人口は増えた。 特に、バーミンガム、リーズ、マンチェスター、リバプール
    では激増した。

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    これらの都市は、水路や港に近く、炭鉱もあり、蒸気を使う新しい工場に
    最適だった。 また、鉄鉱山があったことも機械や設備の建造に必要な鉄鋼の
    供給に便利だった。

    工業製品の生産量が増えるにつれて、輸送面が改善された。 大量の労働者が
    動員されて道路が修理され、河川と港を繋ぐ運河が建設された。 やがて
    鉄道網がイングランド中に張り巡らされた。 この一連の経済活動を産業革命
    と言う。 産業革命の波は、イギリス中に広がりつつあった。

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    第三回分割後、ポーランドの軍人や政治家が多数フランスに移住した。
    フランスは、当時革命の最中であり、ポーランドの軍人たちは、フランスで
    戦闘部隊を結成して、祖国を解放しようと考えた。 これらの部隊は、
    フランス軍と協力して、オーストリアやプロイセンと戦った。

    1807年、プロイセンに勝ったフランス皇帝ナポレオンは、プロイセンに併合
    されていた元のポーランドの一部に、ワルシャワ大公国を創設した。 1812年、
    オーストリアに併合されていた領土の一部も、大公国領域に加えられた。

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    1815年、ナポレオンが没落すると、ワルシャワ大公国は解体された。
    その領土は、プロイセンとオーストリアに返還され、代わりに、ロシアの
    支配下に小さなポーランド王国が創設された。 ロシア皇帝がポーランド王を
    兼ね、王国は新憲法を制定して、産業と教育を振興させた。 しかし、
    ポーランド国民は、完全な独立を望んだ。

    1830年、反乱が起こると、ロシア皇帝は、ポーランド東部をロシア帝国に
    併合した。 ポーランドの憲法と国会は廃止され、経済はロシアに支配された。
    1860年代までに、ポーランド地域での行政と教育に使われる言語は、
    ポーランド語ではなく、ロシア語にされてしまった。 

    ポーランド西部での外国支配は、それ以上に厳しかった。 ドイツ人は、
    ポーランド西部に近代的な鉄道網の建設はしたものの、1870年代になると、
    プロイセンの首相になったビスマルクは、領内に存在するポーランド文化を
    抹殺しようとした。 カトリック系の学校は、閉鎖され、教会の活動は、
    制限された。 ポモルゼやシロンスクに住むポーランド人たちは、ドイツ語の
    使用を強制された。

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    ポーランド人たちは、自分たちの民族性を維持しようと懸命に努めた。
    ロシアの統治に対する激しい反乱は、多くのヨーロッパの指導者たちの間で
    同情を掻き立て、また、ポーランド人たちの愛国心を燃え立たせた。
    ポーランド人の作家、画家、音楽家たちは、消滅した祖国の栄光を讃え、
    ポーランドの民族的伝統を保存して、祖国の文化を活性化させた。

    20世紀初頭、ヨーロッパ諸国は、2つの強力な同盟を結んで、大陸の力の均衡を
    図った。 イギリスは、フランスやロシアと同盟して、ドイツ、オーストリア、
    トルコと対抗した。 ポーランド人の多くは、さまざまな新しい政党に入って、
    それぞれの支持の下に独立を達成しようとした。 政治家ロマン・ドゥモフスキの
    率いる民族民主党は、ロシアと連帯関係を結んだ。 ポーランド社会党と
    その指導者ヨゼフ・ピウスツキは、オーストリアと協力関係を結んだ。

    1914年夏、第一次世界大戦が勃発した。 ポーランドは、オーストリア、ドイツ、
    ロシア各国の軍隊の戦場となった。 敗北を重ねたロシアは、1918年3月、
    ドイツと講和条約を結んだ。 しかし、同じ年の9月、ドイツとオーストリアは
    降伏し、第一次世界大戦は終わった。

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    長い統治と宗教的な争いに疲れたカール5世は、1555年に退位し、ハプスブルグ
    王家は、2つに分裂した。 カールの弟は、ヨーロッパ中央部の領土を継承して、
    オーストリア系ハプスブルグ家を始め、カールの息子のフェリペ2世は、
    スペイン王とネーデルランドの統治者を兼任して、スペイン系ハプスブルグ家の
    始祖となった。 スペインで育ったフェリペは、ネーデルランドの文化に殆ど
    理解を持たなかった。 彼は、ネーデルランドにスペイン軍を駐屯させ、都督等の
    地位にスペイン人を起用した。 フェリペはまた、フランスとの戦争の費用を
    支払うため、ネーデルランドに重い税金を課した。

