横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
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    タグ:独立国家共同体

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    ウクライナという国名は『辺境地帯』を意味する。 この名前は、13世紀に
    モンゴル人の侵攻を受けた後の時代に使われるようになった。 しかし、この地域は
    元々、辺境どころか、東スラブ地域で初の国家が形成される舞台となった重要な
    地域であった。

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    今日のウクライナの首都キエフで、9世紀にキエフ公国が成立した。 この国家は、
    後のロシア帝国の起源とみなすことが出来る。 これが、『キエフはロシアの全ての
    ロシアの都市の母』と言われる由縁である。

    1240年、この国は、モンゴル人によって破壊された。 その後、政治的な
    中心地は、北東のウラジミール、スズダリ、そして、最後にモスクワへと移って
    行った。モンゴル人やタタール人の騎馬兵に襲撃され続け、ますます住民の
    減っていたウクライナは、これらの地域から見ると、正に辺境と化したのである。

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    【民族的アイデンティティーを求めての戦い】
    その後の数世紀間、ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配を受けることと
    なった。 その間、脱走した農奴たちがコサックと呼ばれる集団を形成し、
    ポーランドの支配に抵抗し始めた。 コサックの首長であったフメリニツキは、
    1654年にウクライナをモスクワのロシア皇帝の保護下に据えた。

    しかし、ロシア皇帝は当初、ウクライナ全体のうち、ドニエプル川以西の地域しか
    その支配を主張することが出来なかった。 ロシア帝国が事実上ウクライナ全域
    (オーストリアの支配を受けたガリツィア地方を除く)を支配するようになるのは、
    18世紀になってからのことである。

    この時代、ウクライナ独自の文章語が次第に形成されて行った。 しかし、ロシア
    政府はこれをロシア語の一方言(小ロシア語)として位置付け、公の場での使用を
    禁じた。 19世紀になると、ウクライナの民族意識が高揚し、民族運動が展開される
    ようになった。 この時点では、自分たちの文化的独自性の保存を求めるに留まって
    いた。 しかし、20世紀になると、国家としての独立を求める声が高まって行った。

    1917年のロシア革命の直後、民族運動の高まりによって、1918年初頭に
    ウクライナは独立を宣言した。 ロシア・ソビエト共和国は、ブレスト・
    リトフスクの和約を結んでこれを認めなければならなかった。 しかし、その後の
    内乱で、ボリシェビキが勝利を収め、1919年『ウクライナ・ソビエト社会主義
    共和国』が設立された。

    共和国は、1922年ソ連に加盟した。 ソ連の指導者は、初めの数年は、彼らの
    民族的利権、とりわけ、文化面における独自性を考慮した政策をとっていた。
    しかし、スターリンが政権を握るようになって以来、1920年代を中心に民族
    主義的な主張を行う者に対して、激しい迫害がなされた。 農業などの集団化を
    強制的に進める中で、あるいは、意図的に引き起こされたとも考えられる飢餓に
    よって、ウクライナ人の間に100万人規模の犠牲が出た。

    【独立国家共同体創設の主唱国】
    改革路線の時代が到来すると、1980年代後半を中心に、ウクライナの民族運動にも
    新たな展開が繰り広げられた。 1990年夏、ウクライナは、主権を宣言し、1991年
    8月には独立宣言は発せられた。 当初、ウクライナは、連邦制の維持を目的とした
    新連邦条約に関する協議に参加していたが、その後、態度を変え、新たな中央集権
    構造の設立に強く抵抗し、完全独立を主張するようになった。 独立国家共同体の
    創設に主唱国の1つとして参与した際にも、彼らは、独自の軍隊を編成し、黒海に
    おける旧ソビエト連合艦隊の指揮権を保持することを求めた。 これによって、
    ロシアとの間に対立が生じている。 ウクライナは、旧ソ連の国連における3つの
    議席の1つを占めていた。

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    キルギスの人口は440万人で、そのうち、キルギス人がそのおよそ半分を
    占めている。 キルギス人は、ウズベク人(人口のおよそ12%)やタタール人と
    同様、トルコ系民族で、イスラム教スンニ派を信仰している。

    それに対して、ロシア人(約25%)やウクライナ人(2.5%)はスラブ系民族
    である。 彼らは、異なる文化を持ち、キルギスの中ではますます異質な
    存在となり、両者の間の対立が今日、強まりつつある。

