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    タグ:政治改革

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    19世紀の前半を通じて、アッパーカナダとローワーカナダは発展を続けた。
    道路と運河が建設されて交通が便利になり、農耕地も増えた。 1809年に
    カナダで建造された蒸気船がモントリオールとケベック間を運航するようになり、
    7年後には五大湖でも航行が始まった。

    人口が増加し、通商が発展するに連れて、植民地の統治方法への不満も高まった。
    統治権は少数のイギリス人が握っていた。 通商の上で殆んど力のないフランス系
    カナダ人は、19世紀の初期に移住して来た何千人というイギリス人によって、
    自分たちの文化と生活様式が脅かされるという不安と抱いていた。

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    イギリス系の支配に対抗して、政治改革を要求する気運が高まり、1837年に
    2つの反乱が起こった。 1つは、ローワーカナダの政治家ルイ・ジョゼフ・
    パピノーを指導者とするもので、もう1つはウィリアム・ライアン・
    マッケンジーが率いるアッパーカナダの抵抗運動だった。 反乱は共に、
    イギリス軍と民兵により、あっけなく鎮められ、2人の指導者と支援者たちは
    アメリカ合衆国へ逃れた。

    この2つの反乱が切っ掛けとなって、イギリス議会はカナダの状況を調べるために
    ダラム伯ジョン・ラムトンを派遣した。 ダラム卿は、イギリス領北アメリカ
    植民地に大幅な自治権を与えてはどうかと進言した。 イギリス内閣は、
    この改革は拒んだものの、アッパー、ローワー両植民地のを統合すべきだという、
    ダラム卿のもうひとつの勧告には賛成した。 1841年に統合された領土は、
    『連合カナダ』と命名された。

    1840年代になると、イギリス領北アメリカ植民地の諸州(その頃には連合カナダ、
    プリンスエドワードアイランド、ノバスコシア、ニューブラウンズウィックが
    含まれていた)は、責任政府である地方自治を目指した。 1850年頃までには、
    その殆んどの州が責任政府を建てて、ある程度の自治を行うことをイギリス本国から
    許されるようになった。

    イギリス領北アメリカは、隣国アメリカと足並みを揃えて発展した。 通商が
    始まり、互いを結ぶ鉄道も敷かれた。 イギリス領北アメリカはこの機会を
    利用して、織物業、漁業、木材の伐採搬出業、製粉業などをはじめとする
    経済活動を盛んにした。

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    フランス革命のヨーロッパの人々に、社会変革に参加する勇気を与えた。
    1840年になると、チェコ人の作家や指導者たちは、政治改革とボヘミア、
    モラビア内部にあるドイツ権力に終止符を打つことを求めた。 パラツキーは、
    ボヘミア王国の歴史と文化を呼び覚ます『チェコ民族の歴史』を書いた。
    公立学校では、チェコ語を教え、詩人、作家、ジャーナリストはチェコ語で
    文章を書くようになった。

    15563983

    パラツキーは、有力な政治的指導者となり、1848年末、プラハ、ウィーンを
    はじめ、ヨーロッパ諸都市で革命が起こった。 しかし、ハプスブルグ皇帝、
    フランツ・ヨーゼフはスラブ民族会議の提案を拒否。 ハプスブルグ軍は、
    プラハの革命を鎮圧し、ボヘミアとモラビアに戒厳令を敷いた。 180年代に
    入ると、ボヘミア王国領であるボヘミアとモラビアは、オーストリア帝国に
    取って代わったオーストリア・ハンガリー二重帝国に編入された。

    1800年代終わり、ボヘミアとモラビアに住むドイツ人と、チェコ人との間の
    長年の対立が深まっていたが、政府は、帝国内の諸民族の平等の権利を打ち出す
    政策を採り、チェコ人のためにチェコ語で法律を書くようになった。

    【お勧めの一冊】


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