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    タグ:気仙沼

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    東日本大震災は、教育の現場にも大きな影響を与えている。 校舎の損壊、
    間借りの教室、不自由な通学、仮設住宅が並ぶ校庭。 学校は幾つもの困難を
    抱えながら、教育の場としての機能を懸命に維持し、被災した子どもたちの
    心と向き合う。

    『ドキュメント 大震災』のシリーズ第3弾では、被災地の学校で何が起きて
    いるのかを追う。

    学校で何が 高校生避難所(気仙沼高)
    出典:河北新報 2011年7月4日

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    宮城県気仙沼市の気仙沼高(生徒810人)では授業を再開した5月から、東日本
    大震災で自宅通学が困難になった生徒37人が柔道場で共同生活を送る。
    『通学の足』だったJR気仙沼線が不通となっている影響が大きい。 過酷な体験は
    まだ消化しきれないものの、親元を離れて学業や部活動に励みながら、ともに
    未来を切り開こうとしている。

    今も体育館などに100人以上の住民が身を寄せる気仙沼高校。 自宅通学が難しい
    生徒たちは校舎隣の柔道場で暮らす。 2011年6月10日午後7時、サッカー部の
    練習を終えた2年二階堂広也君(17)が戻った。 宮城県南三陸町歌津の自宅は
    津波で全壊。 家族とともに町内の親類宅に身を寄せたが、5月9日の授業再開に
    合わせて学校に移った。

    『通学の足』だったJR気仙沼線は津波被害で不通となり、代行バスでは片道2時間
    近くかかってしまうからだ。『副キャプテンだし、部活に打ち込みたい』との
    思いも強かった。 気仙沼線の利用者は全校生徒の約4分の1。 復旧のめどは
    立たず、代行バスの本数も少ない。 今春の入学予定者13人を含め既に22人が
    転校した。

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    生徒の避難先は広範囲で、スクールバスではカバーしきれない。 寄宿舎を建て
    たくても、被災地では仮設住宅が優先だ。 気仙沼高が生徒用の『避難所』を
    用意した背景には、そんな事情がある。

    生徒たちは午前6時半に起床、全員で掃除をした後、炊き出しの朝食を取って
    登校する。 昼食は売店のカップめんなどで間に合わせる生徒が多い。 柔道場の
    スペースは男女別にパーテーションなどで仕切られ、夜は身の回りの片付けや
    勉強をして過ごし、畳の上に布団を並べて眠る。

    被災した家族と離れての暮らしに、抱える思いはさまざまだ。 南三陸町志津川の
    3年山内秀斗君(17)は自宅と親の職場が津波で流された。 被災時に携帯電話が
    通じなかった経験から、大学で通信技術を学びたいと考えているが、家族の
    負担を思うと『自分が早く親を養えるようにならないと…』と悩む。

    大学に進学し、国家公務員になろうと考えていた南三陸町歌津の3年三浦竜馬君
    (18)は志望を変え、高校卒業と同時に地元で公務員として働く決心をした。
    震災後、遺体捜索やがれき撤去の作業を通じて地域の人とふれあった経験が
    大きく影響している。

    『1000年後の津波に備えたまちづくりが、自分の世代でできるなんてすごいこと』
    6月28日。 学校の試験の合間の日曜日、生徒数人が柔道場で教科書や参考書を
    めくっていた。 三浦君が目指す地方公務員の試験は9月上旬に始まる。
    『あと70日しかない。 学校の試験と内容が全然違うんですよ』と仲間を
    笑わせた。 生徒たちの『避難生活』について、千田健一教頭(54)は
    『心の中にはつらい思いもあるだろうが、皆で支え合って明るさと前向きさを
    持ち続けている』と語り、こう付け加える。

