『ロシア』という国名が最初に文献に登場するのは15世紀末、広く用いられるように
なったのは16世紀になってからのことである。 ロシアには、これまでに、2つの王朝が
存在しており、リューリック王朝(860年頃~1598年)と動乱の時代に続く、ロマノフ王朝
(1613年~1917年)が存在していた。
11世紀までは、『ルーシ』の中心地域は、現在のウクライナの首都であるキエフ周辺
だったため、ロシア正教会の中心地もキエフであったのだが、その周辺の現代
ウクライナとなっている南西ルーシ地域は、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国と
ポーランド王国によって征服されて以来、18世紀のエカテリーナ2世によるウクライナ
併合に至るまで、ウラジーミル、モスクワを始めとした北東ルーシからは切り離されて
いた。 よって、ロシアとウクライナは、同じ東方正教国家と言えども、それぞれ異なる
道を歩んで来た。
戦いで、キプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破ったが、一般的に、この1380年を以て、
ルーシは『タタールのくびき』から解放されたとされることが多い。
その後、モスクワ公国が名実共に『ルーシの第一人者』となって行くこととなるのだが、
この頃の『ルーシ』の統合はまだ緩やかなものであった。 1467年、ヴァシーリー2世の
長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアを
妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。 その後、イヴァン3世により、
豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド(1478年)と貿易の活発であったプスコフが
征服された。 その後、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)
等も次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公は、
ルーシ諸公、貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。
【イワン雷帝と息子のイワン】
イヴァン3世は初めて『ツァーリ』(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章が
モスクワ大公の紋章に加えられた。 次のツァーリである、イヴァン4世は、紙と印刷機の
導入、常備軍の創設等の近代化を進め、対外戦争(リヴォニア戦争など)を実行すると
共に、ロシア正教会への国家の統制を強めた。 イヴァン4世の統治の時代は、彼の
あだ名にもなっている『雷帝』にも象徴されるように、恐怖政治が吹き荒れた時代であった。
リューリック王朝最後の支配者である、ボリス・ゴドノフは、人望がなく、正当な王位
継承権を持つドミトリー王子を殺した疑いを持たれ、1605年に突然死すると、その後、
後継者を決める長い争いが始まり、1613年まで動乱の時代が続いた。
【ロマノフ王朝成立時のロシアの領土】
1613年、ミハイル・ロマノフが王に選ばれ、彼の一族がその後300年に渡って支配を
続けた。 異母姉であるソフィアから王位を強奪したピョートル大帝は、1689年から
1725年までを支配し、歴代皇帝の中でも最も精力的に動いた。 新しい首都を建設し、
海軍を創設し、教育と政府の改革を始めた。 ドイツの王女として生まれたエカテリーナ
2世は、1762年に女帝となり、30年以上にも渡って国を支配した。 エカテリーナ大帝とも
呼ばれて、強力な4人の女王の最後のひとりでもあった。 1913年、ニコライ2世は、
ロマノフ王朝の300周年を祝ったが、その4年後、戦争と市民の蜂起によって破局を迎え、
1917年、血友病の息子の身を案じて退位したが、1918年に家族と共に、ボリシェビキに
よって、殺された。 ここにロマノフ王朝は幕を閉じた。
なったのは16世紀になってからのことである。 ロシアには、これまでに、2つの王朝が
存在しており、リューリック王朝(860年頃~1598年)と動乱の時代に続く、ロマノフ王朝
(1613年~1917年)が存在していた。
11世紀までは、『ルーシ』の中心地域は、現在のウクライナの首都であるキエフ周辺
だったため、ロシア正教会の中心地もキエフであったのだが、その周辺の現代
ウクライナとなっている南西ルーシ地域は、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国と
ポーランド王国によって征服されて以来、18世紀のエカテリーナ2世によるウクライナ
併合に至るまで、ウラジーミル、モスクワを始めとした北東ルーシからは切り離されて
いた。 よって、ロシアとウクライナは、同じ東方正教国家と言えども、それぞれ異なる
道を歩んで来た。
1237年にキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが率いるモンゴル軍(黄金軍団)に
滅ぼされ、その後、ロシアは、150年近くにも渡り、モンゴル・タタール軍の支配下となる。
1380年、モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイ率いるルーシ諸公連合軍は、クリコヴォの滅ぼされ、その後、ロシアは、150年近くにも渡り、モンゴル・タタール軍の支配下となる。
戦いで、キプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破ったが、一般的に、この1380年を以て、
ルーシは『タタールのくびき』から解放されたとされることが多い。
その後、モスクワ公国が名実共に『ルーシの第一人者』となって行くこととなるのだが、
この頃の『ルーシ』の統合はまだ緩やかなものであった。 1467年、ヴァシーリー2世の
長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアを
妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。 その後、イヴァン3世により、
豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド(1478年)と貿易の活発であったプスコフが
征服された。 その後、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)
等も次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公は、
ルーシ諸公、貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。
【イワン雷帝と息子のイワン】
イヴァン3世は初めて『ツァーリ』(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章が
モスクワ大公の紋章に加えられた。 次のツァーリである、イヴァン4世は、紙と印刷機の
導入、常備軍の創設等の近代化を進め、対外戦争(リヴォニア戦争など)を実行すると
共に、ロシア正教会への国家の統制を強めた。 イヴァン4世の統治の時代は、彼の
あだ名にもなっている『雷帝』にも象徴されるように、恐怖政治が吹き荒れた時代であった。
リューリック王朝最後の支配者である、ボリス・ゴドノフは、人望がなく、正当な王位
継承権を持つドミトリー王子を殺した疑いを持たれ、1605年に突然死すると、その後、
後継者を決める長い争いが始まり、1613年まで動乱の時代が続いた。
【ロマノフ王朝成立時のロシアの領土】
1613年、ミハイル・ロマノフが王に選ばれ、彼の一族がその後300年に渡って支配を
続けた。 異母姉であるソフィアから王位を強奪したピョートル大帝は、1689年から
1725年までを支配し、歴代皇帝の中でも最も精力的に動いた。 新しい首都を建設し、
海軍を創設し、教育と政府の改革を始めた。 ドイツの王女として生まれたエカテリーナ
2世は、1762年に女帝となり、30年以上にも渡って国を支配した。 エカテリーナ大帝とも
呼ばれて、強力な4人の女王の最後のひとりでもあった。 1913年、ニコライ2世は、
ロマノフ王朝の300周年を祝ったが、その4年後、戦争と市民の蜂起によって破局を迎え、
1917年、血友病の息子の身を案じて退位したが、1918年に家族と共に、ボリシェビキに
よって、殺された。 ここにロマノフ王朝は幕を閉じた。