    更に、フェリペは、カトリック教会の力を強めるために、カトリックの司教達に
    諸州の土地を分け与えた。 そして、フラマン地域圏のカルヴァン主義者達を
    抑圧するために、異端糾問所(教会の高位聖職者達による裁判)を組織した。
    その施策のために、沢山の人々が信仰上の理由で投獄されたり、処刑されたりした。
    このため、ネーデルランド北部の多くのカルヴァン主義者達が国外に逃れた。

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    ネーデルランドの貴族達は、宗教的な意見の違いを超えて集結し、フェリペ2世に
    対して、異端糾問所の廃止、宗教的自由の承認、議会の招集を要求した。
    フェリペの顧問のひとりは請願する貴族達を『乞食ども』と呼んだ。 革命的な
    運動の成長につれて、支持者達は、挑戦的に自ら『乞食党』と名乗るようになった。

    繊維産業の衰退と食料品の価格の高騰に憤慨した一般市民達もカトリック教会の
    財産を強奪や破壊したりして反乱を支持した。 そのため、宗教的な紛争が再燃し、
    スペインの統治に対する姿勢に分裂が生じた。 カルヴァン支持者達は、オラニエ公
    ウィレムの周辺に集まり、カトリック教徒達は、スペインの統治を支持した。

    1567年、フェリペ2世は、アルヴァ公を指揮官とする1万人の軍隊を
    ネーデルランドに派遣した。 アルヴァ公は、査問委員会を組織し、8,000人の
    市民を処刑した。 この強圧的な手段によって、アルヴァ公は、ネーデルランドの
    支配権を再び確立した。 ウィレムは、『海の乞食党』を組織し、1572年
    スペインの軍艦を攻撃して、ブルッヘ等のネーデルランド南部のいくつかの都市を
    占領した。 ネーデルランド北部の指導者達は、これに勢いづいて、スペイン
    からの独立を宣言した。

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    1931年、カナダは、独立国家となった。 イギリス女王エリザベス2世が国家
    元首だが、あくまでも、礼儀的な職務のみを行う。 1960年代にフランス系の
    ケベック州の独立運動による国民投票が行われ、1980年と1995年の2度とも、
    ケベックの独立は否決された。

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    ファースト・ネーションズのグループもまた、より広範な平等と土地の権利を
    求めて運動して来た。 1980年代以降、ファーストネーションズは、自治を認め
    られることが多くなって来た。 1999年には、昔からイヌイットが住んで来た
    地域に、新たにヌナブット準州が設立された。

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    カナダは、国際社会でも大事や役割を演じている。 カナダは、1914年~1918年の
    第一次世界大戦、1939年~1945年の第二次世界大戦では、アメリカ、イギリスと
    ともに戦った。国際連合(UN)、北大西洋機構(NATO)の主要メンバーでも
    ある。 また、1950~1953年の朝鮮戦争では、国際連合軍に参加し、世界中の
    平和維持活動にも参加している。

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    カナダでは、1967年にモントリオールで万国博覧会『エキスポ67』を、そして、
    1976年には、やはりモントリオールでオリンピックを開催した。 これらの
    イベントには、世界中から沢山の人が訪れ、カナダは、賞賛を浴びた。 そして、
    21世紀に入った今、カナダは、世界の舞台でしっかりと名声を確立している。
    隣国アメリカの強い影響を受けながらも、カナダは、独自で六色のある文化、
    経済、政治を発展させている。

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    スペイン北東部のカタルーニャ州議会選挙は、2015年9月27日に投開票され、
    スペインからの
    分離独立を主張する政党が、135議席の過半数を占めた。 97%の
    票を集計した暫定結果によると、独立賛成派の選挙連合『Junts pel Si(共にイエス)』が
    62議席を、別の独立賛成派の左派CUPが10議席をそれぞれ獲得する見通し。
    同選挙連合と CUPの得票率は合わせて47.8%となり、分離独立運動にとって
    追い風となる。

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    カタルーニャ州政府のアルトゥール・マス首相は、バルセロナ中心部で演説し『独立を
    支持する
    我々と民主主義の勝利だ』と、独立派の勝利を宣言した。 フランスとの国境
    地帯にあるカタルーニャ州は、歴史的にフランスとの結びつきが強く
    、カタルーニャ語が
    使われており、スペインからの独立志向が強い。

    マス首相は、州議会で
    独立派が過半数を占めて1年半以内に独立を宣言すると公約
    していたが、スペイン政府は
    独立を認めない構えで、今後は激しい駆け引きが繰り
    広げられるとみられる。

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