    『ただ、(37人の中には)進路の選択を迫られている3年生も多い。 人生の
    中でも大切な時期だけに、早く普通の生活に戻してあげたい』

    柔道場で暮らす生徒のうち5人は『被災地高校生からの復興』というブログを
    立ち上げ、心情をつづっている。

    『棺(ひつぎ)の中にドライアイスを入れる仕事をしました。 (中略)大人
    として社会に受け入れられていることを自覚しなければならないと思いました』
    『避難所生活を始めて、どれほど親のおかげで自分が好きなように快適に家で
    過ごしてたかを痛感しました。(中略)避難所生活する高校生は協力しながら
    本当に仲良く過ごしていて感謝でいっぱいです』

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    地域を挙げて避難訓練を重ね、手助けが必要な障害者やお年寄りの
    把握にも努めて来た宮城県気仙沼市唐桑町小鯖地区(155世帯)では、
    住民がほぼ訓練通りに行動し、犠牲者を最小限に食い止めた。 自治会が
    『隣組』ごとに編成した12班は、それぞれ事前に決めていた避難場所に
    組織的に避難。 各班の責任者に配備されたトランシーバーも、安否確認や
    責任者同士の連絡に威力を発揮した。

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    逃げる その時 備え(気仙沼・唐桑町小鯖地区)
    出典:河北新報 2011年6月24日

    『迷わず、訓練通りに体が動いた』。 7班責任者の衣料店経営鈴木茂さん
    (56)が、地震直後の行動を振り返る。

    玄関に常備するトランシーバーを手に外に出た鈴木さんは、7班の全10世帯を
    避難路に誘導し、体が不自由なお年寄りだけを車に乗せて避難場所へと運んだ。
    『うちにいたい』と拒む人もいたが、親類を連れて再び迎えに行き、説得した。
    『5班は大丈夫』『異常なし』。 住民の安否確認を終えた各班の責任者から、
    相次いでトランシーバーに連絡が入った。

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    鈴木さんは『携帯電話がつながらない中、班ごとに安否が確認できた。 大きな
    安心感があった』と振り返る。 小鯖漁港のそばで釣具店を営む小松好子さん
    (82)を救ったのは、近所のガソリンスタンドの男性社員の声だった。

    『地震の次は津波が来るから。 もう1段、もう1段上がりなさい』当時自宅に
    いたのは、6人家族のうち小松さんだけ。 避難を促す声に背中を押されるように、
    自宅裏の避難階段を夢中で上った。

    午後3時10分過ぎ。 後ろから10メートル以上の黒い波が迫って来た。 高台に
    上った小松さんは、引き波で店舗を兼ねた自宅が湾内に流されるのを見た。
    最後尾で誘導した尾形和洋さん(34)は『お年寄りの足では、津波に飲まれかね
    なかった。 高齢者の避難に最も気を使った』と言う。

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    小鯖自治会副会長の鈴木貞治さん(62)は『迅速に避難を誘導できたのは、
    日ごろの訓練のおかげ』と強調する。 12班はそれぞれ最寄りの高台を1次避難
    場所に指定し、経路を示した避難地図を全戸に配布。 要援護者を把握するため、
    『住民名簿』や『家族カード』を作り、訓練を重ねて、近所ごとに要援護者を
    誘導する取り組みも進めていた。

    津波で海岸沿いの住宅53世帯が被災したが、1次避難場所は全て無事だった。
    浸水域は、避難地図作成のベースになった宮城県沖地震の想定浸水範囲
    『標高10メートルライン』と重なる。 1次避難場所は標高20メートル前後の
    場所に指定していた。

    避難場所に逃げたのは12カ所で計151人。 自宅にいたほとんどの住民が
    助かったが、3世帯6人が行方不明となった。 住民によると、このうち1世帯
    3人は、いったん避難路を上ったが、『忘れ物』と言って自宅に戻った。
    家族の一人は元遠洋漁船員。 航海が長く、日ごろ訓練に参加出来なかった。

    12班の責任者、後藤一郎さん(63)も行方が分からない。 地震発生後、
    トランシーバーで『異常なし』と仲間に連絡していた。 妻光子さん(55)は
    『近所の安否確認をした後、つないでいた愛犬を逃がすため自宅に戻った
    のでは』とみている。