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    現在のキルギス人の祖先は、トルコ系民族とモンゴル系民族であった。
    キルギス人が一民族としての意識を持つようになったのは、早くとも、18世紀
    以降のことと考えられている。 キルギス人が遊牧してた地域は、19世紀以来、
    コーカンド・ハン国の支配下に置かれていた。 1830年頃には、ロシア人の
    入植が始まり、1876年には、コーカンド・ハン国がロシアに併合され、
    キルギス人は、完全にロシア皇帝政権の支配を受けることになった。

    もっとも、それ以前にも、既に、自身の意思によってロシア皇帝に従っていた
    キルギス人も居た。 それにより、更に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、
    キルギス人の牧草地は、彼らのものとなった。 その結果、キルギス人は、
    牧畜のかたわら、耕作も余儀なくされた。

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    【反ロシア抵抗運動から独立へ】
    1916年に起こった反ロシア抵抗運動は、全トルキスタンに広がり、キルギスも
    それに加わった。 1917年の革命後、キルギスは、『トルキスタン自治ソビエト
    社会主義共和国』の一部となり、この共和国は、長い抗争の末、最終的には、
    ボリシェビキが治めることとなった。

    トルキスタンの行政区分は、何度も変えられた。 1926年『キルギス自治共和国』が
    ロシア共和国内に設立され、1936年には、『キルギス・ソビエト社会主義共和国』
    として連邦構成国となった。 その後、住民たちの激しい抵抗にも関わらず、
    農業の集団化が強行された。

    キルギス語は、この時代まで、文字を持っていなかったが、初めにラテン文字、
    そして、1940年からは、キリル文字が取り入れられた。 ロシア以外の全ての
    共和国にとって、ロシアの党幹部は、独裁者以外の何者でもなった。 1980年代
    後半、ようやく民族運動が実を結び始め、1990年12月15日、キルギスタンとして
    主権を宣言、翌年8月31日には独立を果たした。 そして、同年12月21日には、
    独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    タジキスタンの人口は、およそ520万人であるが、国名の由来であるタジク人の
    占める割合は59%に過ぎない。 隣国のトルクメン人、ウズベク人、キルギス人は
    トルコ系民族である。 しかし、宗教では、隣国民と同様、イスラム教スンニ派を
    信仰している。 タジキスタンの最大の少数民族はウズベク人で、彼らは、人口の
    23%を占めている。 その他にはロシア人10%、タタール人3%が住んでいる。

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    タジク人は、インド・ヨーロッパ語系の言語を使用し、恐らく、紀元前から既に
    中央アジアに定住していた。 時代の移り変わりと共に、彼らの住む地域は、様々な
    民族によって侵略された。

    17世紀以降、タジク人は、ウズベクのブハラ・ハン国によって支配され、その結果、
    タジク人のウズベク化が進んだ。 今日のタジク語に多くのウズベク語の外来語が
    あるのは、この時代の歴史に由来する。 19世紀には、ロシア帝国が中央アジアに
    侵攻した。 この際、現在のタジキスタンの北部は、ロシア帝国のトルキスタン
    総督領に併合された。 また、南部は、ブハラ・ハン国の支配下に留まった。
    このブハラ・ハン国は帝政ロシアの下で、自治的な地位を守った。

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    【自らの言葉と共に目覚めた民族意識】
    ソビエト政権が確立し、行政組織の様々な変革が行われた後、1924年に『タジク
    自治共和国』が『ウズベク共和国』内に設立された。 1929年には、『タジク・
    ソビエト社会主義共和国』として連邦構成国に昇格した。この時、タジキスタンは、
    その歴史において、初めて独立した国家となった。 しかし、もちろん共産党の
    独裁の下では、自決権を持っていなかった。 しかし、それにも関わらず、
    タジク人の間に国民意識は徐々に芽生えて行った。 それは彼らがタジク語の
    文章語を守り続けたことによっても促進された。 1930年代の粛清の時代には、
    タジク人の知識人たちは、『ナショナリスト』と非難され、迫害された。

    1980年代、旧ソ連全土で見られた諸民族の抵抗運動が、このタジキスタンでも
    起こった。 1990年8月24日、タジキスタンは主権宣言を採択、翌1991年9月9日に
    独立を宣言し、同年12月21日には独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    この国の複雑に入り混じる諸民族の間には、緊張が高まっている。 既に多くの
    ロシア人がこの国を去って行った。 ウズベキスタンとの間にも、国境問題や
    少数民族が存在する、歴史的にも民族的にも非常に近い関係であるイランとの
    繋がりも、今後見直されて行く事であろう。 イスラム原理主義の次第にこの地に
    根を下ろし始めている。

