最初のうち『反抗同盟』は、オランダ政府内の改革を求めていた。 しかし、
1830年頃には、ベルギー領内の完全な独立を求める運動が力を持ち始めた。
この年、経済的な理由から、都市労働者は、職場の改革を求めてデモを行った。

ウィレムは、軍隊をブリュッセルに派遣して、騒乱を鎮圧しようとした。
激しい戦争が3日続いた後、オランダ軍は撤退し、2週間としないうちに、
臨時政府がベルギーの独立を宣言した。

当時ヨーロッパの大国であったイギリスは、再び戦乱を起きるのを防ぐため、
ベルギーの行動を支持した。 イギリスは、各国に呼び掛けて、ロンドン会議を
開き、この会議でヨーロッパ列強は、ベルギーの独立を承認した。 1831年6月、
ベルギーの臨時国会は、国王としてドイツのザクセン・コーブルク家の公子を
選んで、レオポルド1世と名乗らせた。これは、イギリスにもフランスにも
受け入れられる人物だった。

belgianrevolution

レオポルド1世は、立憲君主としての地位に留まり、極めて限られた権力で
満足した。 そして、その制約の中で、レオポルド1世は、懸命に国を治め、
自分の影響力を使って、ベルギーの経済的利益を促進するのに努めた。 その結果、
ベルギーは、自立した国家として繁栄した。

ベルギーの貿易が拡大するにつれて、都市は成長した。 そして、
アントウェルペンは、再び一流の港湾都市となった。 ワロン地域圏の鉄鋼と
石炭の採掘が盛んに行われるようになり、重工業の発展を促した。 その中には、
鉄道施設の建設や、鉄道用車両の製造等が含まれていた。 19世紀中頃までに、
ベルギーの主要な輸出品は、農産物から工業製品に変わった。 これらの変革に
よって、ベルギーは、ヨーロッパ大陸で重工業化された最初の国家になった。

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【レオポルド2世】
1865年、レオポルド1世の息子のレオポルド2世はがベルギーの国王となった。
この王の時代に、ベルギーには強力な輸送網と金融機構が発達して、各種の
産業が起こり、莫大な富を産んだ。 その一方で、レオポルド2世は、イギリスの
探検家ヘンリー・スタンレーを派遣して、コンゴ川(現在のザイール川)流域の
アフリカの首長たちとの間に有利な協定を締結させた。 この協定によって、
コンゴ自由国が樹立された。

23年間に渡り、レオポルドは、コンゴ自由国を個人的に支配し、現地労働者を
搾取して産出されるゴムと銅から莫大な富を得た。 しかし、20世紀初頭、この
事実かが世界的に暴かれ、問題となった。 国際的な委員会が作られて、コンゴ
でのレオポルドの個人的な権限を停止するよう、ベルギー議会に圧力を掛けた。
その結果、ベルギー政府は、1908年にコンゴを併合し、この地域での鉱山採掘権を
政府の管理の元に置いた。 以後、コンゴは、レオポルド個人の手から離れ、
ベルギー国家の植民地となった。

ベルギーの経済的な成功にも関わらず、言語を巡る摩擦は続いた。 フランス語は、
政府部内でも企業でも教育の面でも広く使われた。 フラマン地域圏の人々は、
自分達の言語に平等な地位を与えられていないのに不満だった。 1898年、民衆の
抗議の結果、ベルギーは、公式にバイリンガル国家、つまり、2つの言語を併用
する国家となった。 しかし、政府の指導者達は、その後も長い間、フランス語を
使用し続けた。

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