    他に、お年寄りと娘の1世帯2人が逃げ遅れた。 万全だったはずの備え。
    想定通りの津波。 それでも犠牲者が出た。 住民は言う。 『津波から逃げる
    には、備えが要る。 でも、いざとなれば何が起こるか分からない。 失敗こそ
    教訓にして、記憶に留めたい』

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    東日本大震災が発生した2011年3月11日、最大震度7の激震、大津波警報の
    発令を受けて、人々は避難のため走り出した。 予想を超える巨大津波は、
    必死で逃げた人たちをも飲み込み、多くの犠牲者を生んだ。

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    宮城県気仙沼市魚市場から西に約400メートルの幸町地区では、東日本
    大震災の後、積み重なったがれきの下から100台以上の車が見つかった。
    避難しようとした車が内陸部につながる市道に殺到し、大渋滞が発生。
    身動き出来ない車の列に津波が襲い、多くの人が車内で犠牲になった。

    目の前を何台もの車が流れて行く。 ドンドン、ドンドン。 助けを求め、
    車内から懸命に窓をたたく音が耳に届いた。 『今行くぞ』と叫んではみた
    ものの、どうすることも出来なかった。

    2011年3月11日、気仙沼市幸町2丁目の無職畠山覚四郎さん(79)は夢中で
    よじ登った隣家の物置の屋根に立ちすくんでいた。 自宅で大地震に
    見舞われた畠山さんは、すぐに妻かつ子さん(77)と隣に住む足の不自由な
    伯母を車に乗せて逃げた。 防災無線は大津波警報を伝えていた。

    内陸部につながる気仙沼大橋に向かう市道は、渋滞でほとんど前に進めない。
    目の前の大川から突然水があふれてきた。 『まずい』『徒歩で逃げるしか
    ないか』 自宅に引き返して車を止めた時、今度は海からの津波が押し寄せ、
    車を降りたかつ子さんと伯母が流された。 車内にいた覚四郎さんは偶然、
    車ごと隣家の物置に押し付けられたことで助かった。

    かつ子さんと伯母は数日後、遺体で見つかった。 自宅近くには、高台の
    笹が陣地区がある。 覚四郎さんは『坂が急で歩くのは大変だと思って車を
    使ったが、裏目に出た。 2人を死なせたのがつらい』とうなだれる。
    離島の気仙沼大島で旅館を営む堺健さん(60)も、市魚市場近くの知人宅で
    地震に遭い、軽乗用車で気仙沼大橋へ向かった。

    幸町でやはり大渋滞に巻き込まれた。 バックミラーを見る。 がれきが壁の
    ように折り重なり、3メートル近い高さの塊になって迫る。 塊には後続の車も
    交じっていた。

    とっさに右の脇道に入った。 幸運にも車は大破した建物などのがれきの上に
    乗って、浮いた。 窓から抜け出し、民家の屋根に飛び移った。

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    堺さんは『なぜ助かったか分からない。 車で移動しようとしたのは間違い
    だった』と反省する。 大渋滞が発生した市道は、気仙沼港と大川の間を
    東西に走る。 気仙沼大橋を渡れば、最短距離で内陸部に向かうことが出来る。
    だが、津波は、この道を『挟み撃ち』にした。

    気仙沼署によると、震災後、市道周辺には何層にもがれきが重なり、下層
    からは建物に押し込まれた車100台以上が見つかった。 その多くに、避難
    途中で犠牲になったとみられる遺体があったという。

    佐藤宏樹署長(49)は『渋滞時、署員が車を捨てて逃げるよう呼び掛けたが、
    誰も出てこなかった。『ここまでは波も来ないだろう』『車を置いていけない』
    という思いが悲劇を拡大したのではないか』と指摘する。

