横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:日系人

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    日本とブラジルの関係を語る時、日本人の移民とその歴史を抜きで語ることは
    出来ない。 日本からのブラジル移民が始まったのは、今から100年以上も前の
    明治時代まで遡ることが出来る。 明治時代に入り、日本は急激に近代化が
    進められたが、それに伴い、社会のあちらこちらに歪が生まれた。 農村では、
    今までお米で納めていた年貢をお金で支払うこととなり、貨幣経済に慣れて
    いない農民は、たちまち生活苦へと追い込まれた。

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    そんな生活から逃れるために、移民となって海外の新天地へと出掛けて行き、
    そこで働いてお金を稼ぐ人も出て来た。 出稼ぎ先は、はじめは、ハワイや
    アメリカ合衆国、メキシコ、ペルー等だったものが、やがて、アメリカの日本人に
    対する移民制限が始まった。 そんな時に、奴隷制度が廃止されて、労働力
    不足に悩まされていたブラジルから、日本政府に対して移民の誘いが届いた。



    【コーヒー農園での移民の暮らし】
    第一回の日本からの移民158家族、781名を乗せた笠戸丸が、ブラジルの
    サントス港に入港したのは、1908(明治41)年6月18日のことであった。
    日本からは、約50日間の船旅であった。 当時の移民の多くは、コーヒー農場に
    1年契約で雇われた。 移民家族は、農場内の住居に住み、朝から晩まで
    コーヒーの木の手入れをした。 1つの農場には、何万本ものコーヒーの木があり、
    家族ごとに木が割り当てられ、草取りからコーヒーの実の収穫まで責任を負わ
    された。

    収入は、出荷した袋の数に応じてお金が貰える仕組みであったが、出来の良い
    コーヒーの木があるとは限らなかった。 霜の害により、コーヒーの木が全滅
    することもあれば、逆に採れ過ぎて、価格が暴落してしまい、殆ど収入がない
    こともあった。

    日本からの移民の多くは、3~4年もすれば、沢山お金を稼いで帰る『出稼ぎ』の
    つもりで来ていた。 しかし、夢と現実の落差に気付き、ブラジルの大地に
    しっかりと根をおろして生きて行こうと決意する人達も居た。 また、ある人は、
    農業を辞めて、街に出て別の職業に就く人も出て来た。 このような苦労を重ね、
    日本人移民は次第にブラジルに定着して行った。

    この移民は、日本政府の援助の下に行われ、第二次世界大戦前にブラジルに
    渡った日本人の移民は、約19万人を超えた。

    Affiche

    【戦中、戦後の不幸】
    第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まると、ブラジルは、中立の立場を
    取っていたが、1942年、アメリカが属していた連合国側に付いて参戦した。
    そのため、ブラジルは、敵対する日本からの移民に対し、公の場での日本語の
    使用、日本語で書かれた書物の所持、日本語新聞の発行等を禁止した。 日本の
    敗戦をめぐっては、日本人移民同士での『勝ち組』『負け組』の対立にまで
    発展した。 『勝ち組』は、日本の敗戦を信じず、『信念派』、『負け組』は
    日本の敗戦を認め、それを知らせようとした人達で『認識派』とも呼ばれている。

    ブラジルに出稼ぎに来ているという認識が強かった当時の移民の中には、
    ポルトガル語を理解しようともせず、また、当時、日本で受けて来た教育の
    影響で、日本への想いが非常に強く、敗戦が信じられない人達も居た。 更に、
    日本語新聞の発行禁止により、情報が伝わりにくくなったため、孤立した人達も
    居た。 そのような人達が、『勝ち組』を襲って殺害する事件が、1950年頃まで
    続いた。



    【戦後の日本人移民】
    1951年、サンフランシスコ講和条約(対日平和条約)が日本とブラジルを含む
    連合国との間で結ばれると、翌年からブラジルへの移民が再開された。 敗戦後の
    日本は、外地から引き揚げて来た人達で人口が増え、食料が不足する状態で
    あった。 そんな時、ブラジルへの移民は、日本人にとって、大きな希望と
    なった。 戦後の移民も、初めは、農業移民が募られたが、そのうち、工業化を
    進めるブラジルと共同で事業を行う工業移民が募られた。 しかし、1960年代に
    入ると、日本が高度成長時代を迎え、経済的に恵まれるようになったため、
    1995年を最後に、ブラジルへの移民政策は、打ち切られた。 現在、
    ブラジルには、三世や四世等を合わせると、140万人以上の日系人が居ると
    言われている。



    【日本へ出稼ぎに来る日系ブラジル人】
    一方、最近では、ブラジルに移民した日本人の子孫である日系ブラジル人が、
    逆に日本に出稼ぎに来るという現象が続いている。 ブラジルは、1980年代から
    度重なる不況で失業者が増え、逆に、日本は、その時期には好景気となっており、
    人手不足が深刻となっていたため、ブラジルから多くの日系人がやって来た。
    日本政府は、外国人が仕事のために来日することを厳しく規制してしたが、
    1990年に日系人に対しては、三世までと、その配偶者に限り、日本での労働を
    認めたため、最大で、日系ブラジル人は、約30万近くまで膨れ上がった。

    その後、日本は長期に渡るデフレ不況に陥ったため、逆に、国策によって、
    ブラジルへの帰国が促され、ブラジル経済が活性化して来た影響もあり、現在、
    日本国内のブラジル系日系人は、15万人程度にまで激減りしているとも言われて
    いる。

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    19世紀のコーヒーの生産で発展したサンパウロ州。 その後も発展を続け、
    現在約4,000万人の人口を抱えている。 これは、ブラジル全体の20%以上に
    あたる。

