東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の多言語翻訳『東京通詞』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:歴史

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ベラルーシのミンスク経由で午後10時半過ぎにヴィリニュス駅に到着した。
    そのままタクシーに乗って、宿まで行く途中で、スーパーに寄って貰ったところ、
    周囲の人達が、2回程、何やら英語でアドバイスをしてくれたため、よくよく
    ロシア語(ヴィリニュスは大体ロシア語が通じる)で詳細を問い返してみた
    ところ、『午後8時以降はアルコールの販売が禁止されているため、購入出来ない』
    とのことだった。 買うのであれば、ノンアルコールにしなさいとのことで
    あったが、にわかにはその話が信じられなかったため、タクシーの運転手に
    再度確認したところ、やはり、午後8時以降はアルコールの販売が禁止されており、
    特に、日曜日は、午後3時以降はアルコール販売は禁止されていると言われたため、
    この日は、ミネラルウォーターのみを買ってすぐに宿へと向かった。

    翌日早朝から、いよいよ、十字架の丘へ
    IMG_1074
    IMG_1075
    IMG_1076
    IMG_1077
    IMG_1078
    IMG_1079
    IMG_1080
    IMG_1082
    IMG_1083

    一夜明けて、午前7時代の電車で約2時間半掛けて、リトアニア第3の都市である
    シャウレイへと移動。 シャウレイ駅とバスターミナルは、歩くと実は10分弱
    掛かる。 しかも、バスの本数が非常に少なく、鉄道との接続が悪い。 更には、
    最寄の『ドマンタイ』のバス停から、十字架の丘までは、約2キロ程離れて
    いる。 このため、シャウレイ駅からタクシーで世界遺産の十字架の丘へと
    向かうことにした。

    実は、この十字架の下には、遺体は一切なく、すぐ隣りのラトビアやエストニア
    にも同様の十字架があるのだが、何故かリトアニアの十字架の丘だけが有名と
    なっており、世界遺産にも指定されている。

    今回、タクシーに乗って、時間を節約したのは、その後、リトアニア第2の
    都市であるカウナスへ移動するため。 実は、シャウレイからカウナスへは、
    鉄道で行くと、一旦ヴィリニュスまで戻って、更にV字に遠回りして行くため、
    1日で両都市を見て回る場合は、乗車時間の短いバスしかない。

    シャウレイからカウナスへは約3時間程度で、高速バスではなく、単なる一般
    バスであるため、距離の割には、妙に時間が掛かるため、どちらも余りゆっくり
    とは見て回る時間がないため、タクシーを使って、可能な限り、行きたい場所を
    限定して見て回るしかない。

    IMG_1084
    IMG_1085
    IMG_1087
    IMG_1088
    IMG_1089
    IMG_1090
    IMG_1091
    IMG_1092
    IMG_1093

    十字架の丘の歴史
    リトアニアは1795年の第3次ポーランド分割で、ロシア帝国の支配下に置かれる
    こととなった。 ポーランド人とリトアニア人はロシアに対抗して蜂起を起こした
    (1831年の11月蜂起、および1863年の1月蜂起)が、いずれも失敗に終わる。
    これら2つの蜂起はこの十字架の丘の始まりに関係している。 反乱兵の家族が、
    彼らの遺体のかわりに十字架をこの丘に建てたのである。 1918年、リトアニアは
    独立を回復。 独立期、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちの
    ために祈る場所となった。 その後、ナチスドイツのホロコーストや、再度
    ソ連の支配下へ置かれたりと、辛い時期を経験したリトアニアだが、この丘には、
    リトアニアの独立を願って、十字架を建てる人たちで溢れた。 1991年末に
    ソ連の崩壊と共に、リトアニアは再び独立を回復。 その当時、この丘には、
    約6万の十字架が建てられていたと言う。 現在は、約20万もの十字架が建て
    られているとも言われている。