    震災前に市が定期的に行って来た防災講座では、市中心部の住民には徒歩で
    逃げるよう呼び掛けて来た。 東北大災害制御研究センターの今村文彦教授
    (津波工学)は『本当に車での避難が必要な高齢者、乳幼児らがいち早く
    安全な場所に避難出来るよう、徒歩で逃げられる人は車の使用を控えるべきだ』
    と話す。

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    建物がほぼ全てなくなった、南三陸町の中心地、志津川地区。 約10メートル強
    嵩上げ工事を行ったため、風景が一変し、更には、道路自体が大幅に変わって
    しまったため、昔の面影は、一切残らず。 唯一残った防災庁舎も、周囲の嵩上げ
    工事により、この建物だけが谷のように残ったため、不自然感が否めず。 海の
    すぐ目の前に20メートル程度の防波堤を建設したため、この周辺では、海が一切
    見えなくなった。

    【南三陸町中心部】
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    震災遺構として、2031年まで宮城県が管理(保存)することとなった、南三陸町
    旧防災対策庁舎。 当初は、6mという津波予想であったため、庁舎に留まり避難
    しなかったのが、犠牲者を大きくする一因となった。 2階に危機管理課があり、
    町災害対策本部が置かれた。 本庁舎では津波来襲の15時25分頃まで、防災無線
    放送で繰り返し住民に避難を62回に渡り呼びかけ続けた。 本庁舎から発信された
    約30分間の防災無線の放送音声は全て録音されている。 危機管理課の女性職員は
    繰り返し避難を呼びかけ続けたが、波の高さについては「最大で6メートル」という
    放送が続き、最後の4回のみ「10メートル」と放送した。 音声は、放送を続け
    ようとする女性職員の声を遮るように「上へ上がって 未希ちゃん 上がって」
    という周囲の制止の声を最後に放送が途切れている。
     
    職員約30人は屋上に避難したが、屋上の床上約2メートルの高さまで津波が
    押し寄せ、度重なる津波によって庁舎は骨組みだけとなった。 アンテナに
    しがみつくなどして波に耐えた佐藤仁町長ら11名は生還したものの、庁舎に
    詰めていた他の職員や住民は津波で流され犠牲になった。 屋上で写真を撮影
    していた職員(この職員は津波に飲まれ気絶したが、副町長が腕を掴み続けて
    いたので、無事生還している)のデジタルカメラの本体は壊れてしまっていたが、
    データは無事で、津波が来る前の様子から、屋上が水没する瞬間までを捉えた
    様子が写っており、写真の一部は南三陸町のホームページに掲載された。

     

    最期まで防災無線で避難を呼びかけ続けて犠牲になった女性職員の行動は、
    『多くの命を救った命懸けのアナウンス』と大きく評価され、埼玉県の公立学校で
    2012年の4月から使われる道徳の教材に掲載された。 また、堅牢な建物であり
    2階の電算室で各種行政システムを管理していたが、サーバ及びバックアップ
    テープも滅失した。

    2012年3月6日には、佐藤仁町長が高台へ避難させず、庁舎に留まらせたのが
    原因で町職員ら43人が犠牲になったとして、町職員の2遺族により業務上過失
    致死容疑にて宮城県警南三陸署に告訴状が提出された。 尚、この付近に
    押し寄せた津波の高さは、最終的には、約15.5mであった。

    >>町民を救った天使の声 

    【岩井崎】
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    津波による甚大な被害を受けた気仙沼市内にある風光明媚な岬で、岩の隙間から
    波が打ち寄せる潮吹岩が有名。 横綱秀ノ山雷五郎像は、津波に流されずに、
    そのまま残ったが、復興のシンボルと言われていた龍の形をした『龍の松』は、
    現在、保存に向けて、撤去されている。 三陸地域の津波被害が甚大だったのは、
    リアス式海岸の間を波が遡って来たためで、山の間を津波が遡上して来たため、
    その分、数倍に波がせり上がったためで、平野部での津波災害とは、被災状況も
    異なる。

