多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

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    タグ:東ヨーロッパ

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    13世紀、エストニアは、ドイツ騎士団の支配下に置かれた。 19世紀まで、
    都市部ではドイツ貴族が、地方では、ドイツの地主が、上層階級として支配
    していた。 彼らは、言語は違うが、父権主義的な社会を形成していた。
    宗教改革以来、プロテスタント信仰が彼らとエストニアの農民たちを結び
    付けていたのである。

    estoni

    1710年にエストニアは、スウェーデンとの北方戦争に勝利を収めたピョートル
    大帝によって征服され、他のバルト諸国同様、第一次世界大戦までロシアの
    一部であった。 その後1920年、帝政の崩壊の時代にエストニアは独立した。
    1939年のヒットラー・スターリン会談では、2人の独裁者の利害によって、
    東部中央ヨーロッパにおける国境問題が話し合われ、その結果、エストニアは、
    ソ連の勢力範囲に入れられ、それを受けて、この地域は、1940年に赤軍の手に
    渡った。

    その後、外部から差し向けられた政府が、憲法と選挙権に反した『選挙』を
    指導し、8月6日には、ソ連に併合された。 その後、工業施設や農業用地が
    収用され、6万人近くのエストニア人が追放された。 1941年にドイツ軍が
    進撃して来た際には、少なからずの人々がソ連への隷属から解放してくれたと
    感じた。

    1944年以降、エストニアは、再びソ連の支配下に戻り、その経済構造や社会
    秩序はソビエト化された。 経済の構造は、農業の集団化と、それと平行して
    行われた工業の国営化によって、根本的に変わった。 また、多くのロシア人が、
    工業開発の人材要員として、また、幹部などの上層階級として次々と移住して
    来た。

    1915445

    【目覚めた民族意識と翻る国旗】
    1989年秋、エストニアのソビエト最高会議は、これ以降、エストニアの法律は、
    ソ連の法律に優先し、連邦の法律は、エストニア議会の承認、あるいは、修正を
    経て初めて効力を発すると宣言した。

    段階的に進められて来たエストニア独立は、1990年に独立宣言を採択したことで
    決定的になった。 モスクワでゴルバチョフの改革に反対したクーデターが失敗
    した直後の1991年8月21日、エストニアは、最終的に独立を宣言した。 そして、
    それは同年9月6日、ソビエト国家評議会によって承認された。

    この日、エストニアは独立への長い道のりのクライマックスを迎え、首都タリン
    では、独立国家エストニアの国旗である、青、黒、白の旗が高々と掲げられた。

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    ベラルーシ(白ロシア)は、旧ソ連西部に位置する。 西はポーランド、北は
    リトアニアとラトビア、南はウクライナそそれぞれ国境を接している。 総面積
    20万7,600平方キロメートルの国土を持つ。 国名の『白』とは、『北』を
    意味する。 キエフ公国から見れば、この国は北にあったからである。

    neighbocountries

    ベラルーシは、氷期に形成された低地に広がる国である。 モレーン低地
    (ベラルーシ山地)辺りにのみ激しい起状が見られる。 この国はいわゆる
    東ヨーロッパ混合林地域にあり、国土の約4分の1が森林と雑木林からなっている。
    この地域は、東ヨーロッパの一般的な気候から言うと、極めて降水量が多い。

    この地の自然は、湿地帯に広がる森林と低地の草原、また数多くの湖によって
    特徴付けられる。 この地の土壌は農業には余り適していないため、ここでは
    特に畜産(養豚、乳牛飼育)が盛んである。 主要農産物は、麻、ジャガイモ、
    ライ麦、飼料作物などである。

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    総人口は1000万人を上回り、そのうち、約80%がベラルーシ人で、その他、
    ロシア人12%、ポーランド人4%、ウクライナ人2%、ユダヤ人2%が住んでいる。
    ロシア革命以前は、国民の大半がロシア正教を信じていた。長い間、ポーランドや
    リトアニアとの交流も盛んであったため、カトリック信仰も、特に西部において
    かなり広がりを見せていた。