    【十字架の数】
    1900年 130
    1902年 155
    1922年 50
    1938年 400 以上
    1961年 5,000 が破壊される
    1975年 1,200 が破壊される
    1990年 約 55,000

    リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年、十字架の丘は特別な意味を
    持っていた。 丘へ行き十字架を捧げることで、リトアニア人たちは彼らの宗教や
    遺産への忠誠心を示した。 それは、非暴力による抵抗を表していた。 にも
    関わらず、ソ連は3度に渡りブルドーザーでこの丘にある十字架を撤去しようとした。

    1993年9月7日、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの丘を訪れ、ここが希望と平和、愛、
    そして犠牲者のための場所であると述べた。 2000年、フランシスコ会の修道院が
    この丘の近くに完成した。 内部の装飾は、フランシスコの身体に聖痕が現れた
    とされるトスカーナのラ・ヴェルナのものと関連している。この丘は未だいずれの
    管轄にも属していないため、自由に出入りし、十字架を建てることが出来る。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    第二次世界大戦の歴史を展示している『大祖国戦争博物館』は、ミンスクを
    中心としたベラルーシにおける戦争の歴史を分かりやすく展示した博物館で、
    ミンスクを理解するためには、是非訪れて欲しい観光スポット。

    この博物館では、武器や写真、ジオラマ等による展示が行われており、
    ベラルーシでは『大祖国戦争』と呼ばれている『第二次世界大戦』の歴史を
    伝えている。 当時ミンスク郊外には、アウシュビッツ等に次ぐ第3のナチスの
    収容所があり、20万人が虐殺されたとも言われている。 その収容所の様子を
    伝える展示もあり、他の国では見る機会が非常に少ない貴重な戦争の博物館で
    あるため、改めて平和について考えさせられるミンスクのおすすめ観光スポット。

    IMG_0984
    IMG_0985
    IMG_0986
    IMG_0987
    IMG_0988
    IMG_0989
    IMG_0990
    IMG_0991
    IMG_0992

    ロシア語では、『第二次世界大戦』のことを『大祖国戦争』と呼ぶが、それは、
    対独戦で100万人以上にも及ぶ多大な戦死者を出したためこう呼ばれている。
    ミンスクの街は、ドイツ軍によって徹底的に破壊され、その後、社会主義経済に
    則り、復興されたため、ミンスク市内は旧ソ連式の大規模な建物が多い。

    戦争とは、幾ら語り継いだとしても、正確には伝わらないため、このような
    目で見て直接確かめることが出来る展示型の博物館が最も効果的。 米軍により
    爆撃を受けた仙台にも『戦災復興記念館』なるものがあるが、館内の展示品が
    少ないため、余り実際の戦争を想像出来ないのだが、この巨大な戦争博物館では、
    様々な展示品を用いて、かなり忠実に戦争を再現している。

    IMG_0994
    IMG_0995
    IMG_0996
    IMG_0997
    IMG_0999
    IMG_1000
    IMG_1004
    IMG_1005
    IMG_1006

    大祖国戦争博物館は、地下鉄の駅からは若干離れており、全ての展示を見て周る
    ためには、半日程度は必要。 但し、この日は、列車が出るまでの時間が少なかった
    たため、45分程度の駆け足での見学となってしまったが、もっとゆっくりと時間を
    翔けて、色々な事を考えながら見たい設備であった。

    案内に展示していある展示物は、実際に戦争で使用された物も多く、非常に
    生々しく、蝋人形を交えて、更に細かく説明をしているため、非常に分かりやすい
    設備であった。

    IMG_1012
    IMG_1013
    IMG_1016
    IMG_1018
    IMG_1030
    IMG_1035
    IMG_1048
    IMG_1064
    IMG_1066

    その後、ミンスク駅の1番線の一番奥にある21番線からビリニュス行きの電車に
    乗り、リトアニアの首都であるヴィリニュスへと旅立った。 ロシアから
    ベラルーシへ入国し、リトアニアへ抜ける場合、ベラルーシのビザが絶対に必要
    となる
    。 ビザをを所持していない場合、ここからリトアニアとの国境までは
    行けるものの、そこでビザがないことが判明すると、またミンスクまで強制的に
    連れ戻されるため要注意。