    【歌津駅跡(上)と清水浜駅跡(下)】
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    旧JR気仙沼線の歌津駅と清水浜駅付近。 歌津駅の下には、復興商店街があるが、
    付近に民家がないため、かなり閑散としている。 この付近は、鉄道が、残ったり
    撤去されたりしているため、かなり寂しい風景が広がっている。 嵩上げ工事が
    本格化したとは言え、被災から丸4年を経ても、周囲は、瓦礫がなくなっただけで、
    特に何も変わってはいない。

    【神割崎】
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    石巻市と南三陸町の境界線上にある神割崎。 付近には、キャンピング場もあり、
    テントを持ち込めば、900円程度で宿泊可能。 ロッジでの宿泊は、一泊5,000円
    程度。 すぐ目の前には、仮設住宅が今でも残されている。

    【石巻市立大川小学校】
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    宮城県石巻市釜谷地区の北上川河口から約4キロの川沿いに位置する大川小学校は、
    3月11日の東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明と
    なった。 教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した。 東日本
    大震災で起きた数々の悲劇の中でも、最も悲劇的な場所とされる所以である。

    地震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。
    教師らは児童を校庭に集めて点呼を取り、全員の安否を確認した後に、避難先に
    ついて議論を始めた。 学校南側の裏山は有力な避難先であったが、急斜面で
    足場が悪い事から、児童らが登って避難するには問題があるとされていた。
    約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋の三角地帯も
    避難先候補となり、裏山へ逃げるという意見と、老人も含まれている事を
    考慮して三角地帯にするべきという意見が教職員の間で対立し、最終的に
    三角地帯に避難する事になり、移動を開始した。

    その直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方から飲み込んだ。
    列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて、裏山を駆け上がり、一部は
    助かったが、迫り来る津波を目撃して腰を抜かし、地面に座り込んで避難
    出来ない児童も居た。

    家族が車で迎えに出向き、独自に避難した児童は助かった。 避難先として
    選定した三角地帯も標高不足で津波に呑み込まれており、避難が完了して
    いたとしても、被害は避けられなかった。 校庭には、スクールバスも停車
    していたが、その運転手も、津波に飲み込まれて、死亡した。

    >>悲劇の大川小学校

    >>【被災地巡り】気仙沼線編

    【お勧めの一品】


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    3.11東日本大震災 に参加中!

    被災地巡りの気仙沼編です。 出発地点は、JR気仙沼線の分岐駅、石巻市にある
    前谷地駅から。 なるべく気仙沼線に沿って気仙沼まで行く小旅行です。 今年の
    6月から気仙沼線のBRTが、この前谷地駅まで乗り入れを開始したため、駅前に
    BRT専用のバス乗り場が出来ました。 この付近は、12年前の宮城県北部連続
    地震でかなり破壊されましたが、今では、概ね復興は終わっております。

    【前谷地駅前】
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    気仙沼線に沿って進む筈が、途中の県道に道路標識が全くないため、気仙沼線
    からは、若干外れますが、登米に来てみました。 登米市登米と書いて
    『とめし とよま』と読むという、嫌がらせのような地名です。 登米は、
    『宮城の明治村』とも呼ばれており、旧水沢県の県庁所在地だった街。 その後、
    水沢県は、明治政府により、南北に2等分され、北は、現在の岩手県へと割譲、
    南半分だけ宮城県に留まりました。 その宮城県という名前も、明治政府に
    よって無理やり変えさせられた名前であるため、ハッキリ言って、この県名が
    嫌いな人が多い。 よって、宮城県出身者は、その殆どが『仙台出身です』と
    言う事になっております。

    【宮城の明治村 登米】
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    登米は、これまた、明治政府によって、鉄路を大きく外されてしまったため、
    その後一切発展する事すらなく、現在に至っております。 昔の県庁所在地で、
    最終的に単独で市に昇格出来なかったのは、この登米ぐらいだと思います。
    現在の登米市が、「とめし」と読むのは、『とよま』ではないためで、登米市の
    中心部は、登米ではなく、佐沼となっております。