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    ウズベキスタンの人口は、約2070万人で、そのうちの71.4%がウズベク人である。
    彼らは、トルコ系民族(この民族は、以前は中央アジアで遊牧民として生活
    していた)に属し、イスラム教スンニ派を信仰している。

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    人口の8.2%を占めるロシア人が最大の少数民族で、以下、タジク人4.7%、
    カザフ人4.1%、タタール人、朝鮮人、キルギス人などが住んでいる。 約2%を
    占めるカラカルパク人の定住地域は、1932年に自治共和国になった。

    ウズベク人の名前は、14世紀に部族を統合支配したキプチャク・ハン国の君主、
    ウズベクの名に由来する。 17世紀には、ブハラ・ハン国(18世紀以降ブハラ
    首長国)、コーカンド・ハン国、ヒバ・ハン国が形成され、今日のウズベクの
    国の基礎が築かれた。

    これらの国は、今世紀初頭まで存在した。 1860年台、1870年代、ロシア人が
    勢力を拡大し、ウズベク人の統治地域は、彼らの支配を受けるようになった。
    コーカンド・ハン国は帝政ロシアに完全に併合されたが、ブハラ・ハン国と
    ヒバ・ハン国は、その保護領となり、ある程度の自治が認められた。 ロシア
    皇帝政権のロシア化政策の結果、早くも1898年には民族の反乱が起こり、
    その後発生した1916年の大蜂起は、トルキスタン全域を巻き込んだ。

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    【20世紀の歩み】
    1917年に権力の座に就いたボリシェビキ派は、長い戦いの後、中央アジアにおいて
    勝利を収めた。 支配体制の再編が繰り返され、1924年に『ウズベク・ソビエト
    社会主義共和国』が設立された。 同国に属していたタジク自治共和国が、1929年
    には『タジク・ソビエト社会主義共和国』として独立し、連邦構成共和国に昇格
    した。 ウズベキスタンのソビエト化は、暴力をも辞さずに遂行された。

    民族運動は弾圧されていたが、1980年代になって盛んになった。 ウズベキスタンは
    1990年8月31日には独立宣言を採択した。 同年12月21日は独立国家共同体
    (CIS)に加盟した。 隣接するキルギスやタジキスタンとは、国境問題や少数民族
    問題のことで対立している。 また、国内の民族抗争も大きな問題となっている。

    1989年には、スターリン時代にグルジアからウズベキスタンに移住して来た、
    メンシェビキ派の人々に対する敵対も起こっている。 このように国内での対立が
    表面化して来たため、ここ数年、10万人ものロシア人とウクライナ人がウズベクの
    地を去っている。

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    人口360万人のうち、トルクメン人の占める割合は72%で、トルコ系民族に属して
    いる。 彼らの宗教は、イスラム教のスンニ派で、定住生活を行うようになった
    のは、比較的最近のことである。 その他、国を構成する主要な民族は、ロシア人
    9.5%、ウズベク人9%で、更に、カザフ人、タタール人、ウクライナ人、
    アルメニア人、ベラルーシ人など、多くの小さな民族が住んでいる。

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    トルクメン人は、数百人の間、数多くの部族に分かれて生活し、戦争の時だけ結集
    した。 そのため、トルクメン人について実際に論じることが出来るのは、ようやく
    今世紀に入ってからのことである。 トルクメン人は、1869年から1885年の間に
    ロシア鄭この支配下に入った。 1916年に中央アジアで起きた、ロシアに対する
    大蜂起にはトルクメン人も加わたが、それは逆に、ロシア皇帝政権が中央アジアの
    人たちをロシア軍に徴兵する切っ掛けとなった。

    ソ連邦の設立後、一部のトルクメン人たちは、『トルキスタン・自治ソビエト
    社会主義共和国』に属することになり、他の人たちは、その後、すぐに滅びた
    ブハラ共和国とヒバ共和国に属すことになった。 1924年に『トルクメン・
    ソビエト社会主義共和国』が設立された。 その後は、他のソビエトの全ての
    共和国と同様の歩みをたどった。 すなわち、農業の集団化、工業化、伝統的な
    社会秩序の排除、宗教の弾圧や残忍な粛清などが行われた。

