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    タグ:東スラブ

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    ウクライナという国名は『辺境地帯』を意味する。 この名前は、13世紀に
    モンゴル人の侵攻を受けた後の時代に使われるようになった。 しかし、この地域は
    元々、辺境どころか、東スラブ地域で初の国家が形成される舞台となった重要な
    地域であった。

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    今日のウクライナの首都キエフで、9世紀にキエフ公国が成立した。 この国家は、
    後のロシア帝国の起源とみなすことが出来る。 これが、『キエフはロシアの全ての
    ロシアの都市の母』と言われる由縁である。

    1240年、この国は、モンゴル人によって破壊された。 その後、政治的な
    中心地は、北東のウラジミール、スズダリ、そして、最後にモスクワへと移って
    行った。モンゴル人やタタール人の騎馬兵に襲撃され続け、ますます住民の
    減っていたウクライナは、これらの地域から見ると、正に辺境と化したのである。

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    【民族的アイデンティティーを求めての戦い】
    その後の数世紀間、ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配を受けることと
    なった。 その間、脱走した農奴たちがコサックと呼ばれる集団を形成し、
    ポーランドの支配に抵抗し始めた。 コサックの首長であったフメリニツキは、
    1654年にウクライナをモスクワのロシア皇帝の保護下に据えた。

    しかし、ロシア皇帝は当初、ウクライナ全体のうち、ドニエプル川以西の地域しか
    その支配を主張することが出来なかった。 ロシア帝国が事実上ウクライナ全域
    (オーストリアの支配を受けたガリツィア地方を除く)を支配するようになるのは、
    18世紀になってからのことである。

    この時代、ウクライナ独自の文章語が次第に形成されて行った。 しかし、ロシア
    政府はこれをロシア語の一方言(小ロシア語)として位置付け、公の場での使用を
    禁じた。 19世紀になると、ウクライナの民族意識が高揚し、民族運動が展開される
    ようになった。 この時点では、自分たちの文化的独自性の保存を求めるに留まって
    いた。 しかし、20世紀になると、国家としての独立を求める声が高まって行った。

    1917年のロシア革命の直後、民族運動の高まりによって、1918年初頭に
    ウクライナは独立を宣言した。 ロシア・ソビエト共和国は、ブレスト・
    リトフスクの和約を結んでこれを認めなければならなかった。 しかし、その後の
    内乱で、ボリシェビキが勝利を収め、1919年『ウクライナ・ソビエト社会主義
    共和国』が設立された。

    共和国は、1922年ソ連に加盟した。 ソ連の指導者は、初めの数年は、彼らの
    民族的利権、とりわけ、文化面における独自性を考慮した政策をとっていた。
    しかし、スターリンが政権を握るようになって以来、1920年代を中心に民族
    主義的な主張を行う者に対して、激しい迫害がなされた。 農業などの集団化を
    強制的に進める中で、あるいは、意図的に引き起こされたとも考えられる飢餓に
    よって、ウクライナ人の間に100万人規模の犠牲が出た。

    【独立国家共同体創設の主唱国】
    改革路線の時代が到来すると、1980年代後半を中心に、ウクライナの民族運動にも
    新たな展開が繰り広げられた。 1990年夏、ウクライナは、主権を宣言し、1991年
    8月には独立宣言は発せられた。 当初、ウクライナは、連邦制の維持を目的とした
    新連邦条約に関する協議に参加していたが、その後、態度を変え、新たな中央集権
    構造の設立に強く抵抗し、完全独立を主張するようになった。 独立国家共同体の
    創設に主唱国の1つとして参与した際にも、彼らは、独自の軍隊を編成し、黒海に
    おける旧ソビエト連合艦隊の指揮権を保持することを求めた。 これによって、
    ロシアとの間に対立が生じている。 ウクライナは、旧ソ連の国連における3つの
    議席の1つを占めていた。

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    中世においてベラルーシは、東スラブ初の国家、キエフ公国の一部であった。
    この国が没落すると、ベラルーシは、諸侯の支配するいくつかの国に分裂し、
    その後14世紀には、リトアニア大公に統治されることになった。 この大公は、
    1385年にポーランドと同盟を結んだ。 これにより、ベラルーシは、ポーランドの
    強い影響下に置かれた。