    ベラルーシは、自然条件から見ると、余り恵まれた国とは言えない。 土壌が
    優れないために、農業も畜産に限られている。 石炭、塩、石油、泥炭も生産
    されるが、国内需要にのみ使用されている。 国民の教育水準は比較的高く、
    機械や鉄鋼などの専門的な工業の育成が奨励されて来た。 首都ミンスクは、
    人口から言っても、また産業の集中度から言っても、他都市を遥かに上回る
    主要都市である。

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    『ルテニア』は、現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる地域を
    指すが、広い意味ではウクライナ、あるいは、ウクライナとベラルーシを合わせた
    地域を指す。 ルテニアとは『赤ロシア』の意味を持つ。

    この『ルテニア』とは、今日のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の祖先
    であるルーシ人のラテン語による外名で、『ルーシ』のラテン語名『ルテニア』
    (Ruthenia)に由来している。 したがって、元来はルーシ人の同義語であるが、
    特に、西ウクライナのウクライナ人の古称としても用いられる。

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    日本語における研究では、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)を『ルテニア』と呼ぶ
    習慣がないため、その時代のルーシ人をルテニア人と呼ぶのは一般的ではない
    (西欧米の研究では呼ぶ場合がある)。 また、ロシア帝国領内の小ロシア人や
    白ロシア人をルテニア人と呼ぶのも一般的ではない。

    ルテニア人は、ルシン人とも書かれることがあるが、少数民族であるルシン人は、
    本来のルテニア人とは異なっており、この表記の揺れが混乱を招いている。
    ルシン人は、ウクライナ語の方言とされるルシン語を話すスラヴ人の民族集団
    であり、ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、ウクライナなど東ヨーロッパ
    各地に広く住んでいる。

    ルーシ人が19世紀から20世紀初めにかけて『ウクライナ人』として民族意識が
    形成されていく中、ルシン人はそれを受け入れてこなかった少数民族を起源に持つ。
    こうした現象は1945年以降のソヴィエト政権下のカルパチアやポーランド政府、
    そして1950年代前半までのチェコスロヴァキア政府が『ルシン人』という名称の
    使用を禁止していたことによる。

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    今ではスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、チェコそしてセルビア政府が
    『ルシン人』と公式に少数民族として認めている。 2007年、ウクライナの
    ザカルパチヤ州で初めて独立した民族であると認められた。 ウクライナ国内の
    ルシン人はウクライナ国籍を持ち、そのほとんどがウクライナ人としての民族意識を
    持っているのに対し、現在ルシン人としての民族意識を有している人々の多くは
    ウクライナ国外に住んでいる。
     
    ルシン人の数は約120万人と見積もられているが、そのうち、自分がルシン人であると
    認識しているのはたった55,000人に過ぎない。 ルシン人という民族分類には
    異論も多く、ルシン人は広義的なルーシ人であり、ロシア人、ウクライナ人、
    ベラルーシ人とは別の独立した東スラヴ人の一派であるとされる一方で、他方では
    ウクライナ人の下位集団に過ぎないとも言われている。

    ベラルーシ人同様に、ロシア人やウクライナ人とは異なり、西進したテュルク系、
    モンゴル系などの異民族との混血が少なく、コーカソイドの遺伝子を濃厚に残して
    いるのが特徴である。

    現在ウクライナ領となっている、ザカルパチア・ルシン人団体大会は、ウクライナ
    政府との対話によって、ルシン民族の承認と、ポトカルパツカ・ルーシの自治権
    承認を求めることを決めた。 タス通信によると、声明には、1991年に
    ザカルパチアで実施された住民投票の結果の承認についても、キエフ当局と話し合う
    意向が記載されている。 尚、住民投票では、約80パーセントの住民が、同地域に
    自立した地位を与えることに賛成票を投じた。