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    プラス面としては、文字教育の推進と、近代学校制度の確立が挙げられる。
    1980年代のペレストロイカ(改革)の時代には、トルクメニスタンでも民族自決
    運動が起こった。 1990年8月22日、トルクメニスタンは主権宣言を採択し、
    翌年10月27日に独立宣言をした。 そして同年12月21日には、独立国家共同体
    (CIS)に加盟したが、1992年5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新憲法を
    採択。 1992年5月にロシア・CIS諸国との集団安全保障条約の署名を拒否。
    1995年12月、国連総会において『永世中立国』として承認された(ロシアの
    影響力を排除する目的と言われる)。

    今のところ、さまざまな民族グループの間に大きな緊張はない。 しかしながら、
    これまで数千人のロシア人がトルクメニスタンを離れている。 また、隣接する
    各共和国との間に、国境問題や水源の問題で対立が起こる可能性もある。

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    カザフスタンの人口は、約1680万人で、そのうち、この国の名に由来するカザフ人
    (チュルク系の言語を話し、イスラム教スンニ派を信仰)の占める割合は、約40%に
    過ぎない。 また、スラブ系民族に属するロシア人は、人口の38%を占めており、
    カザフスタン人とほぼ同じ割合である。

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    主な少数民族としては、ドイツ人6%、ウクライナ人5%が挙げられるが、その他にも
    タタール人、ウズベク人、ウイグル人、ベラルーシ人、朝鮮人も住んでいる。
    カザフ人と言うのは、トルコ系とモンゴル系の両民族の血を引いている。
    『カザフ』という言葉が使われるようになったのは、16世紀である。 17世紀に
    なると、カザフ民族は、3つの独立した集団に分離し、互いにしばしば対立し、
    また、モンゴル系の部族とも争いを繰り返した。 彼らは、19世紀まで主に
    遊牧民として生活をしていた。

    1822年以来、カザフ人の住む地域は、ロシアに占領されていた。 1873年に併合
    された後、1880年代を中心に、ロシア人の入植が始まった。 1916年には、皇帝
    支配に抵抗して、暴動が起こったが、流血のうちに鎮圧された。 1917年のロシア
    革命後の数年間、カザフスタンは、内乱の舞台となったが、ボリシェビキの勝利に
    終わった。

    1920年、キルギス自治共和国がロシア共和国内の自治共和国として設立された。
    当時、キルギスという言葉は、カザフと混同して使われた。 1926年には、カザフ
    自治共和国と改称し、更に、1936年には、ソ連構成の一共和国に昇格した。

    その中でソビエト化や集団化の政策は暴力をも辞さずに推進された。 1941年には
    数十万人のロシアに住むドイツ人が、強制的にカザフスタンに移住させられた。
    1954年、新しく開拓地を広げる運動が起こったが、結果的には、ますます多くの
    ロシア人入植者をもたらしただけであった。

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    1985年からの、ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)の気運の中、1986年に
    反ロシア抵抗運動が初めて起こった。 1990年10月25日にカザフスタンは、主権
    宣言を採択し、翌1991年12月16日に独立宣言を採択した。 同年12月21日は、
    独立国家共同体(CIS)に加盟。 この国家連合は、まだ創立後間もなく、形態が
    定まっていなかったのだが、その加盟国の中でカザフスタンは、際立った存在で
    ある。

    非スラブ系の共和国の中で、核兵器を所有するのは、カザフスタンのみで、国内
    では、カザフ民族とカザフ以外の多民族の間の緊張が高まっている。 また、
    ロシアとの国境問題もある。

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    アルメニアの名前は、紀元前6世紀、岩に刻まれたペルシャ語の文字の中に初めて
    現れる。 アルメニア民族はこの頃、現在の地に住み着いたようである。
    もっとも、彼らは、現在のアルメニア共和国の国境を越えて、トルコやイランの
    一部にまで広がっていた。

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    アルメニアは、当初、ペルシャ帝国の一部であったが、紀元前2世紀から1世紀の間に
    有力な王国を形成した。 しかし、その後、この王国は、ローマ帝国の宗主権を認め
    なければならなかった。 301年、アルメニアは、キリスト教を国教とする歴史上
    最初の国となった。 400年頃、今日も用いられているアルメニア文字の歴史は
    ここに始まる。 この国は、旧ソ連地域の中で最古の文字文化を持つ国でもある。

    以後の数世紀間、アルメニアの支配権をめぐって、ペルシャ、ビザンチン、アラブが
    戦いを繰り返した。 9世紀にアルメニアは、ある程度の独立を果たしたが、
    その後、再び他民族の襲撃を受け、また数世紀に渡ってペルシャとオスマン帝国が、
    アルメニアをめぐって争った。

