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大奥は、江戸城内にかつて存在した将軍家の子女や正室、奥女中たちの居所であり、
初代将軍徳川家康の時代から、江戸城に『大奥』と呼ばれる区画は存在していたが、
当時は、政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の
境界が存在していなかった。 この境界が江戸城に現れたのは、元和4年(1618年)に
2代将軍・徳川秀忠が『壁書』を制定した時である。 以後、本丸は幕府政庁の『表』、
将軍が政務を執る『中奥(奥)』、将軍の私邸『大奥』に区分された。

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2代将軍見台所のお江の方によって、その礎が築かれ、3代将軍家光の乳母、春日局に
よって組織的な整備がなされて行き、その後、数百年にも渡る大奥に形が整えられて
行った。 大奥は、将軍家お世継ぎを設ける場としての役割以前に、女同士の権力や
欲のぶつかり合いの場として、度々ドラマ等にも登場するが、実際の大奥では、内情を
漏らさぬように誓詞血判させられていたため、現在でもその実情は詳しくは分かって
いない。
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お江の方と春日の局の壮絶な世継ぎを巡る争いは、その権力関係からして、一介の
乳母ごときが将軍見台所と対等に渡り合える等あり得ない事から、ドラマの演出と見るのが
妥当。 その他にも、大奥総取締役という役職は、大奥には存在していなかったと言う。

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その後、数百年にも渡り、大奥は、栄華を極めたが、慶応4年(1868年)4月に江戸城の
明け渡しが決定し、終焉を迎える。 同年4月9日(旧暦)、14代将軍徳川家茂正室の
静観院宮と同生母である実成院が清水邸へ、翌10日には、13代将軍徳川家定正室の
天璋院と同生母本寿院が一橋邸へ引き移り、大奥はこの世から姿を消した。

現在の大奥跡は、公園となっており、江戸城本丸跡に最も近い場所が、大奥があった
場所とされている。 かつては、女の欲が渦巻いていた女の園も、今では、のんびりと
散歩が楽しめる場所に変わっているところが、興味深い。

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