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    タグ:東日本大震災最大の被災地

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    宮城県女川(おながわ)町は、東日本大震災により、住民の約10名に1名以上が
    死亡した最大の被災地。

    img_6640

    死亡率=(死者数+不明者数)/(死者数+不明者数+避難者数)×100とした時、
    東日本大震災で最も高い死亡率となったのが、女川町の55.9%。 これは、女川町が
    甚大な被害を受けた事を如術に物語っている。 津波の高さは、20mにも達し、
    遡上高では、約43mを記録したため、山間部にあった集落までもが、全壊の被害と
    なったのである。



    【地元民の助けで中国人研修生数百名以上が津波から無事生還】

    portrait
    故 佐藤充さん(当時55歳)

    佐藤水産役員の佐藤充さんは、地震直後に大連出身の中国人女性研修生20人
    全員を寮から誘導して、高台の神社に避難させた。 研修生の安全を確認した後、
    佐藤さんは寮に残した妻と娘を捜しに戻ったものの、残念ながら中国人
    研修生たちが見ている目の前で津波にさらわれ、帰らぬ人となった。

    反日感情を変えた『女川町の奇跡』

    震災後一週間経って、女川の佐藤水産で研修していた20名の中国人研修生は中国に
    帰国した。 断続して発生する余震やまた来るかもしれない津波から逃れるため
    には仕方の無い選択だった。 女川の研修生のほとんどが、中国大連市周辺の
    出身だった。 ただし、中国では日本の原発事故を非常に深刻にとらえている人が
    多く、研修生の両親たちは二度と日本には行って欲しくないと切望した。
    ところが、中国に帰国した20人のうち、2011年12月までに、14人の研修生が
    女川へと帰って来た。



    しかし、女川町の漁業復興の道のりは険しく、再来日した研修生らの昼休みは
    わずか1時間で給与も上がらなかった。 中国の両親には女川に戻ったことを秘密に
    せざるを得ない研修生もいた。 両親を心配させたくないので、毎回実家に電話
    する度に、自分は中国の蘇州市にいると告げる研修生もいた。 ある研修生は
    こう語った。 『でも、人間が生きる上では、良心が必要。 佐藤さんが
    いなければ、私達は生きていなかった。 皆さんに恩返し出来る事は、女川に
    戻る事だけです』

    『恩人』と苦難を共に 女川町に戻った中国研修生
    IMG_8538

    宮城県の沿岸地域だけでも、中国人研修生が、600〜700人程度働いていたが、
    受け入れ側の会社が軒並み津波に流される状況下で、研修生の多くが避難に
    成功した。 東北地方沿海部で研修生を受け入れているのは、大部分が中小規模の
    水産加工業者で、薄給・重労働・人手不足の職場であるため、低コストの労働力として
    中国人が雇用されているのが現状。 ただし、東北という土地柄のためか、単なる
    労働力として彼らを見るのではなく、『家族の一員』や『よそ様から預かった若者』
    として遇する人情味ある経営者が多かったため、それが震災直後の彼らへの適切な
    避難指示に繋がったのではないかと言われている。

    新華社が中国国内で大々的に報道した内容
    IMG_8539

    少なくとも佐藤水産がそうした会社の一つだったのは間違いないだろう。 大連公司
    によれば、九死に一生を得た研修生の全員が、日本への再訪を望んでいるという。
    その中の一人はこう話す。

    『私たちが一緒に会社を立て直す。 社長さんと専務さんにもう一度会って、
    お礼を言いたい。 そのために、再び女川町へ行きたい』

    この女川での日本側の対応に対して、中国の各メディアは大々的に報じたが、日本側
    では報じられなかった。 当時の中国国家主席であった、胡錦濤氏は、北京の日本
    大使館を自ら訪れて、お礼の意を述べた上で、『犠牲者の方々に深い哀悼の意を
    表し、一日も早い復興をお祈り致します』との電報を天皇に宛てた。

    人々からすべてを奪ったかに見える大地震と大津波。 だが、国境を越えて
    育まれた絆だけは、決して失われはしない。



    【お勧めの一冊】



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    宮城県女川町は、住民の10人に1人以上が、津波災害で死亡した、東日本大震災
    最大の被災地であるが、その女川には、津波で横倒しとなった構造物が3つあった。

    ここから、直線距離で、約7.5キロの場所に、『東北電力女川原発』があるため、
    全国ニュースで、女川の被災状況等は、ほとんど取り上げられなかったのだが、
    津波の威力で、構造物自体が横倒しとなったのは、東日本大震災における
    津波被災地の中でも、ここ女川のみであった。

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    女川の中心部に無残な姿のままで取り残されていた『江島共済会館』、
    元々は、薬局であった『女川サプリメント』、『旧女川交番』と共に、
    震災遺構化が検討されたが、老朽化が激しく、保存が難しい事などから、
    町が解体を決定し、2014年12月15日に、解体工事が始まった。

    002

    女川の町を襲った、津波の脅威を伝える象徴として、全国から注目を集めた
    鉄骨4階の建物は、2015年1月下旬で姿を消した。 午前9時過ぎ、町から
    委託を受けた地元の建設業者がショベルカーなど重機2台で作業を開始。
    放水で粉じんの飛散を防ぎながら、天井部分の鉄骨を切断したり、床板を
    はがしたりした。

    離島・江島の島民宿泊施設だった共済会館は1970年代後半の建設とみられ、
    津波で十数メートル流された。 現在、共済会館があった場所は、復興事業で
    10メートルほどかさ上げされた。 女川町は、旧女川交番のみを保存する方針。

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    東日本大震災により、甚大な被害を受けた宮城県石巻市立門脇小学校は、
    この先、人口増が全く見込めないという理由により、2014年度で石巻小学校と
    統合され閉校となった。 津波災害とその後に起きた大規模火災により、
    焼け焦げた姿が今でも現地に残されているが、現在は、住民感情に配慮して、
    シートで覆われているものの、今後は、この建物を『震災遺構』として残すか
    どうかが争点となるであろう。

    【被災当時の門脇小学校】
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    この周辺は、約3,000名余の死亡者を出した、東日本大震災最大の被災地であり、
    この周辺一帯は、地盤沈下により、建物の建設が制限されており、宅地指定からも
    外されているため、この地は、この先も住宅地に戻る事はない。 このまま、
    大規模な『震災祈念公園』に整備される予定となっており、この周辺に住んで
    いた元住民は、全員高台へと集団移転した。
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    門脇小学校の校庭は、2012年前の紅白歌合戦で、長渕剛氏が『ひとつ』を
    歌った場所である。 『門脇』の読み方は、『かどのわき』で、被災当初は、
    大川小学校共々、校舎の中まで入る事が出来た。 今でも、校舎の中は、
    当時とさほど変わらないまま残されている。 この校舎は、車のガソリンが
    引火して、3日間燃え続けたため、黒く焼け焦げたが、現在は、閉校記念碑が
    立つのみとなっている。 この地区全てが津波により流されたため、現在は、
    荒野となっています。

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