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    特に、貴族らが受けた影響は、非常に大きく、彼らの間にカトリック信仰が
    広まった。 他の東スラブ地方と文化の差が広がるにつれて、独自の
    ベラルーシ語が形成されて行った。 18世紀にポーランドが分割されると、
    ベラルーシは、ロシア帝国に属することになった。 しかし、ポーランド
    文化の影響を受けた上層階級の人々は当初、依然として重要な地位に
    留まっていた。

    19世紀になると、指導者たちは、ロシア化政策を推し進め、ベラルーシ語での
    出版が禁止された。 一方で、ベラルーシの文化的な自立を求める民族運動も
    高まった。 彼らは、ロシアであれ、ポーランドであれ、あらゆる外国の支配に
    対抗したのである。

    1917年のロシア革命後、まず『ベラルーシ民族共和国』というブルジョワ国家が
    設立されたが、これは1919年に『ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国』の設立に
    よって解消された。 共和国は、ロシア・ポーランド戦争後、1921年にリガの
    和約でポーランドに接する西側の領土を失った。 1922年、共和国はソビエト
    連邦に加盟した。

    ソ連は当初、民族文化の自発的発展にある程度の自由を与える政策を取っていたが、
    スターリン時代になると、あらゆる民族運動に対して強い弾圧が加えられた。

    第二次世界大戦では、ベラルーシは多数の死者を出し、破壊的な痛手を被ったが、
    大戦後、1921年に失ったポーランドの領土を再び取り戻した。 1945年には、
    スターリンがルーズベルトとチャーチルに求めた国連におけるソ連の3つの議席の
    うち、1つをベラルーシが得た。

    1980年代の政治改革によって、ベラルーシでも民族運動が盛んになった。 1989年、
    バルト諸国に倣い、『民族戦線』が創立された。 1990年に主権宣言を行い、
    1991年には、独立を宣言した。 当初、形態を変えて連邦を存続されることを
    他国よりも強く主張したベラルーシであったが、1991年12月には、独立国家共同体
    (CIS)設立を主唱する3国の1つとなった。

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    【キエフ・ルーシの始まり】
    現代ロシア人の祖先は、6世紀には、ヨーロッパ・ロシアのステップ地帯に住み
    着いた東スラブ民族に始まる。 9世紀には、バルト海からバイキングの
    バリャーク人が、ドニエストル川沿いの地域に乗り出し、スカンジナビアから
    ビザンチウムへの交易ルートを開いた。 彼らの首領のひとりである、
    リューリクがロシア最初の王朝を建て、その後継者であるオレーグが最初の
    キエフ・ルーシを創建した。

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    しかし、1237年、外部からの力で破局が訪れた。 タタール(モンゴル)軍が、
    ルーシの多数の都市を侵略し、そのご200年間に渡ってルーシを支配した。
    こうして、ルーシは、少公国に分裂したのだが、その中から、モスクワが次第に
    力を伸ばし、やがて、タタール人の支配を覆す事となる。



    【中心地がキエフからモスクワ公国へ】
    9世紀にオレーグ公が建国したキエフ・ルーシは、ウラジーミル1世、ヤロスラフ
    賢公、ウラジーミ=モノマフといった、偉大な支配者の元で、400年間に渡って
    栄え、ヨーロッパで最も大きく、裕福な国となった。 しかし、1237年、内分の
    半目によって、弱体化していたキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが
    率いるモンゴル軍(黄金軍団)に滅ぼされた。

    最盛期の1054年には、キエフ・ルーシの領地は、黒海からバルト海まで、北は
    オネガ湖まで至った。 キエフの衰退後、ルーシの中心は、北東部に移り、最初は、
    ウラジーミル、その後は、モスクワ公国の首都モスクワが中心となった。
    モスクワ公国は、白海から、東は、ボルガ川を超えて、シベリア西武にまで至る
    土地を支配した。

    【モンゴルの支配者】
    モンゴルの支配者であるチンギス・ハンは、アジアの本拠地に居ながら、中国、
    インド北部(現在のパキスタン)、中央アジアを征服した。 1222年には、
    優れた騎馬団がルーシ南部を席巻し、ボルガ川とドニエプル川の間の土地を
    荒らし回った。 孫のバツーは、1237年に、ルーシの侵略を終え、キエフ・
    ルーシの大部分と新しい都市ウラジーミルとスズダリを占領した。 更に、彼は、
    ハンガリーとポーランドを目指して西進した。 この際に、アジア側から
    ヨーロッパへと押し出されて、その後、コーカソイド化した民族が、ブルガリア人、
    ハンガリー人、フィンランド人となっている。

    【キエフ・ルーシの歴史】


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