    19世紀になると、ロシアがこの国の支配権を獲得する。 ロシアは、1828年には
    トルコに属していた地域を奪った。 トルコの支配下に留まったアルメニア人
    たちは、1895年から翌年に掛けて弾圧され、特に1915年から1916年に掛けての
    残忍な迫害では、およそ150万人ものアルメニア人が命を奪われたと推定される。

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    【独立への長い道のり】
    ロシア革命(1917年)の直後、1918年3月、ロシア地域のアルメニアは独立を
    宣言した。 この時、民族主義政権党のダシナクツチュン党が権力を掌握
    していた。 1920年、既に共産化していたアゼルバイジャンとの国境付近で
    暴動が扇動され、暴動の主導者たちは、赤軍の支援を求めたが、このやり方は、
    他の近隣諸国で共産主義者たちが取ったのと全く同じやり方である。

    そして、赤軍の進攻後、『アルメニア・ソビエト社会主義共和国』設立が宣言
    された。 1921年に民族主義者による暴動が起こったが、武力で弾圧された。
    1922年、この共和国は、アゼルバイジャン、グルジアと共に、
    『ザカフカス・ソビエト社会主義連邦共和国』を発足させた。 この連邦は、
    1936年に解消され、アルメニアは、単独のソ連邦構成共和国の地位を得た。

    1920年代には、他国と同様アルメニアも、あらゆる分野で文化的な自立を認め
    られていたが、1930年代になると、スターリンによって同化政策が遂行され、
    全ての民族的運動が弾圧された。

    こうした傾向は、1980年代の改革政治によって、初めて改められた。 しかし、
    民族自立の気運が、かえって、かつての地域紛争の火種を再び拡大することにも
    なった。 アゼルバイジャンとの対立は、今日もなおくすぶっている。 もっとも、
    両国は1991年に互いに交渉を続けることで合意している。

    アルメニアは、旧ソ連の中では最も激しい民族運動の展開された国の中に
    数えられる。 1990年8月、他のほとんどのソ連構成共和国に先駆けて独立宣言を
    行い、新連邦条約の交渉には参加しなかった。

    1991年9月に行われた国民投票では、95%の国民が、独立に賛成票を投じた。
    そして、1991年12月、アルメニアは、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    中世においてベラルーシは、東スラブ初の国家、キエフ公国の一部であった。
    この国が没落すると、ベラルーシは、諸侯の支配するいくつかの国に分裂し、
    その後14世紀には、リトアニア大公に統治されることになった。 この大公は、
    1385年にポーランドと同盟を結んだ。 これにより、ベラルーシは、ポーランドの
    強い影響下に置かれた。

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    特に、貴族らが受けた影響は、非常に大きく、彼らの間にカトリック信仰が
    広まった。 他の東スラブ地方と文化の差が広がるにつれて、独自の
    ベラルーシ語が形成されて行った。 18世紀にポーランドが分割されると、
    ベラルーシは、ロシア帝国に属することになった。 しかし、ポーランド
    文化の影響を受けた上層階級の人々は当初、依然として重要な地位に
    留まっていた。

    19世紀になると、指導者たちは、ロシア化政策を推し進め、ベラルーシ語での
    出版が禁止された。 一方で、ベラルーシの文化的な自立を求める民族運動も
    高まった。 彼らは、ロシアであれ、ポーランドであれ、あらゆる外国の支配に
    対抗したのである。

    1917年のロシア革命後、まず『ベラルーシ民族共和国』というブルジョワ国家が
    設立されたが、これは1919年に『ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国』の設立に
    よって解消された。 共和国は、ロシア・ポーランド戦争後、1921年にリガの
    和約でポーランドに接する西側の領土を失った。 1922年、共和国はソビエト
    連邦に加盟した。

    ソ連は当初、民族文化の自発的発展にある程度の自由を与える政策を取っていたが、
    スターリン時代になると、あらゆる民族運動に対して強い弾圧が加えられた。

    第二次世界大戦では、ベラルーシは多数の死者を出し、破壊的な痛手を被ったが、
    大戦後、1921年に失ったポーランドの領土を再び取り戻した。 1945年には、
    スターリンがルーズベルトとチャーチルに求めた国連におけるソ連の3つの議席の
    うち、1つをベラルーシが得た。

    1980年代の政治改革によって、ベラルーシでも民族運動が盛んになった。 1989年、
    バルト諸国に倣い、『民族戦線』が創立された。 1990年に主権宣言を行い、
    1991年には、独立を宣言した。 当初、形態を変えて連邦を存続されることを
    他国よりも強く主張したベラルーシであったが、1991年12月には、独立国家共同体
    (CIS)設立を主唱する3国の1つとなった。