    そして、州都サンパウロも郊外に向けてどんどん膨らみ、人口は1,000万人
    以上となっており、周辺部も含めると、1,500万人を超える大都市へと
    変貌した。



    サンパウロの街は、常に人、車、建物で溢れており、街のビジネス街や
    商業地区には、毎日沢山の人々がやって来る。 幹線道路には、車が列を
    つくり、朝夕のラッシュ時ともなれば、通勤ラッシュで大渋滞となる。

    サンパウロ中心部にあるサントロ地区とその周辺は、食料市場や雑貨の
    卸売り問屋が多く、終日かなりの人出がある。 更に、路上には、露天も
    出店しており、非常に賑やかな地区となっている。 中には、無許可で路上
    販売を行っている人達も居るが、そのような店の方が、むしろ、安く販売して
    いるため、買い物客は、誰もそんなことを気には留めていない。

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    サンパウロの北西にあるセアザ卸売市場では、魚介類や野菜等の生鮮
    食品の他、植木や生花等が集まっている。 その規模は、南アメリカで
    一番となっており、日系人も多く働いている。 特に、野菜、果物、植木、
    生花、養鶏は、日系人がブラジルで開拓した分野となっており、それまで、
    ブラジルでは野菜や果物を食べる習慣がなかったが、日系人がそれらを
    ブラジルに持ち込んだことによって、広まって行ったもの。

    日系人が多く集まっているリベルダージ地区では、毎週日曜日、東洋市が
    開かれており、この市では、東洋人には懐かしい日本食だけではなく、
    盆栽や金魚等の日本の文化を感じさせるものが沢山立ち並んでいる。

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    日本が長い鎖国の眠りから解き放たれ、海外渡航禁止令が解かれたのは1866年。
    これは、大政奉還が行われる前年に、御免の印章と呼ばれる、現在のパスポートが
    初めて発行されたのが、その始まり。 それ以降、100年以上にも渡り、日本人は、
    海外へと移民をしていた。 ハワイ王国のサトウキビ畑で働く労働者として、1885年
    から10年間で、約2万9千人の日本人がハワイへと渡った。 これを官約移民と呼ぶ。

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    その後、ハワイ王国が、アメリカ合衆国の一部となると、ハワイからアメリカ本土、
    並びに、日本からアメリカ本土、カナダへの移民が増えて行った。 しかし、当時の
    アメリカには、日本人移民を受け入れない動きが強くなっていたため、1899年には
    ペルー、1908年にはブラジルへの移民が始まった。
     
    2787fa56.jpg


    ブラジルに渡った日本人は、主にコーヒー農場の労働者として働いた。 当初は、
    海外で働いてお金を貯め、日本に戻る事を考えていた人が殆どであったが、次第に
    移住した国に定住する人が多くなった。 そして、1924年にアメリカで日本人の
    入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移って行った。 その結果、
    第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人の日本人が海外へ移住
    している。

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    第二次世界大戦が起こると、アメリカやカナダでは、日本人とその子孫である日系人は、
    敵とみなされた。 そのため、多くの人たちが土地や家を奪われたり、強制収容所へ
    入れられたりした。 南米でも、住む場所が規制されたり、日本人が経営する店が
    壊されたり、日本人学校が閉鎖されたりと、日本人移住者たちは、それまでと同じ
    暮らしが出来なくなった。

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    戦争が終った後も、北米や南米では、日系人に対する偏見や差別がなくならなかったが、
    そのような状況でも、日系人は、日本に救援物資を送る運動を起こし、毛布や粉ミルク等
    沢山の生活物資を日本へと送った。 これらの品々は、『LARA物資』と呼ばれ、日本人の
    6人に1人がその恩恵を受けた。

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    戦後、日本人の移民が再開すると、多くの日本人が南米へと渡って行った。 しかし、
    1960年以降は、その数も次第に減って行った。 そして、1993年には、国の方針として、
    移住者を海外へ送る事が中止された。 
     
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    ここ十数年、かつて日本人が移住した国々、特に南米から、日系人とその家族を合わせて
    約30万人の人たちが就労や勉学の目的で来日している。 こうした経緯から、日本人の
    海外移住の歴史、そして移住者とその子孫である日系人について、広く理解を深める事を
    目的として、JICA横浜に海外移住資料館が開設される事となった。



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    「バンクーバーの朝日」は、2014年12月20日よりロードショー。 戦前のカナダで活躍し、
    2003年にカナダ野球の殿堂入りを果たした日系移民の野球チーム「バンクーバー朝日」の
    実話を映画化したもの。

    1900年代初頭、新天地を夢見てカナダへと渡った多くの日本人が、過酷な肉体労働や
    貧困、差別という厳しい現実に直面する。 そんな中、日本人街に誕生した野球チーム
    「バンクーバー朝日」は、フェアプレーの精神でひたむきに戦い抜き、そんな彼らの姿は
    日系移民たちに勇気や希望をもたらし、白人社会からも賞賛と人気を勝ち取って行く。

    バンクーバーは、トロントからは、飛行機で5時間、バスで5日掛かるため、行った事は
    ないのだが、その昔、カナダに留学を決めた際に、このバンクーバーだけはとりあえず
    外した。 その理由は、日本人が多過ぎるため。 話によると、このバンクーバーには、
    約2万人の日本人、並びに、日系人が住んでいるとか。

    日本人にとっては、確かに、仕事が見つかり易いのかもしれないが、そんな楽をして
    しまっては、語学習得にはならないと考えたため、あえて、日本人の比率がさほど高くない、
    カナダ最大の都市、トロントを選んだ。 今でも、その選択は、間違っていないと思う。
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