    べラルーシの国境が、実際のロシアとEUとの国境となるため、世界でも出入国
    審査が非常に厳しい場所となっている。 元々は、同じソビエト連邦という国
    だったのだが、体制が急激に変わったため、色々と面倒な手続きが増えた。

    >>トップページに戻る



    【お勧めの一冊】


    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ベトナムの歴史は、現代ベトナム人の祖先が少なくとも4000年前に住んでいた
    紅河デルタから始まる。 彼らはやがて耕作地を求めて南へと移動し、現在
    ベトナム中部とされている地域で、チャム族、クメール族と接触する。

    チャム族は現代カンボジア人と人種的に関係が深い種族であり、クメール族は
    メコンデルタを支配していた。 ベトナム人は結局、この2つの種族と紛争を
    引き起こし、18世紀半ばまでに敵対する種族を破って、現代ベトナムを
    形作くっている国土の全部を支配した。

    shutterstock

    【初期の諸王国】
    遺跡の発掘で分かったことだが、紅河デルタに最初の大きな中央集権の国が
    現れたのは紀元前800年ごろだった。 当時を『ドンソン文化期』と言う。
    人々はデルタの河川の治水のため、堀や運河を掘った。 また、らく田と
    呼ばれる稲作水田の灌漑に、南シナ海の潮の干満を利用した。 洪水や日照りから
    土地を守り、また、灌漑をすることによって、ドンソン文化期には必要な
    だけ収穫をあげていた。

    ドンソン人たちは、丸木舟など小舟を使って旅や交易をした。 インドシナ
    半島での交易を通じて冶金の知識を広げ、青銅器の制作を学んで工具、武器、
    鼓、器や装飾品を作った。

    紀元前250年前に、ベトナムの支配者、安陽王は、デルタ地帯のドンソン人たちと
    近隣の高地の人々を統合して、オウラク王国を打ち立てた。 その首都は、
    ハノイの32km北にあるコーロアだった。 王国の人々は大概、現地の土豪の
    所有地である稲作水田で働く農民だった。

    紀元前207年になると、中国の将軍、趙佗が紅河デルタを征服し、自ら王に
    なって独立国、南越を打ち立て、中国の承認を得た。 紀元前111年には、
    中国(前漢)の武帝の軍隊が南越を襲って滅ぼし、中国領にしてしまった。

    中後くの文化はベトナム社会を変えた。 例えば、中国の儒教哲学が、
    ベトナムにおける政治と日常生活の厳格な規範となった。 また、ベトナム人は
    中国の官吏や教育者が読み書きに使っていた漢字を採用した。

    中国のベトナム支配は1000年間続いた。 その間、ベトナムの知識階層は
    、中国の仏教信仰をはじめ、中国文化を受け入れて行った。 中国人はまた、
    ベトナム人に養蚕、貨幣の鋳造、磁器の生産を教えた。 ベトナムの海岸沿いに、
    対外貿易を推し進めるために港もいくつか建設した。 貿易が発展するにつれて、
    富と力を蓄えたベトナム人の一族も出て来た。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    英語の歴史は1500年以上にも及ぶ。 5世紀にアングロ・サクソン人たちによって
    イングランドにもたらされた英語は、イングランド全域に定着するだけでも1000年
    以上の歳月を要している。 イギリス諸島を離れて本格的に海外進出を始めたのは
    17世紀初頭になってからのこと。