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    ロシア第3の都市、ノボシビルスクとは、シベリア開発のために建設された
    シベリアの中では比較的新しい街で、街が造られた当初は、『ノボニコラエフスク』
    という名前だった。 これと同様に、ソ連崩壊直後に、名前が変えられた都市や
    通り名は数多く、ざっと思い出せるだけでも、数知れない。 

    【 国名 】
    ソビエト社会主義共和国連邦 → 独立国家共同体
    ベロロシア → ベラルーシ
    カザフ → カザフスタン
    キルギス → キルギスタン
    ウズベク → ウズベキスタン
    トゥルクメン → トゥルクメニスタン
    タジク → タジキスタン
    タタール → タタルスタン

    【 都市名 】
    レニングラード → サンクト・ペテルブルグ
    ゴーリキー → ニージニー・ノブゴロド
    スベルドロフスク → エカテリンブルグ
    クイビシェフ → サマーラ
    ザゴールスク → セルギエフ・ポサード

    【 通り名・土地名 】
    カリーニン通り → 新アルバート通り(モスクワ)
    カールマルクス通り → 劇場通り(モスクワ)
    レーニンヶ丘 → 雀ヶ丘(モスクワ)

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    実際は、まだまだあるのだが、これを日本語とロシア語で全て覚え直さなければ
    ならないというのには、かなりの時間を要した。 よって、ロシアでは、今でも
    ペテルブルグのことを普通にレニングラードとも言う。 ソ連がなくなり、最も
    変わったのは、社会システムで、社会主義を捨てて、市場経済へ移行するための
    厳しい現実が待っていた。 ソ連の時代は、国が生産管理をしていたため、商品が
    売れようが売れなかろうが、一切関係がなかったのだが、市場経済ではそうは
    行かない。 売れ残り商品は、すぐに在庫となり、マイナスとなって財政に跳ね
    返って来る。 この期に乗して、それまで国立であった設備の私有化が始まった。

    ソ連の崩壊とは、戦後そのもので、火事場泥棒のごとく、やった者勝ちの新興財閥が
    次々と現れては消えて行った。 国がなくなったということは、それらを取り締まる
    法律がなくなったという意味で、弱肉強食の世界へと一変した。 この際、一番
    バカを見たのは、正直に生きて来た人間で、それまでは、生活保障が余りにも
    充実し過ぎてたがために、犯罪、殺人、自殺などは、表には出て来なかったが、
    一気にそれらの問題が表面化したばかりではなく、世界でも有数の治安の悪い国に
    成り果てた。

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    1991年末に、新生ロシアになってからは、ロシアは2000年頃まで激しいハイパー
    インフレに常に悩まされ続けたため、殺人、強盗、盗み、自殺等は、日常茶飯事で、
    知識層を中心に、年間で数万人規模で、移民が多発した。 それまでは、日本国内
    には、恐らく、100名程度しかロシア人が住んではいなかったのだが、今では、
    推定でも2万5千人以上のロシア語圏の人たちが日本で生活をしている。 それは、
    田舎の嫁不足を解消するために、長らく結婚紹介所がロシア人女性を日本に送り込み
    続けた結果とも言える。

    ソ連の時代は、東京でもロシア人を探すのは困難を極めたが、今では浅草等の
    観光地に行くと、必ずロシア人観光客が居るのには驚かされる。 正に、時代は
    変わったのである。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥

    【お勧めの一冊】


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    ロシア連邦、中国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、
    カスピ海にも面したカザフスタンは、国土の大部分が砂漠やステップ地帯である。
    人が住める場所は限られていて、人口の大半は、首都のアスタナやアルマトイ
    といった一部の地域に住む。

    kazakhstan

    ソビエト連邦が崩壊した後は、カザフスタン共和国として独立したが、ロシアを
    中心とする独立国家共同体(CIS)に加盟、ロシアとは良好な関係を結んでいる。
    国民の6割近くがカザフ人で、残り3割をロシア人が占め、その他にも、
    ウクライナ人やウズベク人も住んでいる。 宗教もイスラム教とロシア正教が
    中心となっている。

    ソビエト連邦を構成していた他の共和国とは異なり、大統領のヌルスタン・
    ナザルバエフはソ連時代から今日までずっと大統領職にあり、強力なリーダー
    シップを発揮している。 一見、安定した国家のように見えるが、アルマトイでは、
    反ナザルバエフ派の市長が殺されたり、2006年には、野党連合の共同議長が射殺
    死体となって発見されるなど、事件が続き、この時は、容疑者として、国家保安
    委員会のメンバー5人が逮捕されている。

