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江戸時代、幕府直轄領として『蝦夷地』と呼ばれていた樺太。 この島は、北海道の
最北端、宗谷岬の北、約43キロに位置しており、1855年(安政元年)にロシアと
交わした日露和親条約の時点では、日露両国民混在の土地とされていた。 しかし
1875年の千島樺太交換条約で、明治政府が樺太を放棄したため、一旦は全島が
ロシア領となる。

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その後、日露戦争で戦勝国となった日本が、1905年のポーツマス条約により北緯
50度以南を再び領有する事になり、以後、第二次世界大戦敗戦までの約40年間、
日本による樺太各地の開拓が進められた。 1945年の終戦当時の豊原市
(現ユジノサハリンスク市)の人口は40万人程だったと言われている。

この1905年から1945年までの日本統治下時代、朝鮮民族は、労働者として南樺太に
移住し、終戦後、そのままサハリンに残留した。 日本の敗戦後、日本人の多くは、
樺太から船に乗って次々と去って行ったが、日本にもソ連にも属していなかった多くの
人々が、この地に残り、そのままソ連社会と同化した。 終戦当時、樺太在住の
朝鮮人は、約4万3千人ほど居たとされている。 1946年12月、米ソ間に交わされた
『ソ連地区引揚げ米ソ協定』では、引き揚げ者の対象は、以下の者だけに限定された。

①日本人捕虜 ②一般日本人 ③北朝鮮へ引き揚げを希望する在日韓国朝鮮人の
うち、北緯38度以北に居住し、且つ、同地域で出生した者
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樺太の朝鮮人の多くは、38度以南(韓国)出身者であり、且つ、終戦後、日本国籍を
外されたために、引き揚げ対象とならずに放置されてしまった。 樺太を去る日本人は、
朝鮮人を自国民として受け入れる事を拒み、更に朝鮮半島の不安定さがコミュニティを
中ぶらりんの状態にした。 

この朝鮮人達が樺太、現在のサハリンに移住したのには2つの説ある。 ひとつは、
日本人が朝鮮人をサハリンへ強制連行し、強制労働をさせたが、終戦後に朝鮮人
から国籍を奪い選択権を与えなかったため、朝鮮人が置き去りにされた。 もうひとつの
説は、4万3千人全員が日本のせいではなく、開拓者精神に富んだ朝鮮人自らが
新天地を求め自発的に渡ったとするもの。

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当時の動員計画では、約1万6千人が強制連行ではなく、徴用か募集であったため、
既に日本の管理下ではなかったソ連からの帰国支援には限度があり、日本が引揚げの
機会を奪った訳ではなく、戦後、韓国政府が全ての朝鮮人を日本国籍から離脱させる
事をGHQに要請し、サハリンの朝鮮人も自分を日本人ではないと主張したとも言われて
いる。 また、ソ連も朝鮮人の出国を許さなかった。 更に、受け入れに積極的ではない
韓国政府が帰還実現を拒否したとも言われている。

当時ソ連と韓国は国交がなかったため、朝鮮人の帰国は、日本が経由地となった。
日本は人道支援としていたが、韓国側は日本の戦争責任と捉え、日本に全部面倒を
押し付けた。 個人補償分も日韓基本条約で全て決着済みであったため、日本は
韓国に対して、国家予算級の莫大な金を渡したのである。

戦時下、朝鮮からの動員は官斡旋であった。 ブローカーの搾取と酷い労働条件で
働かされる事を防ぐ目的があった。 日本への個人渡航は制限があったため、密航で
入国していた時代。 内地に渡るために無料の戦時動員を利用し、隙を見て逃走する
朝鮮人も居たと言う。 現在、韓国への帰国対象とされている、サハリンの朝鮮人
1世は、約1,000人居ると言われているものの、韓国政府が、帰国に対して乗り気では
ないため、そのままの状態で捨て置かれている。

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このようにそれぞれの国の歴史に翻弄され続けながら、力強く北の大地で生き抜いて
いるサハリンの朝鮮人達は、ロシア人でも朝鮮人でもない自分たちのアイデンティティーを
持っている。 ロシア人からは朝鮮人的と見られ、韓国人からはロシア人的に見られる
サハリンの朝鮮人達だが、既に朝鮮語の能力をほぼ失っているため、残念ながら、
ロシアと韓国との架け橋にはなり切れてはいない。

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