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    タグ:独立戦争

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    キリストとイスラムの戦闘が続き、数百年に渡って、両勢力の境界線は常に
    流動的だった。 11世紀半ばの記録によると、ポルトガルはミーニョ川と
    テージョ川の間に位置したキリスト教勢力下の地だった。

    1096年、当時イベリア半島の皇帝を称していたレオン・カスティーヤ王、
    アルフォンソ6世がポルトガルを準独立国にし、自分のムコにあたるフランス人、
    ブルガンティー王国のエンリケにその領土を与えてしまった。 エンリケは、
    その地にローマ・カトリック教会の権限を強化、フランスの修道士を呼び寄せて
    ブルガ、コインブラの宗教区の運営を任せた。

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    エンリケが死ぬと、ポルトガルは、その未亡人であるアルフォンソ6世の娘で
    あるテレサの手に任されたが、テレサは父親の友人たちにかなりの権限を与る
    ようなことをしたため、ポルトガル貴族たちの反感をかった。

    そしてついに、テレサの息子、アルフォンソの軍隊を破った。 アルフォンソ・
    エンリケスは、こうしてポルトガルを支配下に置いたが、レオン・カスティーヤ
    新王国でいとこに当たるアルフォンソ7世のなお支配下にあった。

    王子のアルフォンソ・エンリケスは、独立を求めてアルフォンソ7世を相手に
    およそ10年間も戦った。 ところが、ムーア人から領土を取り上げる好機を
    到来と見るや、その戦いをあっさりとあきらめてしまった。 1130年代末の
    ことである。 その頃、ムーア人も内部抗争で領土が分割、ポルトガル南部への
    統治力は弱まっていた。

    アルフォンソ・エンリケスは1140年代、サンタレンとリスボンを攻撃、敗北した
    イスラム側は、貢物として、現金と品物を供出させられた。 ムーア人は、
    領土境界線をテージョ川から最南端のアルガルベまで後退をせざるを得なく
    なった。

    戦いに勝ち、貢物を受けるに連れ、王子の権力はますます強くなり、1139年から
    ポルトガル国王アルフォンソ1世を名乗るようになった。 1143年、アルフォンソ
    1世の即位を正式に認めた。 ポルトガルのアルフォンソ王朝誕生である。

    12世紀半ばまでに、ポルトガルは、コインブラを首都に独立国となった。 しかし、
    ムーア人の脅威は去らず、1185年までのアルフォンソ時代を通してイスラムとの
    戦いは続いた。 その後、息子のサンチョ1世が後を継ぐと、ムーア人と戦い、
    貿易と農業が盛んになって行った。

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    18世紀になると、イギリスは、カナダに加えて、建材のアメリカにも13州の
    植民地を所有するようになっていた。 アメリカで独立戦争(1775年~1783年)が
    起こり、植民地側が勝利すると、イギリスを支持する多くの英国派(ロイヤリスト)
    達は、独立した新国家に住む事を嫌い、カナダに移り住んだ。 1791年、
    イギリスは、拡大する植民地をアッパー・カナダ、ローワー・カナダとに分割した。

    入植者や探検家が西へ進むにつれて、カナダは、更に拡大し、1812年に
    レッドリバー植民地(現在のマニトバ州)、そして、1848年にブリティッシュ・
    コロンビアを獲得した。 1812年に10万人にも満たなかった人口が、1860年代は、
    300万人に達し、その後もイギリス等からの移民がどんどん入って来て、人口は、
    急激に増加した。

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    1812年、アメリカとイギリスの間で1812年戦争が勃発した。 アメリカ軍が
    カナダに攻め入ったが、イギリス軍は、小部隊ながら、毛皮商やファースト・
    ネーションズ、それに、アメリカに対する忠誠心を既に失っていたロイヤリスト達に
    助けられて、アメリカ軍の攻撃を食い止めた。 この経験により、彼等には、
    侵略者に対抗 する仲間としての意識が芽生えた。 しかし、フランス系の人達は、
    不満だった。 ファースト・ネーションズの指導者達も自分達の土地が入植者に
    取られるのは、面白くなかった。

    1837年、フランス系カナダ人のルイ・パピーノは、ローワー・カナダのイギリス
    政府に対して、反乱を起こしたが、失敗に終わった。

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    1867年、アッパー・カナダとローワー・カナダは、それぞれ、オンタリオと
    ケベックとなり、この2つとノバ・スコシア、ニューブラウンズウィッグとが
    連合して、政府、議会、首相を持つ英自治領のカナダが出来た。 レッドリバー
    植民地のメディス達は、その一部となる事に反対した。 オンタリオの入植者に
    土地を奪われるのではないかと恐れたのだ。

    1869年、ルイ・リエルは、反乱軍を率いて、植民地の指揮権を握った。 彼は、
    レッドリバー植民地が1870年にカナダの一部となる時に、必ず公平な条件になる
    ように交渉した。 その結果、レッドリバー植民地は、新設されたマニトバ州の
    一部となり、ケベックと同じく、マニトバでも英語とフランス語
    (メティスの言葉)が同等に扱われる事となった。

    リエルは、1875年にアメリカへ亡命をせざるを得なくなった。 1885年に彼は、
    今のサスカチェワン州に戻り、そこで、ファースト・ネーションズを率いて、
    同じような反乱を起こしたが、その時は、リエルは捕らえられ、反逆者として
    レジャイナで処刑された。 しかし、ケベックでは、リエルは、英雄と
    見なされた。

    【お勧めの一冊】


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