銭屋五兵衛は、1773年11月25日、加賀の国石川郡宮越、今の金沢市金石町で
生まれました。 五兵衛の先祖は加賀の国鶴来(今の白山市)にあった
舟岡山城の城主高畠石見守の家臣でした。

五兵衛から数えて6代前の吉右衛門の時に、宮越に移り住みました。 それから
代々宮越で両替商をしていたため、『銭屋』が店の称号になったのです。

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海運業に乗り出した五兵衛は、東北地方や北海道の産物を瀬戸内海の海や大阪へ
運ぶことを考え、海運業にすべてをかけました。 大阪で修業をしてからは、
次々に大きな船を造り、多くの産物を運び、さばきました。 北は北海道から
奥羽、西は山陰、山陽、九州方面へ、東は江戸、伊豆、南は阪神四国に至るまで
五兵衛の船は活躍しました。

五兵衛は宮越に本店を置き、青森、弘前、松前、箱館、長崎、兵庫、大阪、江戸と
いった主な地点に大支店を置きました。 全部で日本全国に34の支店があった
そうです。

扱う品物は米、材木、生糸、海産物、しめかす(肥料)、衣類、笠なども取引
しました。 五兵衛の船は百石積みから二千石積みまで、200隻余りの船を持って
いたと言われていますが、本当のことは分かっていません。 このようにして、
五兵衛は、一代にして約300万石にのぼる富を築いたのです。



五兵衛の一生のうちで、一番大きな事件は河北潟の埋め立て工事を行ったことです。
1849年、五兵衛は周りが25.5キロメートル、面積2576ヘクタールもある河北潟を
埋め立て、農地にすることを計画しました。

当時、米は藩にとって重要な産物であり、米は作っても作っても売れました。
この埋め立て事業には、三男の要蔵が受け持つことになりました。 設計には
数か月掛かりました。

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藩の許可が下りたので、すぐに工事に取り掛かることになりました。 しかし、
河北潟沿岸の漁民はこぞって反対しました。 河北潟がなくなると、漁が出来なく
なるからです。 埋立の土や砂を固めるために石灰を使いました。 ところが、
それが毒を入れて潟の魚を殺したというように誤解され、潟の魚を食べた多くの
人が死んだということになったのです。

多くの魚が死んだのは、潟の水が腐って酸素不足になるという水の問題で、
これまでにもあったことだったのです。 死者が出たのは、死魚を食べて中毒に
なったのと、流行り病が流行したからですが、すべて埋め立てのせいにされて
しまったようです。 これにより、五兵衛一族は捉えられてしまいました。

1852年9月、五兵衛は金沢の牢獄に入れられてしまいました。 五兵衛は80歳に
なっていました。 歳を取っている上に牢に入れられたこともあって病気になり、
同年11月21日に身に覚えのない罪で牢の中で亡くなってしまいました。 さぞ
無念だったでしょう。

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