    英国史上に残る様々な出来事は、英語の伝播においてもターニングポイントと
    なった。 1066年のノルマン征服を境にアングロ・サクソン人による支配が
    終わりを告げ、フランス出身の王たちがイングランドを支配するようになる。
    フランス語およびラテン語が公的な言語となり、標準語として徐々に発達しつつ
    あった英語は、一転して庶民の使う日常語という地位に甘んじることになった。

    しかし英仏百年戦争(1337~1453)によって、フランス語への敵意と、英語が自国語
    であるという意識が芽生えてくる。そして16世紀頃になると宗教改革が起こり、
    格調高いが専門家しか理解できないラテン語の書物よりも、多少拙くとも誰にでも
    わかる土着語による書物が重んじられ始めた。 さらに印刷技術の普及も相まって
    英語の「社会進出」は加速して行く。 

    そんな個々のプロセスから、さらに一歩視点を下げて大きな流れを見て行くと、
    他の言語から取り入れられた「借用語」が英語発展の鍵になっていることがわかる。

    60f5fdd32

    英語で洗練された文章を書こうとすると、語彙不足のために満足な表現ができない
    ことが度々あったため、表現力不足を解消する1つの方法として作家や翻訳家たちが
    行っていたのが、外国語から語彙を借用することだった。

    フランスからの借用語は政治や宗教、軍事、ファッション、食文化、学問などに
    関するものが多く、ギリシア語は専門的で高度な語が多い。 ラテン語は借用の
    時期によって傾向が全く異なる。 至るところで、おなじみの単語の意外な
    ルーツに出くわす。 語彙の乏しさによる劣等感をバネに、英語が他の言語を
    巻き込みながらうねるように広まっていた様子が分かる。

    国際標準語として不動の地位を確立した英語。 メインの言語として話す
    「母語話者」がいない会話でも使われるほど、その影響力は大きい。だが元を
    辿れば、英語にも北ヨーロッパの片田舎で使われる言語に過ぎなかった時代がある。

    オランダやドイツの一部地域で使われる、フリジア語という言語があるそうだ。
    現在の話者は約50万人で、そのほとんどがオランダ語あるいはドイツ語との
    二言語併用者である。 実は、フリジア語と英語それぞれの元になった言語は、
    隣り合う地域で使われる方言同士だった。 英語史を勉強すると、英語と最も
    系統の近い言語としてフリジア語の名が出されるという。

    地理的にも言語的にも事実上同じところから出発したと言っていいような言語が、
    片や世界的な存在に、片や母語話者もほとんどいない状態になっているのは、
    英語史を紐解く上で、非常に興味深い。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    【古英語とバイキングの侵入】
     現代英語の元となった古英語は、実は、アングル族が持ち込んで来た言語
    であり、アングロサクソン人が1100年頃まで使っていた言葉である。 つまり、
    系統的には、インド・ヨーロッパ語族の中の西ゲルマン語群に属する言葉と
    なっている。 現代英語の基礎的な単語は、その殆んどが、アングロサクソンの
    言葉であると考えて差し支えない。

    やがて、紀元前597年には聖オーガスティンがケント州からキリスト教の布教を
    開始、イギリスがキリスト教化するに伴って、キリスト教に関連した多くの
    ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語起源の語彙が英語の中に入って来た。

    8世紀に入ると、バイキングと呼ばれる人々がスカンジナビアからイギリスへと
    侵入して来る。 彼らもまた、ゲルマン民族の一派であったが、彼らの言葉は
    同じゲルマン語でも北ゲルマン語群に属していた。 彼らは先住のアングロ
    サクソン人と激しい戦いを繰り広げた後、ローマ人の築いたウォトリング街道の
    北東部に定住することとなった。 その結果、その地域は、デーンロー地域と
    呼ばれ、現在もスカンジナビア起源の地名が残っている。 現代英語の中にも
    900語ほどスカンジナビア起源の語彙が残っている。

    globaler

    【フランス語の侵入】

    バイキングは、フランスのノルマンディーに国を建て、彼らは、やがて文化的には
    フランスに融合し、言葉もフランス語を用いるようになって行った。 1066年
    には、ノルマンディー公ウィリアムが、イギリスに侵入し、ヘイスティングスの
    戦いにおいて、ハロルド王を打ち破ってイギリスの王位に就いた。 いわゆる、
    ノルマン征服王朝の成立である。 この時、ウィリアムは、国政と宗教の主な
    ポストには、全てフランスから連れて来た家臣をあてたので、以後数世紀に
    渡って、イギリスの重要なポストには、フランス語を母国語とする人々で占め
    られることとなった。

