戦後の香港は、著しい経済発展の時代でもあった。 戦前の香港の主要産業
であった中国大陸との中継貿易は、共産党政権の誕生によって、大きな打撃を
受けたが、大陸から香港に来た資本家が工業を興し、難民がこれに労働力を提供し、
香港はやがて台湾、韓国、シンガポールと共に『アジア四小龍』と称される。
新興工業経済地域(NIES)に数えられるようになったのである。

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しかし、庶民の生活は苦しく、植民地支配の下、政府の福祉や弱者対策も不十分
であった。 このため、1960年代までの香港では、暴動も頻発した。 1956年の
九龍半島と新界の工業地区での暴動は、戦後初めてのものであり、10月10日の
中華民国の建国記念日に、公共住宅に中華民国旗を掲げることへ不満を持った
親国民党の派閥が起こした右派暴動であった。 1966年4月6日には、香港島と
九龍を結ぶ庶民の足『スターフェリー』の値上げに反対する運動が暴動化した。

中でも大規模なものは、大陸の文化大革命の影響を受けた左派系の派閥が主導した、
1967年の暴動であった。 同年5月、九龍の造花工場の労働闘争が、香港政庁批判の
政治運動と化した。 これを背後で共産党組織、広東省の紅衛組織が支援し、
暴動化した。 8月には左派は、時限爆弾によるテロを開始し、半年以上の
混乱の中、政府公表で死者51人、負傷者848人、逮捕者は5,000人以上、秘密裏に
大陸に追放された者多数という悲劇を産んだ。

これにより、香港の左派は、大きく信用を失ったが、同時に香港政庁もこれまでの
高圧的な統治への反省を迫れらた。 1970年代になると、『中文公用語化運動』や
『保釣運動(尖閣諸島の防衛)』など、地元意識の高まりを象徴する学生運動が
多発した。 イギリスの労働党政権も、香港の福祉の充実を香港政庁に対して
求めた。

政庁と市民は、それまで政庁が政権を独占し、地元市民の生活は、半ば放置された
ような状態にあったが、経済、社会の発展に伴い、相互に要求を伝えたり、民意を
聴衆したりする必要性を認識した。 民主化は行われなかったが、香港政庁は、
詰問などの仕組みを通じて、民意を汲み取ることに努めた。

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