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伊達家家臣である、支倉常長(はせくら つねなが)は、今から約400年ほど前の
1613年に、石巻市月ノ浦を出航し、慶長遣欧使節団を率いて、日本人として
初めて、太平洋、並びに、大西洋を横断して、ヨーロッパまでの渡航に成功し、
ローマで貴族に列せられた。 洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。
日本人として、初めてコーヒー、並びに、チョコレートを食した人物とされて
いる。

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世界記憶遺産に登録されている、仙台市博物館所蔵の『支倉常長』の肖像画

慶長遣欧使節団は、仙台藩が単独で派遣を行った使節団であり、スペイン人の
フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを副使とし、常長が正使となった。 総勢
180名で組織され、ガレオン船サン・ファン・バウティスタ号でスペインを経由
してローマを目指した。

この使節団の目的は、通商のためとされているが、実際のところは、仙台藩と
スペインとの軍事同盟を結ぶ事が目的だったとも言われており、伊達政宗が
徳川宗家を倒すための足掛かりだった可能性も否定出来ない。

慶長17年(1612年)、常長は、第1回目の使節として、ソテロと共に浦賀より
出航するも、暴風に遭い座礁し、遭難した。 再度仙台へ戻り、慶長18年9月15日
(1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。

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出航後、常長らの一行は、まず、北アメリカ大陸の太平洋岸にあるアカプルコへと
向かった。 アカプルコからは、陸路で大西洋岸のベラクルスへと移動し、
ベラクルスから再度、大西洋を渡り、コリア・デル・リオ(スペイン・
アンダルシア州セビリア県)に上陸した。 その後、慶長20年1月2日(1615年1月
30日)には、スペイン国王フェリペ3世に謁見を果たしている。

その後、更にイベリア半島から陸路でローマへと渡り、元和元年9月12日(1615年
11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。 また、その後もマドリードに
戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。

しかし、この時既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、通商交渉は
成功する事はなかった。 常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日
(1620年9月20日)に帰国した。 この際、一部の使節団員は、既にキリスト教に
改宗していたため、その地に残り、その後、その子孫達は、『日本』を意味する、
『ハポン姓』を名乗り、現在に至っている。

慶長遣欧使節団の帰国時には、日本では既に禁教令が出されており、常長は、
帰国から2年後に失意のうちに死去した。 その後の支倉家は、嫡男常頼が後を
継いだが、寛永17年(1640年)に、家臣がキリシタンであった事の責任を
問われて処刑され断絶した。 しかし、寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の
代に許されて家名を再興した。


仙台は再び世界へ

常長らが持ち帰った『慶長遣欧使節関係資料』は仙台市博物館に所蔵されており、
平成13年(2001年)に国宝に指定され、2013年にはユネスコの『世界記憶遺産』に
登録された。 その資料の中には、常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵
としては最古のものとされている。 資料の中に『支倉』を古典ラテン語表記で
FAXICVRA と表記した部分があり、当時『ハ行』を唇音で発音していた証拠と
なっている。

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スペイン、イタリア、フィリピン、キューバを始めとして、世界各地に残る『支倉常長像』

これらの資料は、主にスペイン側が保管していたものを、仙台市へと寄贈したもの。
また、世界記憶遺産に登録を果たしたのも、スペイン政府からの後押しが強かった
ためとも言われています。

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