    国王も例外ではなく、ハロルド王以後は、ほぼ300年の間、英語を用いる王は
    居なかった。 そして、この間に、英語は実に多くのフランス語の語彙が入った。
    それは、ちょうど今日の日本語に、本来、日本語にあった大和言葉と漢語と
    呼ばれる中国語が混在している状況と良く似ている。 日本語の中に漢語に
    あたるものが英語ではフランス語やラテン語となっている。

    englischea

    【英語の復活から世界支配へ】

    しかし、ウィリアムと共にイギリスへ渡って来た支配階層も、時が経つに連れて、
    土地の女性と結婚し、生まれて来る子供の世話をする乳母にも土地の女性を雇う
    などしているうちに、次第にフランス語を失って行った。 やがて、13世紀に
    入ると、中世英語で書かれた詩なども出て来るようになり、1337年にフランスとの
    間に百年戦争が起こると、英語に対する意識が急激に高まり、1362年には、議会の
    開会宣言が初めて英語で行われた。

    やがて、15~16世紀になると、現在の英語に近い近代英語が成立し、
    シェイクスピアを初めとする英文学史上でも良く知られた人々の活躍が始まる。
    ちょうどこの頃、ヨーロッパでは大航海時代が始まり、コロンブスがアメリカ
    大陸へ到達し、やがて英語を話す人々は、北アメリカ大陸へも移住を始めた。
    こうした歴史を反映して、アメリカの英語の中には、実は、シェイクスピアの
    時代のイギリス英語に近いものが残っていることがある。

    もちろん、近代的なテクノロジーや音楽、映画などの娯楽産業、それに政治、
    経済の先進国であるアメリカで生まれた言葉がイギリスに逆輸入されることも
    多いが、現代アメリカ英語の発音や、日常会話の語彙の中には、イギリスの
    この時代の発音や語彙が残っていることがあり、人々は、それとは知らずに
    使っていることが良くある。

    近代に入ってイギリスが広大な植民地を建設した結果、英語はアメリカ大陸のみ
    ならず、アジアやアフリカからオセアニアまで世界中の広い地域で使われるように
    なった。 そして、現在では、互いに英語を母語としない人々の間でも国際的な
    共通語の言語として使われている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成し、領邦国家となった。
    その集団の中でも、最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、
    800年から1806年まで存続した。  元々、この地域では。ドイツ語を話す集団と
    して、ある程度のまとまりは見せていたものの、それぞれの小国家にハッキリと
    分かれていたため、それぞれの独自性は維持された。

    その後、フランスのナポレン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は解体
    されたが、当時のドイツ北東部にあった強国、プロイセンによって、いくつかの
    同盟と戦争を経て、他の国々をまとめ上げたため、初めてのドイツ民族による
    統一国家が1971年に建国された。



    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。

    ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に割譲させられた。
    戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊されたものを修復する費用
    として、多額の賠償金を課せられた。

    ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせてくれる指導者を
    待望する動きが現れた。 アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党
    (ナチス)という小さな政党の党首であったが、ドイツの苦境を連合国や
    ヨーロッパのユダヤ人等のせいにして非難することで、国民の人気を集めた。
    1933年、ヒトラーは、その人気を利用して、ドイツの首相となった。 そして、
    間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。
    ナチスは、強制収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)
    等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた事実が明らかになった。

