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    タグ:杉原千畝

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    カウナスは、第二次世界大戦、すなわち、ソ連邦への併合以前までは、
    リトアニアの首都であったため、『杉原千畝記念館』は、元々は、
    日本大使館であった。 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、
    多くのユダヤ人たちは隣国リトアニアへ逃げ込んだが、ソ連によるリトアニア
    併合が確実となり、彼らには日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという
    方法しか残されていなかった。

    >>杉原千畝 ~六千人の命のビザ~

    杉原は、苦悩の末、外務省の訓命に反し、『人道上、どうしても拒否出来ない』
    という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても、独断で通過査証を
    発給した。 それは、人道、博愛精神第一という大きな決断であった。 その後、
    戦況が悪化したため、日本大使館は閉鎖、カウナス市内を転々としながら、更に
    ビザの発給を続けた。 合計で約2,000枚のビザを発給したものの、本国からの
    命令に逆らったとして、その後は、ルーマニアヘと送られ、後に、外務省をも
    追われる事となる。

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    カウナス駅に今でも杉原千畝のプレート残されている。 日本大使館が閉鎖され、
    最後の最後までビザを書き続けたのがカウナス駅。 千畝は、その後、汽車で
    ベルリンへと向かった。 ユダヤ人たちが日本の通過ビザを欲しがったのは、日本へ
    行きたかったからではなく、日本を経由して、第三国へ脱出しかたったためで、
    当時は、シベリア鉄道に乗って、日本を経由して、オランダ領のキュラソーに
    行くしか残された道はなかったのである。

    その後、杉原は、ユダヤ人たちからは非常に感謝されたが、日本での扱いは、
    外務省に無断で勝手にビザを発給したとして、名誉剥奪のまま無念の死を遂げた。
    2000年に日本政府から正式に名誉回復がなされたのは、杉原の没後14年目、
    そして生誕100年という節目のことであった。

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    杉原千畝(ちうね)は、第二次世界大戦中、当時リトアニアの首都であった
    カウナス日本領事館に赴任していた元領事代理で、ナチス・ドイツの迫害
    によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、
    約6,000人のユダヤ人に日本の通過ビザを発給し続けた外交官。
    『日本のシンドラー』と呼ばれることもある。

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    1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、多くのユダヤ人たちは隣国
    リトアニアへ逃げ込んだが、ソ連によるリトアニア併合が確実となり、彼らには
    日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという方法しか残されていなかった。

    1940年7月18日、ビザを求めたユダヤ人難民達が領事館へと押し寄せたため、
    杉原は本国へビザ発給を打診するが、その回答は『行先国の入国許可手続を
    完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ』
    との発給条件厳守の指示が繰り返し回電されて来ただけだった。 元々、
    カウナスに日本領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の
    特定にあったため、緊急のビザ発給は、想定外であったのである。

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    杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、『人道上、どうしても拒否出来ない』
    という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても、独断で通過査証を
    発給した。 それは、人道、博愛精神第一という大きな決断であった。 但し、
    本国からの命令に逆らったとして、その後は、ルーマニアヘと送られ、後に、
    外務省をも追われる事となる。

    独ソ戦の開始以前に運良く通過ビザを入手できた難民達も、全てがシベリア
    鉄道で極東までたどり着けた訳ではなかった。 当時ソ連は外貨不足に悩んで
    おり、シベリア鉄道に乗車するためには、ソ連の国営旅行会社『インツーリスト』
    に外貨払いで乗車券を予約購入しなければならなかったからである。 乗車券は
    当時の価格で約160ドルもし、通常の銀行業務が滞りがちな戦時に、着の身着の
    ままで逃げてきた難民たちの誰もが支払えるという金額ではなかった。

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    リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人達は、シベリア鉄道に乗り、
    ウラジオストクに到着した。 次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に
    困惑した本省は、ウラジオストクの総領事館に対して、行先国に入る手続きが
    終わっていることを証明する書類を提出させてから乗船させるよう厳命した。

    しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であった
    ウラジオストク総領事代理の根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年
    (昭和16年)3月30日の本省宛電信において、官僚の形式主義を逆手にとって、
    一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。

    本省とのやり取りは5回にも及び、難民達から『ミスター・ネイ』の名で記憶
    されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を
    発給して難民の救済にあたった。 一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた
    難民たちの命は、2人のハルビン学院卒業生の勇気ある行為によって救われた。

    こうした根井三郎の人道的配慮により乗船出来るようになった難民達は、日本海
    汽船が運航する『天草丸』に乗って敦賀港へ続々上陸し、敦賀では、全米
    ユダヤ人協会からの依頼を受けた日本交通公社(現在のJTB)の社員が、ユダヤ
    難民救済協会から送金された現金を手渡した他、敦賀駅までのバス輸送や神戸、
    横浜までの鉄道輸送手配を行った。



    その内のユダヤ系難民達は、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ
    教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である
    『神戸猶太協會』(アシュケナージ系)があった神戸などに辿り着く。
    難民の内、1,000人程がアメリカやパレスチナへと向かい、残りは後に上海に
    送還されるまで日本に留まった。

    日本滞在後、難民達が向かった上海の租界には、戦前よりスファラディ中心の
    大きなユダヤ人のコミュニティがあり、ユダヤ人達は、そこで日本が降伏する
    1945年(昭和20年)まで過ごす事になった。
     
    難民達が脱出したリトアニアは、その後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)
    にドイツの攻撃を受け、ソ連軍は撤退。 以後、1944年(昭和19年)の夏に
    再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。 この間の
    リトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人
    から19万6,000人に上り、カウナスのユダヤ人社会も壊滅した。 また、ソ連
    領内でも多数のユダヤ難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ絶命した。

    杉原が救ったとされる難民の子孫達は、現在世界中に約4万人も居るとされ、
    1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を
    救出した功績で日本人では初で唯一の『諸国民の中の正義の人』として
    『ヤド・バシェム賞』を受賞。 千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛と
    共に、政府の訓命に反したことに関して、『国賊だ、許さない』など中傷の
    手紙も送られるようになった。 同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と
    顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は千畝の海外渡航を許さず、
    千畝に代わって四男・伸生が出席した。 1986年(昭和61年)7月31日、86歳で
    その生涯を閉じた。

    日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月
    10日になっての事だった。

    【お勧めの一冊】


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