これは、日ソ学院、現在の東京ロシア語学院の入学時に提出されられた作文のテーマ。
かれこれ25年以上も前の話であるため、当時は当然、ロシアではなく、ソ連であった。
実は私は、この日ソ学院の最後の卒業生。 日ソ学院3年在学時に、ソ連が崩壊したため、
卒業と同時に、学院の名前が『東京ロシア語学院』へと変更となった。 よって、
『日ソ学院』と言う名称の学校は、ソ連と共にこの世からは消え去った。
日本で、ロシア語を学んでいると、『どうして、ロシア語を始めたのですか?』という
質問を頻繁にされるが、私の場合は、元々、ソ連ではなく、崩壊した旧ユーゴスラビアに
興味があったため、ロシア語を始めたのだが、それはかれこれ32年も前のお話し。
その当時に、何か起きたのか、覚えている人は、もう少ないのかも知れないが、84年は、
サラエボオリンピックと、ロサンザルスオリンピックが開催された年。 その当時は、
『冷戦』の真っ只中で、政治的にも東西陣営に真っ向対立しており、それが、そのまま
スポーツの世界にも反映されていた。 その年に旧ユーゴで開催された、サラエボ
オリンピックは、つつがなく終了したものの、その直後に開催された、ロサンゼルス
オリンピックでは、東陣営の国々が多数ボイコットした大会となった。
1980年に開催されたモスクワオリンピックでは、その前年に起きたソ連軍のアフガニスタン
侵攻に抗議」という理由により、アメリカが西側諸国にボイコットを呼びかけた結果、
日本や西ドイツ、韓国など多数の西側諸国が参加しなかった。 その報復として、
東側諸国は、ロサンゼルス大会をボイコットし、当時の不参加国は、ソ連、東ドイツ、
ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、
キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどとなっている。 中国は
中ソ対立以降、ソ連との関係が悪化してアメリカ側についたため、モスクワオリンピックは
不参加、逆にロサンゼルスオリンピックには参加している。
冷戦、ベルリンの壁崩壊、チェルノブイリ原発事故、ソ連崩壊、北方領土ビザなし交流、
ロシア通貨危機等々、全てリアルタイムで知っておりますが、最近の自称『ロシア通』達の
劣化振りには残念を通り越して、ご愁傷様レベル。 単に興味があるのと、専門的な
知識があるのとでは、全く別物であるため、常にアメリカのステレオタイプに惑わされない
真実の目が必要。 ロシアを正確に見極めている人材は日本では相当稀であるため、
ニセモノと本物の区別がありません。 これは、ロシア語に関しても同じ事が言えるため、
やりたいのと、実際に出来る事は、全くの別物である事が良く分かります。
尚、前述したサラエボオリンピックは私がロシア語を学び始める切っ掛けとなりましたが、
その当時に、サラエボオリンピックでメインテーマソングを歌った、旧ユーゴの国民的歌手
である、ヤドランカ・ストヤコヴィッチは、20年以上も日本に滞在をしていたため、友人と
なりました。 強く望んでいれば、いつか願いは叶うと言う実例のようなお話。
東西対立の時代、いわゆる、共産圏では、ロシア語とドイツ語が重宝されたのですが、
時は流れて、今では東西問わずに英語が通じるようになりました。 一昔前までの
ロシアでは、片言の英単語ですら一切通じなかったが、今では、観光地であれば、
ある程度の英語が通じます。 特に、この10年間の経済成長は目を見張るものがあり、
それに伴い、英語も格段に通じるようになりました。 ロシア語とドイツ語をを専門
とした者としては、何とも寂しい限りですが、逆に、時代の波に取り残された日本の方が
気になります。
ロシアでは、片言の英単語ですら一切通じなかったが、今では、観光地であれば、
ある程度の英語が通じます。 特に、この10年間の経済成長は目を見張るものがあり、
それに伴い、英語も格段に通じるようになりました。 ロシア語とドイツ語をを専門
とした者としては、何とも寂しい限りですが、逆に、時代の波に取り残された日本の方が
気になります。
ロシア語を生業として、今年で丸25年、ロシア語を始めてからは、丸32年が経過し
ましたが、これからも、ロシアからは目が離せない状況が続きそうです。
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