    1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。 西側諸国の
    力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。 社会主義政権の
    支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の約束を
    守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに困難な事業で
    あった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政によっても殆ど解決
    し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、老朽化しているために、
    労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ないところもあった。

    ドイツ再統一後、ドイツ経済の勢いに陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの
    近代化に毎年700億ドルを支出しなければならなかった。 しかし、2010年以降は、
    力強い経済発展を遂げ、現在では、EUの中でも1人勝ちとも言える程の経済力を
    誇っている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    花の都とも呼ばれるフランスの首都パリは、世界で最も華やかな都市として知ら
    れている。 パリの市街地は、東西11キロ、南北8キロの楕円形に近く、東京の
    JR山の手線の内側ぐらいの広さとなっている。 セーヌ川を挟んで、北側を右岸、
    南側を左岸と呼んでいる。 左岸は主に商店街として、左岸は学生街や官庁街
    として発展して来た。 市街地は近郊の3県まで広がり、更にその外側にまで
    街並みが続いている。

    2088f46b

    パリは元々は、セーヌ川にあるシテ島から開かれた街であり、今から2000年
    以上前、ケルト系のパリシィ族がこの地に住み着いたとされている。 その後、
    12世紀頃から国王が居住する地となり、14世紀には、ノートルダム寺院が建て
    られた。 16世紀から17世紀に掛けて、ルーブル宮をはじめ、多くの宮殿や
    庭園が造られ、今もその多くが残されている。

    今見られるような道路や建物を含めた街並みが出来たのは、19世紀後半、
    ナポレオン3世の命を受けたセーヌ県知事のオスマンが指揮した大改造計画に寄る
    ものである。 オスマンは凱旋門のあるエトワール広場(現在のシャルル・ド・
    ゴール広場)から放射線上に伸びる道路を造った。 そして、その両側に同じ
    高さの建物を並べ、建物の正面の柱やバルコニー、窓などを色々な模様で飾り
    立てるようにした。

    DSCN1896

    その後も、パリは少しづつ、時には、大胆に変わって行った。 1889年、
    フランス革命百周年を記念して建てられたエッフェル塔は、当時は『美観を損ねる』
    として批判を浴びたが、今では、すっかりとパリの顔となっている。

    20世紀後半にも、ポンピドゥー芸術文化センターや、ルーブル美術館の中庭の
    ガラス張りのピラミッド、凱旋門の西のデファンス地区に建てられた新凱旋門など、
    パリの新しい顔が次々に登場している。



    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や植民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が>暮らしていた。 北には、アラワク族とカリブ族が、東には、
    トゥピー・グアラニー族がおり、南には、ジェー族が、西にはパーノ族が
    住んでいた。 人々は、豊かな森で狩りを行い、海辺や川では漁をしてして
    暮らしていた。

    熱帯地方の人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、
    キャッサバ芋を栽培していた。 集落もあり、茅葺屋根の小さな長屋が
    集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、一家族だけではなかった。
    これらのブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも言われる。

    彼等は、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。 彼等は、
    工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からカゴや壺や装飾品を作った。

    一方、ヨーロッでは、15世に航海と探検の時代が始まった。 航海者達は、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を
    探す冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民達は、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人
    からインド人(スペイン、ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。

    0c48ba71


    コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルとスペインの間に新しい領土の
    獲得戦争が始まった。 この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に
    防ぐために、1493年、法王であるアレクサンデル6世は、ヴェルデ岬諸島の
    西およそ560キロの大西洋上を南北に通る想像上の線を引き、両国の領土国境線
    とした。