    北上川の開運によって隆盛を極めた登米の面影は、現在では、一切残ってはおらず、
    今では、鉄道すら通ってはおりません。 よって、明治政府の残忍非道な愚行が
    そこかしこに見え隠れしているのが登米となっております。 しかも、こちらは、
    県の名前を仙台から宮城に無理やり変えられても、領土を割譲させられても、
    150年間謝罪の言葉すらなく、そのまま放置。

    【本吉駅跡】
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    今月正式に廃止、並びに、BRTへの転換が決定されたJR気仙沼線の本吉駅跡。
    気仙沼線は、津波で破壊された区間が長過ぎるため、薄々復旧は不可能である事は
    前々から分かっていましたが、実際に廃止が決定されると、やはり寂しいものが
    あります。 運行本数的には、バスの方が鉄道よりも圧倒的に多いのですが、
    地方路線であるがゆえに、国からの補助により、復旧を果たした三陸鉄道とは、
    好対照となっています。

    JR東日本は、発足当初、仙台と東京で本社を巡る熱い戦いを繰り広げた結果、
    仙台と東京に2つの本社を置く事でその問題を解決しましたが、その後、JR
    東日本東北は、単なる『仙台支社』に格下げとなったため、JR東日本の路線は、
    田舎の路線でも地方鉄道程の予算が下りずに、結局は、大船渡線共々廃止に
    なりました。 元々は鉄路であった専用路線を走行するため、通常のバスよりも
    遅れが少ないものの、やはり、バスなので、正確な時間が読めません。

    【小金沢駅跡】

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    JR気仙沼線、小金沢駅跡。 気仙沼線は、その殆どを津波によって流されて
    しまったため、このような残骸が各地に残っています。 海のすぐ隣に駅が
    あるため、土台が流されて、このような状態が残されています。 専用BRTも、
    この駅の付近は、国道45号線を走行するため、駅舎自体ももうありません。
    ホームも半分近くが流されてしまったため、見る陰もありません。

    【大谷海岸駅跡】
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    JR気仙沼線、大谷海岸駅跡。 道の駅も併設されていたため、被災前までは、
    マンボウの展示も行っていましたが、今では駅舎自体が無くなったため、
    マンボウもいなくなりました。 日本で最も海水浴場に近い駅というキャッチ
    フレーズを使っていましたが、今では、その海水浴場では、ひとりも泳いでは
    おりません。 土嚢で波よけをしているものの、再度津波が襲った場合は、何の
    役にも立たないでしょう。BRTは、斜め向かいの国道に到着します。

    気仙沼に行く度に、必ず寄るのは、イオン気仙沼。 街の入口にあるため、
    何かと便利。 こちらのお店に到達した津波の高さは、2.8mとなっており、
    1階部分がほぼ全て浸水。 被災当初は、瓦礫に埋もれて、グチャグチャに
    なっていましたが、今では、その瓦礫もなくなり、この付近は、かなり殺風景に
    なりました。

    【イオン気仙沼】

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    東日本大震災で被災した気仙沼市の観光施設。 震災から3年4ヶ月ぶりに全面
    復旧を終え、昨年7月19日に本格的な営業を再開しました。 「海の市」は、
    震災前、年間100万人の来場者で賑わった観光施設。 2014年4月に施設2階と
    3階の復旧を終え、『シャークミュージアム』と『気仙沼市観光サービスセンター』
    が運営を開始、その後、1階で飲食店1店舗が営業を再開していました。

