1879年、ブルガリアの指導者らは、ヴェリコ・タルノヴォに集まって憲法を採択
した。 この憲法の規定で一院制の国会が作られ、国会議員は、全ての市民の投票で
選ばれることが決まった。 こうして出来た国会は、ドイツの公子バッテンベルグの
アレクサンドルをブルガリア公に選んだ。 アレクサンドルは、ロシア皇帝の義理の
甥にあたる人物だった。

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しかし、アレクサンドルは政府の閣僚を勝手に入れ替えたりして、不評を買い、
ついには、憲法を停止した。 何年もの間、このブルガリア公は、ロシア軍将校の
力を借りて国を支配した。 憲法を支持する自由党と、アレクサンドルを支持する
保守党の間で激しい論争が続いた。 この危機を乗り切るために、アレクサンドルは
1883年に憲法を復活した。

2年後、東ルメリアの人々は、トルコに反乱起こし、その地域をブルガリアに統合
した。 ブルガリア勢力の拡大を経過したロシアは、アレクサンドルを誘拐して
新政権を樹立する陰謀を支持した。 この陰謀は、国会議員ステファン・
スタンボロフによって阻止されたが、アレクサンドルは1886年に退位した。

国会は別のドイツ公子フェルディナントをブルガリア公に選んだ。
フェルディナントは有能で精力的な指導者で、ブルガリアの各党派の融合を
果たした。 1908年、フェルディナントは、トルコの衰退に乗じて、東ルメリアを
含む、全てのブルガリア国土の独立を宣言した。

フェルディナントの指導の下、ブルガリアは工業と農業の近代化に取り組んだ。
教育は広がり、識字率は大いに高まった。 しかし、工場での労働条件は過酷で、
労働者の利益を守るために、社会民主党が結成された。 農民の利益を代表する
農民連合も結成された。

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