    この線から西の全ての新しい領土は、スペインに、東はポルトガルに帰属する
    ことになった。 両国は、この取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが
    不満を持ち、境界線を1,500キロほど西に移すように主張した。 この第二の
    境界線は、1494年にスペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。
    この境界線は、ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが
    主権を主張する根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督である
    ペドロ・アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由して
    インドに向かう途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、
    今のバイア州の海岸だった。 彼等は、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は、土地譲渡の制度を設立し、領地を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部では、オリンダや、
    サルヴァドール、更に南には、センヴィテンセに立派な植民地が誕生した。
    1548年、カピタニーアは統一され、国王が任命する総督の支配を受ける
    ことになり、サルヴァドールが首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期ブラジルの北東部を武力で占拠し、
    ポルトガルの統治は途絶えた。 1630年、オランダは、ペルナンブコと
    オリンダを占拠し、マラニョン島からサンフランシスコ川下流域までの一体を
    支配した。 しかし、1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、
    支配権を奪い返した。 オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いた
    のは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビの
    プランテーションを作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産する
    プランテーション農業は、多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民の
    インディオを奴隷とした。 沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ
    病気で死んだり、反抗して殺されたりした。 このために、インディオに
    代わる労働力が必要となり、植民者達は、アフリカからおびただしい数の
    黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、
    サルヴァドールとレシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの
    都市は、アフリカに近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ 通訳・翻訳(英語以外)へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    東日本と西日本の境界線は、どこなのか? この問いに対して、明確な
    答えはない。 厳密に言うと、あり過ぎるため、何を基準にして『境界線』
    とするのかで、その中身が大幅に変わって来ると言える。  問題となるのは、
    『中部地方』で、その分け方によって、『東日本』になったり、『西日本』に
    なったりしている。

    【地質学から見た境界線】
    日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては、『東北日本』と『西南日本』の
    境目となる地帯。 中央地溝帯、大地溝帯とも呼ばれ、本州の中央部を横断する
    フォッサマグナの西辺に当たる、『糸魚川静岡構造線』、これが日本列島を
    東西に分ける、地質学的な境界線である。 この糸魚川静岡構造線よりも東が
    北アメリカプレート、西がユーラシアプレートと呼ばれ、その境界地域では
    火山活動や地震が起こりやすいことは良く知られている。

    この基準で言うと、静岡~長野~岐阜~富山から西側が『西日本』となる。

    5b22d955


    【歴史から見た境界線】
    日本を東西に分かつ言葉として、古くから『関東』『関西』という言葉がある。
    『関西』という言葉は、奈良時代には既に使われており、越前の『愛発の関』、
    美濃の『不破の関』、伊勢の『鈴鹿の関』の3つの関所を結んだ線より西側を
    『関西』と呼んでいた。 歴史的にはこの線が、東日本と西日本の境界線と言える。
    『関東』という言葉が使われるようになるのは、室町時代以降で、その場合の
    関とは、箱根の関所を指している。 よって、関東では、静岡からは既に
    『西』と感じる場合が多い。

    この基準で言うと、愛知~岐阜~福井から東側が『東日本』となる。

    08060139


    【行政上の境界線】
    明治維新後、日本は8地方に区分され、その場合、三重県は『近畿地方』に
    属するが、国税庁、裁判所、法務省、衆議院比例区などの区分では、『近畿』
    ではなく、『東海地方』に含まれている。 但し、三重県に『東日本』の要素は
    全くないため、三重県は、やはり、完全に『西日本』。

    【電気の境界線】電力の周波数は、新潟県糸魚川から群馬、
    長野県堺、静岡県の富士川を結ぶラインを境として、東日本が50ヘルツ、
    西日本が60ヘルツと分かれている。 これは明治時代に当時の電力会社、
    『東京電燈』が関東でドイツ製発電機を、『大阪電燈』が関西でアメリカ製
    発電機を、周波数が違うのに独自に採用したことに端を発している。

    この基準で言うと、静岡~長野~富山から西側が『西日本』となる。

    3a5e0420


    【味覚の境界線】
    料理の味付けは、関東では鰹だし、関西では昆布だしが基本。 日清食品では、
    市場調査に基づいて、名古屋市付近を境として、東日本味、西日本味の2種類の
    カップうどん『どん兵衛』を販売している。 東洋水産の『赤いきつね』も
    同じように東西で異なるだしのものが販売されている。