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    日本の7倍もある国土は長大で、全ての国境を警備することは不可能に近い。
    特に、2001年の9.11テロ以降は、テロ組織アルカイダや外国の反政府組織の
    メンバーらが潜伏するのに好都合とばかりに、出入りしている事実もあり、
    中でもウズベキスタンとの国境は、厳重な警備が敷かれている。

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    1991年8月、共産党強硬派は、ゴルバチョフ大統領の改革路線に反対してクーデターを
    起こした。 新たに選出されたロシア共和国大統領ボリス・エリツィンは、クーデターに
    対抗して、モスクワの最高会議会館に立てこもった。モスクワ市民は、エリツィン支持を
    叫んで集結し、3日のうちにクーデターは失敗に終わった。

    1991年末にソ連は崩壊して、エリツィンを指導者とするロシア連邦が生まれた。 1993年
    10月、エリツィンは、彼の改革に激しく反対する強硬派の議会を解散した。 今度は、
    共産主義者と民主主義者が最高会議会館を占拠し、エリツィンは、これに対して、実力を
    行使し。 約150人の死者が出た結果、強硬派は敗北した。

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    それ以後、ロシアは、市場経済に向かって突き進み、犯罪と汚職が横行するなど、
    様々な問題を抱えながらロシアは変貌を遂げ、人々の生活は良くも悪くも変わり
    つつある。

    1992年、ロシアは、国有経済から自由市場経済への急転換を目指した。 最初は
    混乱と物価の高騰が起こり、通貨のルーブルの価値は急落した。 その後、一旦は
    持ち直したが、2000年代に入るまで、ロシア経済は混乱の真っ只中に居た。

    新しいビジネスが始まり、建物が修復されて、ロシアの都市は、その様相を急速に
    変えた。 ソ連時代に破壊されたクレムリン宮殿の壮大な階段、赤の広場の
    復活の門、救世主キリスト教会などの重要な歴史的な建物も元通りに再建された。

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    【ミハイル・ゴルバチョフ】

    1985年、新しいソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフは、改革(ペレストロイカ)、開放
    (グラスノスチ)の政策を慎重に取り入れた。 ゴルバチョフは、改革に反対する共産
    主義者と一層の民主主義を求める急進主義者の両方から攻撃を受け、1991年8月の
    クーデターから4ヶ月後に退任した。 しかし、新しいロシアを生み出したのは、
    ペレストロイカであったことに間違いはない。

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    【ボリス・エリツィン】

    建設技術者であったボリス・エリツィンは、1960年代にウラル地方のスヴェルドロフスクの
    党第一書記、1980年代には、ゴルバチョフの元でモスクワの共産党書記長となった。
    1987年には、ゴルバチョフによって解任されるが、その4年後、ソ連最大のロシア共和国の
    大統領となった。 エリツィンは、ロシア史上最初の国民によって選ばれた指導者である。
    1996年6月に行われた民主的な選挙では、隊長は十分ではなかったにも関わらず、再度
    大統領に再選された。

    1991年8月のクーデターから、12月31日までの4ヶ月は、ロシア史上でも最も混乱に満ちた
    時期だった。 その間に、共産党は解体され、ソ連邦を構成していた共和国は分解して、
    ゆるい関係の独立国家共同体(CIS)を作り、ソ連邦の最後の指導者であるゴルバチョフが
    辞任した。 ソ連の赤い国旗がクレムリンから降ろされ、そこに新しいロシアの国旗が掲げ
    られた。 民主的なロシア連邦誕生の瞬間である。

    それまでのソ連邦を構成していた他の14共和国が分離独立しても、ロシアは、世界最大の
    国であり、潜在的な資源も極めて豊富に存在している。 ソ連邦の15共和国のうち、バルト
    3国を除く12共和国がCISへ加盟し、その後、グルジアとウクライナが脱退したた。
    トゥルクメニスタンは、当初から非公式な加盟国であったため、現在のCISの正式な
    加盟国は、9カ国となっている。

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    1991年12月末に、ソ連邦が崩壊し、それまでソ連邦内に15あったそれぞれの
    共和国は、独立し、『独立国家共同体(CIS)』という緩やかな国家連合に移行
    する事となった。 その直接の切っ掛けとなったのは、バルト三国での独立
    意識の高まりと、当時のゴルバチョフ氏が押し進めた、『情報公開』により、
    西側の情報が雪崩れ込んだため、それ以上の国家体制が維持出来なくなり、