    昨年の7月に、グランドオープンを果たしたものの、被災前と比較すると、
    おみやげ屋の数も減り、2階にある世界で唯一のサメの博物館、
    『シャークミュージアム』は復活したものの、1階にあった『氷の水族館』は、
    未だ閉鎖されたまま。 現在復旧に向けて、全力で取り組んでいるそうですが、
    その復活時期は、全くもって未定。 施設としての『氷の水族館』は、気仙沼が
    全国でも唯一だったとか。 気仙沼のサメの水揚げ高は、世界一で、中国で食べ
    られているフカヒレのほとんどが、ここ気仙沼産。 この施設を真っ直ぐ南に
    向かった突き当りが、南気仙沼駅でしたが、今では、その残骸すら残ってはいない
    ため、そこに駅があったのかすらもう分かりません。

    【気仙沼市観光サービスセンター】
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    気仙沼港から、大島行きのフェリーが出ています。 大島は、人が住んでいる
    有人の島ですが、被災時に、一時完全に孤立しました。 観光が盛んな島
    でしたが、今でも、観光客は、元のレベルには戻ってはいません。 この周辺の
    復興は、遅々として進まず、このような殺風景な風景ばかりが広がっています。
    このすぐ裏には、JR大船渡線が走っていましたが、気仙沼線共々、廃止とBRT
    への転換が正式に決定されたため、鉄路として戻る事はもうありません。
    内陸に大型の船が打ち寄せられていたのは、ここからもう少し先の場所です。

    【気仙沼港】
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    気仙沼港のすぐ隣には、今でも仮設復興商店街があります。 JR気仙沼線は、
    一部では鉄路が残ってはいるものの、その殆どを津波で土台ごと流されて
    しまったのと、多くの場所で、バス専用路線として、道路に転換してしまった
    ため、今では、このような鉄路が残っている方が珍しくなっています。 よって、
    気仙沼に鉄道で行くためには、宮城県側からは行けず、岩手県の一関から
    大船渡線に乗るしかなくなりました。

    【お勧めの一品】


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    東日本大震災の犠牲者を一時的に土葬した『仮埋葬』の跡地の大半が、当時の
    形跡すらない状態になっている。 宮城県内6市町の15カ所は、復興工事の
    作業場や更地になり、伝承碑などは設けられていない。 荼毘に付して弔う
    こともできないほど過酷だった震災の現場をどう語り継ぐのか、課題を指摘
    する声も出ている。

    宮城県内で仮埋葬がなされた場所は図の通り。 石巻市が最多の7カ所で、
    亘理町3カ所、気仙沼市3カ所、東松島市と女川町、山元町各1カ所だった。
    各地とも犠牲者の多さに火葬の処理能力が追い付かず、震災後の2011年6月
    までに計2,108人の遺体を一旦土葬した。 その後、掘り起こされ、同11月
    19日までにようやく全て荼毘に付された。

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    埋葬地には公園や墓地などが選ばれた。 石巻市のうち雄勝地区では、公園脇の
    市有地で52人を仮埋葬した。 現地にはいま、被災した岸壁工事の業者向けの
    作業小屋が立つ。 門脇地区の広場は、12年秋に人工芝を敷き、早期に復旧した。
    市内の他の5カ所も当時の状況を伝えるものはない。 市の担当者は『家族
    としては受け入れ難い緊急避難措置だった。 そうした感情を考えれば残す
    選択はそぐわない』と語る。



    亘理町の観音院は仮埋葬地を提供。 跡地には砂利を入れ、駐車場として
    使えるように整備した。 既におはらいの法要が執り行われた。 和尚の
    本郷正繁さん(73)は『たとえ慰霊碑を建てるにしても誰がやるのか』と
    戸惑う。 仮埋葬地をめぐっては12年、宮城県内外の有識者でつくる
    『3.11震災伝承研究会』が15カ所を震災遺構の保存候補に挙げたが、機運は
    高まらなかった。 研究会座長で減災・復興支援機構(東京)の木村拓郎
    理事長は、『災害のスケールの大きさを物語る場所で、個人的には残念に思う。
    仮埋葬があった現実を伝える看板などの設置をどこか1カ所でも考えても
    いいのではないか』と話す。

    【お勧めの一冊】



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