    7f1bfa49


    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る

    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    『ロシア』という国名が最初に文献に登場するのは15世紀末、広く用いられるように
    なったのは16世紀になってからのことである。 ロシアには、これまでに、2つの王朝が
    存在しており、リューリック王朝(860年頃~1598年)と動乱の時代に続く、ロマノフ王朝
    (1613年~1917年)が存在していた。

    03332

    11世紀までは、『ルーシ』の中心地域は、現在のウクライナの首都であるキエフ周辺
    だったため、ロシア正教会の中心地もキエフであったのだが、その周辺の現代
    ウクライナとなっている南西ルーシ地域は、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国と
    ポーランド王国によって征服されて以来、18世紀のエカテリーナ2世によるウクライナ
    併合に至るまで、ウラジーミル、モスクワを始めとした北東ルーシからは切り離されて
    いた。 よって、ロシアとウクライナは、同じ東方正教国家と言えども、それぞれ異なる
    道を歩んで来た。

    1237年にキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが率いるモンゴル軍(黄金軍団)に
    滅ぼされ、その後、ロシアは、150年近くにも渡り、モンゴル・タタール軍の支配下となる。
    1380年、モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイ率いるルーシ諸公連合軍は、クリコヴォの
    戦いで、キプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破ったが、一般的に、この1380年を以て、
    ルーシは『タタールのくびき』から解放されたとされることが多い。

    その後、モスクワ公国が名実共に『ルーシの第一人者』となって行くこととなるのだが、
    この頃の『ルーシ』の統合はまだ緩やかなものであった。 1467年、ヴァシーリー2世の
    長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアを
    妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。 その後、イヴァン3世により、
    豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド(1478年)と貿易の活発であったプスコフが
    征服された。 その後、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)
    等も次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公は、
    ルーシ諸公、貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。

    【イワン雷帝と息子のイワン】 

    img_0

    イヴァン3世は初めて『ツァーリ』(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章が
    モスクワ大公の紋章に加えられた。 次のツァーリである、イヴァン4世は、紙と印刷機の
    導入、常備軍の創設等の近代化を進め、対外戦争(リヴォニア戦争など)を実行すると
    共に、ロシア正教会への国家の統制を強めた。 イヴァン4世の統治の時代は、彼の
    あだ名にもなっている『雷帝』にも象徴されるように、恐怖政治が吹き荒れた時代であった。
    リューリック王朝最後の支配者である、ボリス・ゴドノフは、人望がなく、正当な王位
    継承権を持つドミトリー王子を殺した疑いを持たれ、1605年に突然死すると、その後、
    後継者を決める長い争いが始まり、1613年まで動乱の時代が続いた。

    【ロマノフ王朝成立時のロシアの領土】
    russia01s_ani


    1613年、ミハイル・ロマノフが王に選ばれ、彼の一族がその後300年に渡って支配を
    続けた。 異母姉であるソフィアから王位を強奪したピョートル大帝は、1689年から
    1725年までを支配し、歴代皇帝の中でも最も精力的に動いた。 新しい首都を建設し、
    海軍を創設し、教育と政府の改革を始めた。 ドイツの王女として生まれたエカテリーナ
    2世は、1762年に女帝となり、30年以上にも渡って国を支配した。 エカテリーナ大帝とも
    呼ばれて、強力な4人の女王の最後のひとりでもあった。 1913年、ニコライ2世は、
    ロマノフ王朝の300周年を祝ったが、その4年後、戦争と市民の蜂起によって破局を迎え、
    1917年、血友病の息子の身を案じて退位したが、1918年に家族と共に、ボリシェビキに
    よって、殺された。 ここにロマノフ王朝は幕を閉じた。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