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    タグ:樺太

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    アイヌとは、主に北海道に住む先住民族であり、元々、アイヌ語では『人間』を
    表していた。 アイヌ民族は、北海道、樺太南部、千島列島にまたがって
    居住しており、それぞれ北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌと呼ばれた。

    アイヌ語は、言語学的には孤立した地位を占める。 形質状の特徴から
    コーカソイドに属すると考えられたこともあったが、今日ではモンゴロイドの
    一部である、古アジア系民族に入るという説が確定している。

    【アイヌ民族博物館でのアイヌ古式舞踊】


    アイヌ民族は、日本の近代化の過程でその数を大きく減らし、その生活様式も
    大きく変わった。 主に北海道、もしくは、首都圏に居住しているが、アイヌ
    民族であることを隠す人も多く、正確な人口は分かっておらず、2006年北海道内
    での調査に応じたアイヌ人の数は、23,782人しかいなかったものの、実際は、
    その数倍から数十倍のアイヌ人が居るものと思われる。

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    アイヌは、大和朝廷を中心とする日本とは全く異なる歴史をたどって来たが、
    『一つの列島、二つの国家、三つの文化』という言葉が示す通り、アイヌ民族は、
    自身の国家を建てることはなかったものの、独自のアイヌ文化を打ち立てた。
    近代以前においては、北東アジア有数の海洋交易民族だった。

    大和朝廷は、古来から東方の『まつろわざる民』を『蝦夷(エミシ)』と称しており、
    これがアイヌの祖先の一部と考えられている。 蝦夷の征服事業は、長らく朝廷の
    国家事業として行われたが、征夷大将軍坂上田村麻呂がアテルイを破ったことで
    一旦終結する。 朝廷の支配下に入った蝦夷は、俘囚と呼ばれ、奥州(東北地方)
    では俘囚と和人が入り交じって生活するようになった。 やがて、奥州は安倍氏、
    清原氏を経て奥州藤原氏によって統一され繁栄を極めるが、鎌倉幕府によって
    滅ぼされてしまう。

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    本州で弥生時代が始まった後も蝦夷が狩猟、採集生活を続けた時代を続縄文時代と
    呼び、北海道では、7世紀頃まで続いた。 7世紀に入ると、オホーツク海周辺に
    またがるオホーツク文化が登場し、北方の諸民族の文化がもたらされた。 北東部を
    除く北海道では擦文文化が成立したが、13世紀に入ると、この擦文文化、オホーツク
    文化両者の特徴を取り入れたアイヌ文化が成立した。 また、この頃から日本では
    蝦夷(エミシ)は蝦夷(エゾ)と読まれるようになり、蝦夷(エゾ)がほぼアイヌ民族を
    指すようになる。
     
    オホーツク文化の影響を受けたアイヌは、積極的に周囲の民族と交易を行ったが、
    その過程で中国の王朝とも接触を持った。 中国の史書によると、先にモンゴル
    帝国に服属していたギリヤーク人が、毎年のようにアイヌが攻めて来ると訴えた
    ため、モンゴルは軍を樺太に送り、これを征討したとのことである。 これに
    よって、アイヌは一時的に樺太から追いやられたが、アイヌがモンゴルへの朝貢を
    行うようになったことで、アイヌと大陸との交易はむしろ盛んになった。

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    その後成立した明は、北方民族への影響力を失い、アイヌと大陸の交易が大幅に縮小
    したため、アイヌは、対日交易偏重を余儀なくされた。 鎌倉時代後期頃から、
    アイヌは渡島半島の『渡党』、北海道太平洋岸と千島の『日の本』、北海道
    日本海岸と樺太の『唐子』の3つに分けて認識しており、これは、そのまま、
    松前藩、東蝦夷、西蝦夷となる。

    交易に関する諍いから始まったコシャマインの戦いは、渡島半島から胆振、後志に
    渡る広い範囲で行われたが、武田(蠣崎)信広がコシャマイン父子を討ったことで
    和人の勝利に終わった。 これ以降、渡党の中での蠣崎氏の地位は決定的なものと
    なった。 蠣崎季広の時代には戦国大名の一つとして数えられるようになり、豊臣
    秀吉への臣従を経て、徳川家康によって蝦夷地支配を認められ、その後、松前氏と
    改称、江戸時代に入って松前藩を建てた。

    江戸時代の鎖国政策下にあってもアイヌの北方民族との交易はそのまま認められた
    ため、アイヌを通じて日本に入った清の物産は高値で取引されるようになった。
    このような江戸時代のアイヌと沿海州の北方民族との交易を山丹交易と呼び、この
    時代アイヌは北方において日清両国を繋げる存在であったと言える。

    当初の松前藩の影響力は限定的なものであったため、北海道の各地でアイヌ人有力
    首長が登場するようになる。 その内の一人、シャクシャインが松前藩に対して
    蜂起を行ったものの敗北し、これにより、松前藩によるアイヌ民族の統制はさらに
    強化されて行く。 また、この頃から場所請負制が始まり、アイヌ民族は過酷な
    搾取にあえぐことになる。 松前藩の力が行き届いていない道東、国後島を中心に、
    クナシリ・メシリの戦いが起きるが、結局は鎮圧され、北海道、南千島は完全に
    日本の領域下となった。

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    戊辰戦争以降、北海道の開発のため開拓使が設置され、本州からの移民が激増
    した。 このため、アイヌ民族は次々と土地を失った。 アイヌは本州からの
    移住者達からは差別の対象とされ、『北海道旧土人保護法』の下、土地を制限され、
    日本との同化政策が行われた。 千島・樺太交換条約で千島が、ポーツマス条約で
    南樺太が正式に日本の領土となったことでアイヌ民族の居住地は、ほぼ全て日本の
    領土内に入ったが、日露の国境地帯となった千島・南樺太では、アイヌ民族が
    以前のような生活をすることは不可能となっていた。