    最終的に、ロシアが、同じスラブ人国家である、ウクライナとベラルーシを
    引き連れて、独立宣言を行った事にある。 よって、ウクライナ自体は、独自に
    独立活動をした訳ではなく、あくまでも、ロシアが独立する際の『道連れ』的な
    副産物に過ぎなかった。

    【ウクライナにおけるロシア語の使用率】
    language

    ウクライナは、1991 年に独立するまで、一度も自民族による独立国家を持った
    事がなく、その国境線も 20 世紀の後半になって、ようやく最終画定した経緯が
    あり、特に、東部のロシアとの国境は、長年に渡って、かなり曖昧なままであった。
    また、独立後、数年を経た後でも、ロシアとの国境線は、単なる『県境』程度の
    意味しか持たず、ソ連邦崩壊直後には、CIS内のどこの国境線においても、面倒な
    パスポートのチェック等はなかった。

    ウクライナは、元々は、ルーシ人の国家である、『キエフ・ルーシ』の中心地
    であり、その名の通り、キエフが首都であったが、モンゴルから遥々遠征して来た、
    モンゴル・タタール軍に攻め滅ぼされ、街が徹底的に破壊された後、数百年間に
    渡り、復活する事が出来なかった。 その間、台頭して来たのが、北にある
    モスクワで、当時は、『モスクワ公国』と呼ばれていたのだが、ウクライナは、
    数百年間にも及ぶ、ポーランド支配を脱したかったため、同じ東方正教国家である、
    隣国のモスクワに助けを求めたが、そのまま、モスクワへと吸収され、それ以降、
    モスクワは、『ルーシの正当な後継者』という意味で、『ルーシ国』という意味の
    『ロシア』という国になった。
     
    AS2015021200

    ウクライナは、大きく分けると、西部が、ポーランド、リトアニアとの繋がりが
    強く、ガリツィア地方は、元々ポーランド領であったため、ロシアとの繋がりは
    希薄であった。 逆に東部は、ロシアとの国境線がなかなか定まらず、曖昧な
    ままにされたため、ロシア化が進んだ。西部地域は、ハプスブルグ家の支配を
    受けていた影響もあり、宗教的には、カトリックの影響が強い。 東部は、完全に
    東方正教の影響が強く、ウクライナは、東西格差が非常に大きい地域であった。

    ウクライナでは、独立後の1990 年代は、『中欧』概念の復活に乗じて、
    ハプスブルグの流れを汲む『ヨーロッパの一員』へのアイデンティティーに注目が
    集まり、EU、NATOの東方拡大や、2004年末の『オレンジ革命』を経た後は、
    EU加盟により、『ヨーロッパの一員』を希求するウクライナ・アイデンティティと
    『ヨーロッパの隣人(EUの外)でいる』アイデンティティとして議論される機会が
    増えた。 

    『ヨーロッパの一員』を強く熱望する余り、ウクライナ全域で使用されている、
    ロシア語への批判的な処置が行われ、国内で放送されていたロシア語番組には、
    全てウクライナ語の字幕を入る事が義務付けられ、ロシア語は、基本的に『外国語』
    扱いとされ、ウクライナ語以外は、公の場での使用を基本的に禁止された。

    【オレンジ革命の末路 ダイオキシンを盛られたユーシェンコ元大統領】
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    2014年に始まった『ユーロ・マイダン』以降は、ロシア寄りの政治家達を全て
    排除し、アメリカの誘導の元、EU寄りへと強引に舵を切ったが、そのEU自体が
    ウクライナ援助に関しては、全く乗り気ではなく、むしろ、ウクライナ排除の
    方向へと向かっている事実をウクライナ国民は全く知らさせてはいない。
    オリガルヒ(新興財閥)らによる情報操作も甚だしく、ウクライナでは、ウソが
    平然とまかり通っている。

    今後、ウクライナがEUの一員になる事を本気で望むのであれば、正しい情報の
    公開と、オリガルヒによる世界でも指折りの腐敗し切った政治を何とかしない限り、
    ロシアからもEU諸国からも愛想を尽かされる事となる。 本来、ウクライナが
    目指すべき道は、地政学的な事を鑑みても、『東西の架け橋』になる事であり、
    自分達の都合の良い主義主張ばかりをゴリ押ししているウクライナが、EU諸国の
    一員になれる日は、未来永劫ないのではないか?

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