占領前の香港には、大陸での戦火や、日本軍による統治を避けて、大量の避難民が
押し寄せており、占領直後の人口は、およそ150万人にもなっていた。 日本軍は、
円滑な統治のために人口を適正規模にまで減らすことを目指し、華人の同郷組織を
動員したり、広州の日本軍当局と協力して無料船を用意したりして、半強制的に
人々を香港から疎散させた。

占領開始から1943年末までにおよそ100万人が香港を離れている。 また、
総督部は、日本軍が占領していた海南島への労働者の徴用も行い、記録によれば、
1942年2月から1943年7月の間だけでも2万人余りが海南島へ渡った。 中には誘拐
同然に連れ去られるケースもあったという。

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軍票流通政策も早くから準備されており、占領直後の1941年12月30日には九龍に、
翌42年1月5日には、香港島に軍票交換所が設置されている。 香港上海銀行を
はじめとする英米系の敵性銀行の接取と精算も同時に進められた。 1942年
7月には、それまでの軍票1に対して香港ドル2だった交換比率が4に改変され、
更に、1943年4月には、香港ドルの併用が禁止されて軍票に一本化された。

香港市民は、手持ちの香港ドルを軍票に変えざるを得なくなるが、この交換に
よって、大幅に自己資産を減らされることにもなったのである。一方、日本軍
政府は、『華を似て華を制する』の政策の下、戦前から香港で活躍をしていた
華人の要人を動員して、華民代表会と華民各界協議会を組織し、総督の詰問
機関とした。

日本占領下で再開を許可されたのは、小学校27校と中学校15校のみで、学校では、
日本語の授業が正課として導入された。 日本語学校も16校開校され、日本語
検定も導入された他、1943年4月には、師範教育や事務員養成を行う高等科を
擁する『香港東亜学院』が開校されている。 この他、主要道路の日本名への
変更や、香港神社、および、虚構橋事件以来の中国南方戦線での戦死者を祀る
『忠霊塔』の建設等も行われた。

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生活の面では、食料や日用品、燃料の薪等が順次配給となったが、1943年後半
以降は、インフレが加速し、配給価格も上昇して市民生活への打撃となった。
また、区による地方行政を通じて厳しく戸口管理が行われ、更に経済活動から
宗教活動に至るまで、総督部の管理下に置かれたため、市民は移動の自由、生活の
自由を著しく奪われた。

その後、1944年4月には、米の配給は軍政協力者だけに限られるようになり、
更に、同年12月には直接的な軍政協力者のみにしか配給されなくなる。 また、
連合軍の空襲も激しさを増して行き、日本占領期も末期になると、人々の生活は
維持が難しいほどに困窮して行った。 人口疎散と生活苦の末、人口は60万人まで
減少している。

日本のポツダム宣言受諾と無条件降伏により、日本軍による香港統治も終わりを
告げた。 香港は再びイギリス領となり、道路名も元に戻り、神社も忠霊塔も撤去
された。 現在目に見える形で残る日本占領期の名残は、日本時代に増改築された
行政長官公邸の外観と、爆破されて小さくなってしまった宋王台の碑ぐらいかも
知れない。 しかし、その一方で、現在にまで禍根を残している問題として、軍票
問題がある。 戦後、連合国が日本発行の軍票に対する支払い請求を放棄したため、
香港市民の手元に残っていた軍票は紙屑同然となってしまったのである。 財産を
失った被害者たちは、戦後賠償を求めて日本で裁判も起こしたが、敗訴している。

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