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    20世紀のはじめのチェコ人は、ハプスブルグ統治からの独立を要求していた
    多くの民族のひとつに過ぎなかった。 数世紀に渡ってバルカン半島を支配
    していたオスマン・トルコ帝国は衰退し、答辞の南東ヨーロッパは不穏な情勢
    だった。 オーストリアとトルコの勢力に挑戦して、ロシア帝国などの列強が、
    中央ヨーロッパに領土拡大と支配の手を伸ばして来た。

    オーストリア対ロシアの不穏な情勢が、第一次世界大戦(1914年~1918年)の
    引き金となった。 オーストリアはバルカン半島で、ハプスブルグからの独立を
    求めるセルビア人と戦うこととなった。

    ドイツとオーストリアは同盟を結び、東でロシアと、南でイタリアと戦った。
    しかし、チェコ人は同じスラブ民族であるセルビア人はロシア人を相手に戦い
    たくなかった。 多数のチェコ人がロシアへ脱出して、チェコとスロバキア
    共同の軍隊を組織した。

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    対戦中、チェコの指導者トマシュ・マサリクとベネシュ、スロバキアの指導者
    ミラン・シュテファニックは、チェコとスロバキアにそれぞれ独立国を建て
    ようと計画していた。 しかし、情勢の成り行きを見たマサリクは、両者を合体
    したチェコスロバキア連邦共和国の建国を決心した。 アメリカ合衆国の州政府の
    ように、連邦政府の下にチェコとスロバキアそれぞれに、共和国政府をつくる
    ことを約束した。

    ドイツとオーストリアの敗北が目前となった1918年10月、マサリクは、チェコ
    スロバキアの独立を宣言した。 10日後、マサリクは、初代大統領に就任した。

    1918年11月のドイツとオーストリアの降伏の後、ハプスブルグ王朝は崩壊し、
    オーストリアとハンバリーも独立国となった。 旧オーストリア領内の国々も
    独立を勝ち取った。 同じ頃、ロシア革命が起こり、やがて、東ヨーロッパの
    国々を支配する共産主義国であるソビエト連邦共和国設立の切っ掛けとなった。

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    ブルガリアは、ヨーロッパ東南部バルカン半島にある人口約900万人の国である。
    40年以上もの間、ブルガリアは、共産圏ブロックの一国で、ソビエト連邦と
    密接な関係を結んでいた。 ブルガリア共産党は、農業と工業を国有化し、
    反対党の存在を一切認めずに、国を支配していた。 1990年にブルガリア人は
    共産党政権を終わらせて、新しい民主的な共和国を建設した。

    ブルガリアは6世紀から7世紀に掛けてブルガール人が定住して成立した国で、
    やがてバルカン半島で最も強大な国家となったが、14世紀後半になると、オスマン・
    トルコ帝国がこの地域一体を征服した。 こうしてブルガリア人はトルコ人の
    支配下に置かれた。 19世紀にオスマン帝国は弱体化し始め、1876年、
    ブルガリアはロシアから軍隊や武器の支援を受けて、解放戦争を始めた。 以後、
    トルコ人は、ヨーロッパから段階的に撤退して行き、ブルガリアは1908年に独立を
    達成した。

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    第二次世界大戦の終わった1945年、ソビエト連邦はブルガリアや、その他
    いくつかのヨーロッパ東部の諸国に共産党政権を押し付けた。 ブルガリア
    共産党が政権を握ってからは、ソビエトは、資金や原料を供給して、ブルガリア
    経済の発展を支援した。 工業化が進められ、健康管理と教育を改善されて、
    生活水準は少しずつ向上した。 ブルガリアは、1950年代から60年代に掛けて、
    他の東ヨーロッパ諸国が共産党指導者に反抗するようになっても、変わらず
    ソビエトの忠実な同盟国であり続けた。

    しかし、経済問題と政治上の不安定が、ついにブルガリアの共産党政権を消滅
    させた。 現在の政府は、中央集権型の経済を止めて、自由市場システムへと
    移行したが、2010年のブルガリアのGDPは約448億ドルであり、日本の青森県と
    ほぼ同じ経済規模である。 ブルガリア経済は1989年から劇的に縮小した。 特に
    ソビエト連邦を中心とした東欧の市場を喪失したことは大きな打撃となり、生活
    水準は1989年以前の約40%にまで落ち込んだ。