    太平洋戦争末期、ソ連が南樺太・千島を占領すると、多くのアイヌ人は『日本国民』
    として北海道に移住し、その後も北方領土問題が解決しなかったことから、千島
    アイヌ、樺太アイヌの伝統は途絶えた。 戦後も長らくアイヌは差別の対象で
    あったが、北海道アイヌ(ウタリ)協会の活動もあって、1997年アイヌ文化振興法が
    制定され、アイヌの立場は向上しつつある。

    北海道白老町にある『アイヌ民族博物館』は、アイヌの文化遺産を保存公開する
    ために作られた施設で、それまで白老市街にあったアイヌ集落を1965年にポロト
    湖畔に移設し、アイヌ民族や北方少数民族の資料、図書等を展示している。 この他
    にも、アイヌの伝統的な住居であったチセを再現、野外展示しており、1984年に
    国の重要無形文化財に指定されたアイヌの古式舞踊も1時間毎に再現されている。

    【お勧めの一品】


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    江戸時代、幕府直轄領として『蝦夷地』と呼ばれていた樺太。 この島は、北海道の
    最北端、宗谷岬の北、約43キロに位置しており、1855年(安政元年)にロシアと
    交わした日露和親条約の時点では、日露両国民混在の土地とされていた。 しかし
    1875年の千島樺太交換条約で、明治政府が樺太を放棄したため、一旦は全島が
    ロシア領となる。

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    その後、日露戦争で戦勝国となった日本が、1905年のポーツマス条約により北緯
    50度以南を再び領有する事になり、以後、第二次世界大戦敗戦までの約40年間、
    日本による樺太各地の開拓が進められた。 1945年の終戦当時の豊原市
    (現ユジノサハリンスク市)の人口は40万人程だったと言われている。

    この1905年から1945年までの日本統治下時代、朝鮮民族は、労働者として南樺太に
    移住し、終戦後、そのままサハリンに残留した。 日本の敗戦後、日本人の多くは、
    樺太から船に乗って次々と去って行ったが、日本にもソ連にも属していなかった多くの
    人々が、この地に残り、そのままソ連社会と同化した。 終戦当時、樺太在住の
    朝鮮人は、約4万3千人ほど居たとされている。 1946年12月、米ソ間に交わされた
    『ソ連地区引揚げ米ソ協定』では、引き揚げ者の対象は、以下の者だけに限定された。

    ①日本人捕虜 ②一般日本人 ③北朝鮮へ引き揚げを希望する在日韓国朝鮮人の
    うち、北緯38度以北に居住し、且つ、同地域で出生した者
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    樺太の朝鮮人の多くは、38度以南(韓国)出身者であり、且つ、終戦後、日本国籍を
    外されたために、引き揚げ対象とならずに放置されてしまった。 樺太を去る日本人は、
    朝鮮人を自国民として受け入れる事を拒み、更に朝鮮半島の不安定さがコミュニティを
    中ぶらりんの状態にした。 

    この朝鮮人達が樺太、現在のサハリンに移住したのには2つの説ある。 ひとつは、
    日本人が朝鮮人をサハリンへ強制連行し、強制労働をさせたが、終戦後に朝鮮人
    から国籍を奪い選択権を与えなかったため、朝鮮人が置き去りにされた。 もうひとつの
    説は、4万3千人全員が日本のせいではなく、開拓者精神に富んだ朝鮮人自らが
    新天地を求め自発的に渡ったとするもの。

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    当時の動員計画では、約1万6千人が強制連行ではなく、徴用か募集であったため、
    既に日本の管理下ではなかったソ連からの帰国支援には限度があり、日本が引揚げの
    機会を奪った訳ではなく、戦後、韓国政府が全ての朝鮮人を日本国籍から離脱させる
    事をGHQに要請し、サハリンの朝鮮人も自分を日本人ではないと主張したとも言われて
    いる。 また、ソ連も朝鮮人の出国を許さなかった。 更に、受け入れに積極的ではない
    韓国政府が帰還実現を拒否したとも言われている。

    当時ソ連と韓国は国交がなかったため、朝鮮人の帰国は、日本が経由地となった。
    日本は人道支援としていたが、韓国側は日本の戦争責任と捉え、日本に全部面倒を
    押し付けた。 個人補償分も日韓基本条約で全て決着済みであったため、日本は
    韓国に対して、国家予算級の莫大な金を渡したのである。

    戦時下、朝鮮からの動員は官斡旋であった。 ブローカーの搾取と酷い労働条件で
    働かされる事を防ぐ目的があった。 日本への個人渡航は制限があったため、密航で
    入国していた時代。 内地に渡るために無料の戦時動員を利用し、隙を見て逃走する
    朝鮮人も居たと言う。 現在、韓国への帰国対象とされている、サハリンの朝鮮人
    1世は、約1,000人居ると言われているものの、韓国政府が、帰国に対して乗り気では
    ないため、そのままの状態で捨て置かれている。

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    このようにそれぞれの国の歴史に翻弄され続けながら、力強く北の大地で生き抜いて
    いるサハリンの朝鮮人達は、ロシア人でも朝鮮人でもない自分たちのアイデンティティーを
    持っている。 ロシア人からは朝鮮人的と見られ、韓国人からはロシア人的に見られる
    サハリンの朝鮮人達だが、既に朝鮮語の能力をほぼ失っているため、残念ながら、
    ロシアと韓国との架け橋にはなり切れてはいない。

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