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    さらに、ユーゴスラビアに対しての国連の経済制裁は経済に更なる打撃を与えた。
    1994年には、国内総生産の成長と共にインフレーションを抑制するなど、回復の
    兆しを見せたが、1996年には貧弱な経済改革や、不安定な銀行システムにより再び
    悪化し、金融危機に陥った。 1997年以来政府は、2007年に向けてマクロ経済の
    安定と、国内総生産の毎年4~5%台の成長、欧州連合 (EU) への加盟を表明した。
    その後、2007年1月1日に、ブルガリアはEUに正式に加盟した。

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    スロバキアには、大都市がなく、ヨーロッパでも最も、地方を主体とした国である。
    人口537万人の57%が都市に住んでいる。 これは、ほかのヨーロッパ諸国に比べて
    低い割合だが、主に戦後の工業化の結果、都市部の人口は、着実に増え続けている。

    スロバキアの首都であるブラチスラヴァ(人口約45万人)は、ドナウ川に面し、
    オーストリアとハンガリーと、真近に国境を接している。 市の一部には、先史
    時代から人間が住み、やがて古代ケルト人が定住した。 紀元後5世紀に
    ブラチスラフ(市の名は彼に由来)という名のリーダーに率いられたスラブ人の
    一団が、その地に定住した。

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    ハンガリーに支配された時代は、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれていた。
    1500年代には、ハンガリー議会の所在地になった。 文化、教育、政治全般の
    中心をなしていたブラチスラヴァは、スロバキア人、ハンガリー人、ロマニ
    (ジプシー)、ドイツ人が集まった。

    市の最も有名な場所は、城である。 はじめは9世紀初期に、ドナウ川に面した
    要塞として建設されたが、その後、3回火災にあっている。 現在の城は、
    1953年に再建されたものである。 もうひとつの名所は、代々のハンガリー国王が
    戴冠した聖マーティン大聖堂である。

    全スロバキアの10%の工業製品は、ブラチスラヴァで作られる。 重要な産業は、
    化学工業だが、織物、石油精製、食品工業も主産業である。 多数の貨物船や
    貨客船が出入りする港から製品を輸送する。

    コシツェ(人口23万人)は、東スロバキアの主な都市である。 市は13世紀に
    ドイツ人の定住者によって建てられ、後に重要な文化の中心となった。 第二次
    世界大戦後、巨大な製鉄所が市の付近に建設され、コシツェは工業の中枢となった。
    しかし、工場は周辺地域を広く汚染する原因にもなった。

    バンスカ・ビストリッツァ(人口10万人)は、中部スロバキアのホロン川に面し、
    700年前に金や貴金属が発見されてから急速に発展した。 ドイツ人の鉱山労働者が
    この町に群れをなし、ヨーロッパでも最も豊かな街となった。 しかし、鉱山は既に
    長いこと堀り尽くされ、街は鉱山に代わって、観光業で収入を得ようとしている。

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    1025年、ボレスワフ1世が死ぬと、ポーランドには激しい内戦が起こった。
    ボレスワフ1世の曾孫ボレスワフ2世は、貴族達と争い、クラクフのカトリック
    司教は貴族側に味方した。 1079年、ボレスワフ2世が司教の殺害を命じた
    ことで教皇はポーランド全土に制裁を科した。 1100年代初期、ボレスワフ2世の
    甥ボレスワウ3世は、ポーランド北西部のポモルゼの領有を巡って神聖ローマ
    帝国の軍隊と戦った。 彼は王国を何人も居る息子達に平等に分割するよう
    遺言したので、ポーランドの力は弱まった。

    続く2世紀の間、この分割相続制度によって、多数の小さな半独立の公国が出来た。
    ポーランド貴族と小さな公国の貴族達は、互いに争いを繰り返し、ポーランドの
    民衆は無秩序で無力な状態に陥って、この国の長い国境線を防衛することが
    出来なくなった。

    王国内の混乱に乗じて、カトリックの宗教戦士の集団、ドイツ騎士団が北から
    攻撃して来た。 北東のバルト海沿いにあるリトアニア国家もまた、この国の
    領土を侵略した。 1240年、東アジアのモンゴル人の大軍は、ポーランドと
    東ヨーロッパの多くの地域を荒廃させた。 モンゴル人がヨーロッパから撤退
    すると、ポーランドは、次第に国力を回復し始めた。

    ドイツから職人や商人達が招かれて、ポーランドの都市や港湾に定住した。
    ポーランドはまた、ヨーロッパの他の国々での迫害を逃れた大量のユダヤ人を
    喜んで受け入れた。 クラクフやグダニスクは、北ヨーロッパ諸都市の商業
    連合体であるハンザ同盟に加盟し、その結果、この2つの都市や王国内の他の
    都市では、商業貿易が繁栄した。

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    【カジミェシュ大王】
    1295年、ポーランド王プレシュミスワフ2世が暗殺されると、王位の継承を
    巡って争いが起こり、プレシュミスワフの娘婿チェコ王ヴァーツラフ2世が王位を
    要求してポーランドに攻め込んだ。 1305年、ヴァーツラフが死ぬと、ピアスト
    王家の一員が教皇の支持で、1320年に国王ヴワディスワフ1世として、クラクフで
    戴冠式を行った。 ヴワディスワフは戴冠式行ったクラクフをポーランドの
    首都と定めた。

    ヴワディスワフの息子カジミェシュ3世が1333年に国王になった時には、
    ポーランドはまだ弱体な分裂国家だった。 カジミェシュは、国王の権力を強化
    して、国内の紛争を終わらせ、国家を再統一した。 カジミェシュはまた国境の
    安全をはかるため、リトアニアと同盟し、南方の強大国ハンガリーとも同盟を
    結んだ。

    カジミェシュは、多くの国内改革を行った。 農民の権利を保護する法律を作り、
    法体系や行政制度を組織し直した。 また、教育にも力を入れ、1364年、
    クラクフにこの国最初の大学を創設した。 カジュミェシュ3世は、その功績に
    よって、後世の人に大王と呼ばれるようになった。

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    考古学者の説では、現在のポーランドとなっている地域に人類が住み着いたのは、
    少なくとも20万年前だという。 だが、この最古の住人については、殆ど何も
    分かっていない。 約1万5000年前に、河川の流域に初めて集落が出来た。
    西暦1世紀、スラブ民族が東から、この国の中部にと北部の低地地域に移住した。

    スラブ民族の一派であるポラニエ人(平原の住人)は、ヴァルタ川流域にグロティと
    呼ばれる小さな村落をいくつも建設した。 低地や平原は外敵の攻撃を防ぎにく
    かったので、ポラニエ人は、居住地の周辺に堅固な木の壁を作った。

    ポラニエ人は、壁の外側の土地で穀物を生産し、家畜を飼育した。 グロティの
    住人は、農産物や手工芸品を、中ヨーロッパに住む他のスラブ人グループと
    交換した。

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    何世紀もの間、スラブ人達は、西ヨーロッパの出来事と無縁の生活を続けた。
    ヨーロッパ南部を基盤とするローマ帝国の軍隊は、西暦100年頃までに広大な地域を
    征服し終わっていた。 ポーランドのバルト海沿岸地域は、道路によってローマの
    諸都市と結ばれていたが、ローマ帝国が東ヨーロッパのスラブ人達を征服したことは
    一度もなく、キリスト教の信仰をドイツに広めたカトリック教会の伝道師達も、
    ポラニエ人を改宗させることは出来なかった。

    ポーランド地域の人口が増加するにつれて、スラブ人達は、いくつかのグループに
    分かれた。 西暦200年から500年に掛けて、東スラブ人達は、現在のベラルーシ、
    ウクライナ、ロシアとなった地域に移動した。 ポラニエ人を含む西スラブ人達は、
    将来ポーランド、チェコ、スロバキアと言われる地域に定住した。

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